蘋婆果【2】


突き上げながら、のけぞっている首筋に口を寄せる。喉仏の辺りだけでなく、顎から耳元までのラインもなぞっていたが、その上の唇に触れようとすると顔を背けて避けられた。

「今更……」

ここまで体を許しておいて、キスを拒まれるとは予想外だったらしく、相川は眉をひそめた。西川は眼前の光景が現実のものとは思えず呆然としていたのだが、その理由には心当たりがあった。

「好きな相手としか、したくないんだってサ」

相川は西川の存在を忘れていたらしく、ギョッとしたように振り向いたが、やがて軽く息を吐いて「西川君は、したことあんの?」と尋ねた。

「したことあるっていうか、なんつーか」

勢い余ってぶつかったとか、寝ぼけて食いつかれたことならあるけど、あれをカウントして良いものかどうか悩ましいし、相川相手にそこまで暴露すべきでもないだろう……と言葉を濁した。相川は訝しそうに西川を見ていたが「ふうん」と小さく呟くと、ガッと八軒の顎を掴んで強引に顔を向けさせ、唇に吸い付いた。塞がれた唇から、くぐもった悲鳴があがる。

「ちょっ、んな無理やりするこたないだろ」

そこで相川が上体を引いたのは、西川が止めたからではなく、舌に噛みつかれかけたからだ。ガチッと歯が噛み合わされる音を聞くに、ホンキで噛み切るつもりだったに違いない。

「危ないなぁ……そんなに怒らないでよ。合意でしょ?」

ぐっしょりと汗で濡れている髪を優しく撫でてやるが、うるさそうに首を振ってそれを避けられた。

「じゃあ、そろそろイかせてもらっていい? 好きな体位があれば、リクエスト聞くけど」

「も、やだ。抜いて」

「つれないなぁ。じゃあ、ヌくよ?」

あ、多分、こいつら会話通じてない……と、西川が指摘する間もなく、相川はそのまま腰をすすめて強引に登り詰めた。




「べたべたする……」

相川は自分のTシャツの衿をつまんで、パタパタさせた。結局、スラックスの前を緩めただけだったので、熱が衣服の内側にこもっていたのだろう。その横で、ぐったりと横になった八軒が荒い息を吐いている。弱々しく手を差し出され、その意図が分からずにとりあえず握り返してみたら「ちげーよ、バカ。眼鏡」と罵られた。

「あ、ごめん」

「止めて、って言ったじゃん」

「いや、止めたけど、おまえがノリノリになってたんじゃんか」

「俺の意志じゃないもん、多分。媚薬のせいだもん」

そう言われてみればそうかもしれないが、だからといって無理やり引き剥がせるような雰囲気でもなかったし……と、西川がボヤく。相川は「へぇ、効果あるんだねぇ」と他人事のように感心していた。

「なんか、まだ火照って、ボーッとしてる」

「足りない? 西川君にもシてもらう? 西川君は、まだみたいだし」

ふらふらと上体を起こした八軒が、西川に潤んだ虚ろな視線を向ける。確かに、今ここで「ヤらせて」と頼めば簡単に体を開いてくれそうな雰囲気はあったが、西川は、そんな状態につけ込んでしまうのは気が引けた。例えここで受け入れたとしても、媚薬の影響下であるのならば、本人の意志とは裏腹なのかもしれないし、そもそも、そんな性欲処理に使うような真似はしたくない。

「その、俺はちょっと、いいわ」

「そうだねぇ。西川君、別に八軒君が好きとか、そーいうんじゃないもんね。カモフラージュっていうか、ダミーっていうか、元々そうだったしね」

「そういうヤな言い方すんなや……ハチ、そういう意味じゃなくって、だな」

慌ててフォローしようとしたが、八軒は目を逸らした。
「そうだよね、うん、西川、変なこと頼んで悪かった。ごめん。俺、ちょっと、頭冷やして来る」と生気なく呟いて、はだけていた服をもそもそと直すと、その上にコートを羽織った。

「ハチ、ふらついてるけど、大丈夫か?」

西川が手を貸そうとしたが、うるさそうに払って出て行ってしまった。

「相川、ああいう言い方ないだろ。せっかくハチの気分転換にでもなりゃいいって思ってたのに、逆効果だろーが」

「僕は実験の手伝いを頼まれて、ご要望通りにしただけなんだけどなぁ」

相川は愛想良い笑みを浮かべたまま、スッとぼけている。

「西川君もシンドそうだったから、ヌいて貰えばいいのに、って思って勧めただけなんだけど……それとも僕が手伝ってあげようか?」

「いらんわっ!」

西川はツカツカと窓に近寄り、全開に開け放った。面格子越しとはいえ、新鮮な、しかし冷たい風が遠慮会釈なく吹き込んで来る。

「あー…涼しい。なんか匂いもこもってたから、ちょうどいいね」

相川はのんきにそんなことを言いながら、八軒のベッドの上で寛いでいる。いいからさっさと帰れよ、と西川はそれを横目で睨み……ぶるっと身震いしてくしゃみをした。




明日も学校で会えるというのに別れ難くて、校門の辺りでずっと立ち話をしていた。正確にいえば、カノジョを自転車のサドルに座らせ、自分は雪の上で足踏みをして爪先がかじかんで感覚がなくなるのに耐えながら、だ。そこまでしてカノジョとドラマの話だの、クラスメートの噂話だのといった、つまらない話を続ける価値があるのかといえば、胸を張って「ある」と言いきれるのが、お花畑の恋愛脳というべきか。

「今週末は、ステラ行きたいな。ヨーカドーのプリクラ、ダサいって。ミッちゃんにカレと撮ったの見せびらかされて、悔しいし」

「いや、今週は当番週だから、札幌までは無理……来週の日曜なら朝の掃除だけだから、なんとか行けるけど」

なにしろここは、憧れのデートスポット・札幌駅ビルのステラプレイスまで、電車で片道4時間もかかるド田舎なのだ。

「つっくん、いつも部活部活って。部活とアタシとどっちが大切? それともあの地味なロン毛の女にまだ会ってるの?」

「いや、豊西先輩はもう引退して居ないから。そもそも先輩とはそういう仲じゃないし」

「でもアタシより、ずっと長い時間居るよね、アタシと会うより、部活優先だよね」

「だから、馬術部に入れば良かったのにって……今度のデート、なんか欲しいのがあったら買ってあげるから」

「ホント? じゃあ、バースデーストーンベアって、くまちゃんに誕生石がついたチャーム買ってよ。ステラに店があるんだけど、なんまらメンコいの!」

目を輝かせながら語りだしたカノジョが可愛く見えるのは、あばたもえくぼというヤツだろう。来週か。いくらするんだろ……仕送り前で生活費キツいけど大丈夫だよな、多分。足りなかったら、晩飯抜いて灯油ストーブ焚くの我慢しよう……などと依田が考えていると、背中にぽすっ、と何かがぶつかった。

「アンタ誰?」

カノジョが訝ったのを見て、初めて誰かが背中にしがみついているのだと気付いた。振り向いて、小柄なコートの俯き加減の顔を覗き込む。

「八軒か。どうした? なんかあったのか?」

「なあに、知ってる子?」

「部活の後輩……八軒、なんかよくワカランけど、ここじゃアレだから、とりあえず部室に行くか?」

うちに連れて帰るには時間が遅すぎるし、いくらスノータイヤの自転車とはいえ、この季節の二人乗りは危険だ。八軒がこっくり頷いたのを見てとると、カノジョに向き直って「ごめん、また明日、な?」と、片手を立てて拝む仕草をしてみせた。

「もう。またブカツカンケー? じゃあ、くまちゃんに追加して、雪印パーラーのパフェね」

カノジョが自転車から降りて、小走りに帰っていく姿を見送ってから「で、何やらかした」と、依田はやや尖った声を出した。

「ステラで売ってるのって、スターなんとかってブランドのでしょ? 確か七千円ぐらいしたと思いますよ。たかがストラップにそんなカネかけるのバカらしいから、似たようなデザインの百円均一にしたって、多摩子が鞄にぶら下げてた」

「えっ、マジでそんな値段すんのかよ! じゃ、なくって! どうしてこんなとこに居るんだ、おまえ」

「寮生だから、二十四時間敷地内に居てもおかしくないですよ」

「俺が怒る前に、真面目に答えろ」

「……頭冷やそうと思って、外に出たら、先輩見かけたから」

いくら見かけたからって、こっちはカノジョと居たんだから、空気を読んで遠慮しろ馬鹿……と腹立たしく思ったが、尋常ではない雰囲気を察して、とりあえず部室に戻った。




鍵を開けて電灯を点ける。暖房はやや躊躇したものの、どうせ自分が灯油代を負担するわけじゃないしと居直って、ストーブを点けた。がたつくパイプ椅子を引き寄せて腰を下ろすと、手をかざす。

「うー…さびぃ……お前もこっち寄って火に当たっとけよ。いくら頭冷やすっつっても、風邪引くべサ」

「あ、はい」

もそもそと近づいてくる後輩に視線をはしらせ、その首筋にいくつも淡い紅色の染みが浮いているのに気付いて、依田は眉をしかめる。

「なにそれ、例の先輩の?」

「えっ?」

「首の」

「ああ、これ? いや、違う」

「違うって、それどー見たって、アレだべサ。キスマーク」

「だから、違うって」

「違わねーべ。この季節だから虫に食われたんでもなし……って、ああ、そうか。違うって、そういう意味か」

依田は気まずそうに目をそらすと「その、イヤなら無理して答えなくていいけど……合意か?」と尋ねた。

「合意、になるのかな? 最初はイヤだったんだけど、途中から、その、クスリの効果? みたいな感じで」

「なんだよ、クスリって。ドラッグでも使われたのか? それって強姦じゃねーか。怪我とかさせられなかったか?」

「怪我は無い、と思うけど」

「どれ」

招き寄せてコートの前をはだけさせると、内側に篭っていた熱っぽい汗の匂いが、ムワッと広がった。念のために部屋着らしいヨレたトレーナーとシャツを捲り上げてみたが、確かに首以外にほとんど痣や傷らしきものは見当たらない。

「で? 人の恋路の邪魔をして、一体、俺にどうせぇっつんだよ。このまま厩舎に引きずってって、リアルに馬に蹴らせるぞ、コラ」

ホッとした反動でつい口調がキツくなるが、八軒は依田の不機嫌にはお構いなしにもたれかかってきた。

「どうって、お願いしていいの? なんかカラダが火照っちゃってサ」

「ちょっ、待てっ、落ち着けっ、どうしてそうなるッ! そーいうのはちゃんと本命に頼め、本命にッ!」

「だって、三年生は忙しそうだし」

「だからって、外注するか、フツー!? まぁ、その件は後でシメるとして、だ」

座っている膝に凭れて甘えかかってくるのを、テキトウにあやしながら「で? クスリって、どんなの使ったんだ」と、問い質した。

「クスリっていうか、媚薬を作るテスト、みたいな? そんで、ちょっと人体実験を」

「は? 何やってんだ、馬鹿。変なもん調合して飲んだのか? もう吸収されてるかもしれないけど、念のために吐けそうなら吐けるだけ吐いとけよ。バケツちょっと取ってくるわ」

「いや、飲み薬じゃなくて」

「注射か? ますますヤバいだろ。つーか、ヒト用の注射器なんて無いだろ。まさか家畜用の使ったのか?」

「注射器じゃなくて……そんなの、なんでもいいじゃん。それよか、サァ……いいでしょ?」

焦れて抱きついてくるのを「よくねーよ。おかしなヤツだったら、病院行かンきゃないゾ?」と、押し返す。そんなふうに揉み合っているのをポンコツのパイプ椅子が支えきれる由もなく、バランスを崩してバタンと派手な音を立て、引っくり返った。八軒はとっさに(ストーブにぶつかったら、危ない)と、相手を庇おうとしたつもりらしいが、頭の回転に体の動きが伴わないのは相変わらずだ。気がつくと、むしろ守られるように抱き込まれた形で、ふたり床に転がっていた。

「いッてぇ……背中打った。よく考えたら、どうせ八軒なんだから、放り出せば良かった」

「どうせ八軒ですよ、畜生」

「まったくだ。どけ、重い」

「え、やだ」

そのまま首筋に噛み付くようにじゃれついていると、頭をぽこんと叩かれる。

「いいから、まずは全部正直に吐け。誰と、何を、どうしたんだ?」

「意地悪」

「当たり前だ。俺はお前のカレシじゃねーんだぞ」

そこまで言われて観念したのか、八軒は体を起こして床にぺったり座り込み、ぼそぼそと喋り始めた。依田も床にあぐらをかいた格好でしばらく黙って聞いていたのだが、ふと「それって、あんま、媚薬関係なくね?」と呟いた。

「そうなん? ケッコー効果あったと思うけど?」

「そりゃ、そんだけべたべたしてたら、好きでなくてもムラッとするだろうけどさ……でも、甲状腺ホルモンだろ? 俺、生理学とかよく分からないけどさ。喉を刺激したぐらいで簡単に分泌するもんなの? しかも元ネタ、ネットなんだろ? もしかして、からかわれたんじゃね、お前?」

「えっ」

八軒がキョトンと目を丸くしたが、やがてみるみる頬が赤らみ……ガバッと立ち上がって馬上鞭を掴むや、部室を飛び出してしまった。




「実際ンとこは、脳からの刺激で分泌量が決まる物質だからサ。ほら、ストレスで左右されたり、とかね。冷静に考えたら、そうでしょ? 外部から刺激したぐらいで分泌させられるんだったら、甲状腺ホルモンの欠乏による自律神経失調症なんて、存在しない訳でサ。これがホントだったら、媚薬が作れるどころか、学会に発表してノーベル医学賞が取れるレベルのハナシだよ」

相川はケロッとして言い放った。

「おまっ、だったら最初から分かってて、ハチをからかったのかよ。先輩にしばらく会ってないからって、寂しがってるところにつけ込んだようなもんじゃねーか」

「生物学の授業でホルモン関係のことやったばっかりだし、すぐに分かるだろうって思ってたのにな。八軒君ってば、授業の内容は授業の内容で帰結しちゃって、応用が利かないみたいだねぇ。でもほら、噛み付かれて発情したのは確かでしょ」

「場の雰囲気っつーか、プラシーボ効果みたいのもあるんだべな。要は、ドキドキしたらいいんだろ?」

「そそそ。動悸がしたら恋かもしれないと勘違いするって、心理学でいうところの『つり橋効果』ってヤツ。そういえば、つり橋も甲状腺も関係ないけど、馬は交尾んときの前戯で、雄が相手の首筋に噛み付いたりするよね」

「……よね、とか言われても、俺は酪農科じゃねーし、実家で馬は飼ってねーから、そんなん知らねーし」

「首を噛まれて、思い人のことも忘れるほど興奮するなんて、八軒君って、ホントにいろんなトコで馬っぽいんだねェ……さァて、汗も引いたことだし、僕、そろそろ部屋に戻ろうかな」

よっこいしょと相川が立ち上がった、まさにその瞬間、猛烈な勢いでドアが開いた。


【後書き】元ネタはtwitterで流れて来た、この与太話です。
【媚薬の作り方】もっと簡単なのは首に噛み付くことです。首元には甲状腺ホルモンを生成している器官があるのでそこに噛み付くのです。甲状腺ホルモンには心拍数を上げる効果があり、噛み付く→密着する→心拍数上がる=恋?!となるわけです。簡単に言えば釣り橋効果と同じ!【臨床医学の産物】>RT
同じ元ネタを使って、銀魂でもSSを書いています。よろしければ、どうぞ。
>> 『罪の果実を男は喉に、女は胸に。』 ※ノマ注意。銀たま前提です。予めご了承ください。

なお、依田先輩のカノジョがおねだりするシーンでの台詞は、イマドキな女子高生が欲しがりそうなものが思いつかずに、女子力の高い友人らにアドバイス頂きました。むしろ、モデルにしたブランド名を聞いた家人の方が「それ、宝石屋。どっちかゆーとリーズナブルな部類の」とあっさり当てたことに驚愕して、あらためて自分の女子力のなさにガックリ。
なお、書き始めた時点では番外編扱いにする予定だったし、アダムのりんご、はのど仏の意味だし、『罪の果実』だし……などと考えて「りんご」というタイトルだったのですが、本編に編入するにあたり、漢字三文字で表記できないかと。りんごの中国語表記「苹果」の語源(サンスクリット語のBIMBARAまたはBIMBAの音訳)を借用してみました。本来の「蘋婆果」は「鳳眼果」ともいい、りんごとはまったく異なる果実とのこと。
初出:2013年02月10日
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