みるく【3】


子豚はすぐに宿直の先生の車で獣医の家へ連れて行かれたが、自然に目を覚ましたことだし命に別状はないだろうとの診断だった。心配だからと頼み込んで同行した栄は、ホッと胸を撫で下ろした。

「良かったねぇ、ハチケンちゃん」

「お腹の調子も良さそうですしね。ついでだから去勢手術でもしておきますか?」

早朝に自宅に押し掛けられて叩き起こされた割に、特に処置の必要もなかったのが面白くなかったのか、ドングリ目の獣医は目玉をぐりぐりさせながら、先生に尋ねる。

「いや、それぐらいウチの生徒でもできるから」

「そうですか」

獣医はいかにも惜しそうにハチケンの股間を見やったが、ハチケンは『お断りだ』と言わんがばかりにフーッフーッと鼻息を荒くして威嚇していた。




寮に戻ったのはちょうど朝食時で、相川や西川らも駆けつけて「大丈夫か」「良かった」と口々に声をかけた。だが、床に下ろされたハチケンは周囲をキョロキョロと見回すと、その輪からポツンと離れていた御影を見つけるや、そっちに向けて性懲りもなくトコトコと近寄って行った。

「あっ、こら、ハチケンちゃん」

「危ないんじゃね? ちょ、ハチ、戻って来い、おいこら。ミルクやっから」

泣きはらしたのか目をまっ赤にしていた御影が、虚ろな視線を子豚に向ける。

「……怒ってる?」

御影がそう呟くと、ハチケンは(さすがに尻尾は怯えを隠せず、足の間に挟み込まれていたが)鼻面や頭を御影の足に擦り付けて、キューキューと鳴いた。

「さっきはごめんね。でも、八軒君がいなくて、どこにもいなかったことになってて、一緒にピザ作ったり、夏休みにうちに手伝いに来てくれたり、子豚に名前をつけたりして可愛がってた八軒君は、一体どこに行ったんだろうって思うと苦しくて、それで混乱しちゃって、アタシ」

その呟きに、多摩子が首を傾げた。先日、同じようなことを、兄も口走っていたっけ。

「もしかして、それってハチケンユーゴっていう眼鏡の子で、札幌から一般入試で入って来た、とか?」

「そう、そうそう! そうなの、タマコちゃんも覚えてるの? 八軒君のこと!」

「ゴメン、私は全然……でも、兄さんがね、そんなことを言ってたから」

多摩子の返事に御影は露骨にがっかりして肩を落としたが、それを聞いていた木野と円山が顔を見合わせた。

「そういや、多摩子のお兄さんが昨日、うちの部室に来て、そんなこと聞いてたよな」

「そうそう。ピザ窯とかベーコンとか犬のこととか、結構こまいことを延々と……あんときは御影さん、居合わせてなかったんだべか?」

多摩子はしばらく何かを考えていたようだが、ふと携帯電話を取り出した。

「もしもし、兄さん? 良かったら放課後、お時間頂けるかしら? こないだおっしゃってたハチケンユーゴって子の件で、お会いさせたい方がいらっしゃるの」




馬術部の部室前で、子豚と子犬がじゃれあっていた。やがて子犬が負けを認めたのかコロンとひっくり返り、子豚が鼻先でその腹を熱心に突つき回している。

「八軒、元気そうだな。今日、病院に運ばれたらしいが、大丈夫か?」

稲田に声をかけられ、ハチケンは驚いたようにぴょこんと跳び上がると、子犬を放って一目散に駆け寄って来た。

「多摩子のお兄さん、ですね? 御影アキです」

その後ろには馬術部の一年だけでなく、多摩子や相川、西川も居る。

「多摩子から大体のところは聞いてる。お宅の部長さんも、一緒の方がいいんじゃないかな」

八軒のことを覚えているという女子生徒の名前を聞いても、稲田は驚かなかった。むしろ、当然の結果だとすら思えた。どんな力が作用してどのようなメカニズムによって記憶が塗り替えられているのかは知らないが、より深いところにある『想い』ほど書き換えに手間がかかるという仮説は、当たらずとも遠からずなのだろう。

「さて」

依田も部室に現れ、皆はそれぞれパイプ椅子を出して座った。

「話を整理しよう。このエゾノーに八軒勇吾という生徒が居た筈なのに、誰も覚えていない。その存在を示唆する物的証拠も消えてしまっている。その一方で、この子豚がひょっこりと現れた……はっきりしているのは、それだけだ。覚えているのは俺と……御影さん、アンタぐらいか。だが、記憶違いでない証拠には、八軒の書いた書類がまだ残っていた」

そういうと稲田は携帯電話を取り出し、画像フォルダを開いてみせた。幸い、画像データはまだ改変されておらず、四角いボールペン字はくっきりと残っている。それを見て現実主義者である筈の多摩子が「まるで神隠しね」と呟き、西川は「俺もチョコチョコと記憶に違和感っつーか、引っかかることはあったんだけど……ハチのやつ、罰でも当たるようなことやらかしたんかなぁ?」とボヤいた。

「それ、イイ線いってるかもしれない。八軒君、山に迷い込んだっきり、戻って来てないの」

「山? もしかしてそれ、俺も一緒に行ってない?」

「そう、マロンが暴走しちゃって、依田先輩が、危ないから自分一人で追っかけるって……でも、戻って来たのはマロン号だけで、八軒君は居なくて……気がついたら居なかったことになってて。そしたら、この子豚ちゃんが現れて」

御影はそこまで言うと泣き出してしまい、依田は自分に視線が集中しているのを感じて「いや、ちょっ、俺のせいになってる? もしかして!」と喚いた。

「と、ともかく、その現場に行ってみようか。稲田さんとは、昨日からそういう予定にしてたし……御影さんは待ってて」

「いや、私も行く!」

ボロボロと涙を流しながらも、御影はそう言い張った。多摩子が見かねて御影にハンカチを差し出し、肩を抱いてさすってやる。

「でも、俺らそこに馬で行くつもりだから。そんな精神状態で馬に乗るのは危ないよ」

依田がそう言い聞かせて椅子から立ち上がり、栄が「今日のアキちゃん、なんか不安定だから、そうした方がいいよ。一緒に、ここで待ってようよ」と、御影を宥めた。
部室を出て、依田と連れ立って厩舎に向かいながら、稲田が思い出したように「馬って、俺も?」と尋ねる。

「だって、人の足じゃ無理ですよ。かなりの距離があった筈ですから」

「さすがに馬術部の連中と一緒に山中を歩くほどの技術は持ち合わせてないぞ」

「マロン号に二人乗りでいけるでしょう。ハチケンはどうする?」

厩舎に入ったハチケンは、柵越しにマロン号と対面して、その体格差にビビっている様子だった。一方、マロン号は、固まっている子豚の全身をフンフンと無遠慮に嗅ぎはしたが、稲田が抱いたまま鞍に跨がるのを拒んだりはしなかった。

「さぁ、マロン。こないだ行った山、覚えてるな? お前が逃げたのを、俺が追いかけたろ? そこまで連れていってほしいんだ」

依田がそう囁いて首筋を撫でてやると、マロン号はぷるぷると頭を振ってから、おもむろにトコトコ歩き始めた。




白樺の林とクマ笹の茂みが続き、澄んだ水が流れる浅い沢を何本も踏み越える。
この景色に見覚えはあるかと尋ねようとしたが、依田が何度も額を押さえる仕草をしているところから察するに、偽の記憶とホンモノの記憶が脳内でせめぎあっているのだろう。稲田の腕の中のハチケンも落ちつかない様子でフンフンと鼻を鳴らしている。
万が一、罰当たりなことをしたのが事実として……その怒りをどう鎮めればいいのだろう。お供えとして一升瓶でも持って来るべきだったろうか、と稲田は少しだけ後悔した。

森の中で迷子になっているような気がして、何度も同じ道をぐるぐる回っているのではないかと危ぶんだが、やがて視界がぽっかりと開けた。

「部長さん、大丈夫か? ここじゃないのか?」

「えっ、あ……」

依田は、半ば意識を失いかけていたらしい。

「おいおい、頼むよ、アンタがブッ倒れたら、まともに馬を操れるヤツがいないだろがよ」

「スンマセン。ああ、確かにここらへんかも……そこの石に見覚えがあるワ」

「石?」

確かに道端に石が積み上げられている。何かの石碑か墓? あるいは仏像のようなものだろうか。馬から降りた二人と一匹が、そこに近づく。その石に布が絡みついているので地蔵尊のよだれかけかと思ったが、よく見ると無造作に掛けられた男物のシャツだった。見回すとスラックスや肌着も脱ぎ散らかされている。あー…と依田が何かを思い出したように、頭を抱えた。

そうだ。ここで、やらかしちまったんだっけ。
不意に、白い肌身や吐息の感触が脳内に蘇って膨れ上がる。

稲田はそれを横目に「八軒、これ、お前の服で間違いないな?」と尋ねると、ブィッという返事を待たずに、拳を振り上げた。




一瞬、目眩がして視界が暗転した。
まるで、逆に自分が殴られたかのような衝撃。脱力した体が大きくよろけたが、なんとか踏み堪える。見回した周囲の景色が一瞬、まったく見覚えのないもののように思えたが、次第に馬でここまで来たことを思い出す。ぶん殴られてへたり込んでいる依田と、子豚と一緒に。子豚? 子豚が見当たらない。

「八軒?」

「あ、はい、ここです」

思いがけず返事があった。振り返ると、拾い上げた服をきちんと着た八軒が、しゃがみ込んで石の塔の汚れを掌で拭っていた。

「それ、墓か何かだったのか?」

「仏像ですかね? なんか、この石、よく見たら顔みたいなデコボコがあって、それが重なってトーテムポールみたいになってて」

依田が頬をさすりながら「アイヌ?」と呟いた。
厳密にいえば、観光用のものは別として、古来のアイヌ民族にトーテムポール文化はない。だが、アイヌ民族のものではなかったとしても、太古の北海道にはいくつもの民族が住んでおり、それぞれが栄枯盛衰の中で北に追われたり滅ぼされたりしてきたのだ。例えばコロポックル伝説には、そのような『アイヌ以前の原住民』の記憶が投影されているという学説もある。だから、人が殆ど踏み入らない山奥にそのような知られざる一族の史跡が残っていても、おかしくないのかもしれない。
歴史や考古学を学ぶ学生であったなら「大発見だ!」「学会に発表できるんじゃね?」などと興奮するところだったろうが、八軒は「せっかく眠っていたのに、騒がせてしまってごめんなさい」と声をかけて、きれいになった塔に深々と頭を下げただけだった。

「それにしても、なんで豚にされたんだろうな」

「さぁ? でも、下に転げてたてっぺんの石の顔、豚に似てたし」

「しかも、石こかしてたのか、お前ら。ホント罰当たりなことやらかしたんだな」

稲田が呆れて依田を見下ろす。もう二、三発殴らないと気が済まないと、依田の胸倉を掴もうとしたところで、八軒が割って入って「元に戻ったんだから、もう、いいじゃないですか。今度、神様へのお詫びに、お供えでも持って来ましょうよ。ね?」と、宥めた。




「アレ、依田先輩、顔どうしたんですか。落馬でもしたんですか?」

部室に戻って来た三人を見て、開口一番に尋ねられたのはそれであった。

「んー…まぁ」

男同士の痴情のもつれで殴られました、とは言い難い。むしろ『アレは出来心でした、もうしません』と土下座しただけで水に流してもらえたのが幸い。よくぞ、その場に埋められずに帰ってこれたものだと思う。
一方、元に戻った八軒の姿を見ても、不思議と誰も何もツッコまなかった。どうやら、皆の記憶も元に戻ったらしい。唯一、御影だけが、そっと側に寄ると「おかえりなさい」と囁いた。

「ただいま」

「ねぇ、八軒君。子豚になってた時のこと、覚えてる?」

「なんとなくボンヤリと、ぐらいかな」

「その、私、八軒君に悪いことしちゃったから」

「ああ、それは気にしてないよ。むしろ、それだけ心配してくれたってことだから。ありがとう」

依田はその二人の様子を遠巻きに眺めながら、憮然としている稲田の肩をポンポンと叩いてやった。

「そういや山の神様って、女性でしたっけ。なんだかんだ言って、最後は女にゃかなわないってことですかねェ」

「んだよ、また殴られたいのか?」

「別に。散々苦労したのに、最後の最後にかっ攫われちゃって、気の毒だなァ……って」

ちょっとだけ、ザマァ、とも思ってますがね……とは、声に出しては言わない。その代わりに「フラれたもん同士、飲むんなら付き合いますよ?」と小声で言って、おちょこを傾ける仕草をしてみせた。




豚小屋の掃除をしにきた八軒は、転げ回っている子豚達を眺めながら、あの体験は現実のものだったんだろうか、と不思議に思う。
あの後、あの石の塔にお供えを持って行こうとして何度か山に入ったのだが、どういうわけか、まったく辿り着けなかったのだ。念のため、周囲の航空写真をネットで引っ張り出し、似たような地形や史跡のようなものが無いか、森林科の木野にも手伝って貰いながら探したのだが、それらしいものは見当たらない。
ただ、豚としての視線を経験したせいか、ハムだのチャーシューだのしょうが焼きだの、それぞれに名前をつけた子豚の個性が、以前よりもハッキリ見分けられるようになった気がする。あと、豚的な目線からキレイにして欲しい掃除ポイントも。

「あれ、ベーコンは?」

自分よりは大きかったが、それでも兄弟の中では一番小さかった末っ子が、柵の中に見当たらない。おかしいと思って探しまわっていると、豚舎の奥でキーキーと小さく鳴く声が聞こえた。あれは空腹を訴えている声だな。俺には分かる。そっと近づいて覗いてみると、女教師の富士が慌てて何かを背後に隠した。その足元には子豚のベーコンがまつわりついている。

「先生、何してたんですか?」

「いや、その、なんでもない」

「はぁ」

「私は、脱落するならするで、それも自然の摂理だと考えているんだがな。そういう主義だし、生徒にもそう教えているつもりだ。だが、賞味期限というものもあるから、限りある資源は大切にするということも必要であって、だなァ」

富士がゴニョゴニョ言っていると、ベーコンが、ぴょいと後ろ手に握っていたものに飛びついた。ゴトンと派手な音を立てて、哺乳瓶が床に落ちる。

「あっ、こらっ……ばかものっ!」

「あの、先生……もしかして、わざわざ専用の哺乳瓶、買ったんですか?」

「なっ、私がそんなもの……たっ、ただ、使いさしの豚用の人工乳がどういうわけか、豚舎にあったというだけだっ! 瓶は、アレだ。たまたま有ったというか、借りたというか、その」

どういうわけかって、実はその理由、知ってます。八千代先生が農協で買って来たんです……つーか俺、ずっと牛用の哺乳バケツだったんですけど。コイツよりよっぽど体ちっこかったのに、むせそうになりながら頑張ってたんですけど。あと、ちょっとバケツ、鉄くさいし。なにその快適そうな哺乳瓶。富士先生の方がよっぽど過保護じゃん。ベーコンずるい……とは言えない。

「その、なんだ。八軒、皆には言うなよ」

つまり、なんだかんだ言って富士もエゾノーの教師。日頃は軍隊ばりのスパルタを装いながらも、根は善良であるらしい。

「分かりました。誰にも言いませんから、俺にもやらせてください」

ふんふんとミルクの匂いを嗅いでいるベーコンの鼻先から、哺乳瓶を拾い上げる。なんか変な気分だなぁと思いながら、八軒はゴムの吸い口をベーコンに銜えさせてやった。


【後書き】去年のクリスマスプレゼントとして頂いたブタのぬいぐるみ(命名:ぶたどん)に、八軒コス用のパーカーを着せて遊んでいたら、伊崎さんが「ぶたになった八軒が、豚丼と心を通わす妄想まで逝けました」だの「稲田先輩にぶひぶひ擦りつくぶた八軒。稲田先輩だけハチだって分かればいいじゃないw」などと言い出したものだから、それに触発されて、ついつい……正月休みの暇に任せて一気に書き上げました。時間軸は『猩々木』前半部の辺りかな、多分。
ぶた八軒と稲田先輩のコス写真は、コス写真館に近日収録予定。

当作品は、素敵妄想を投下してくれた、伊崎さんに捧げます。というか押し付けるw
初出:2013年01月02日
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