当サイト作品『熏衣草』シリーズの番外編。
稲×八前提です。予めご了承ください。
みるく【1】
白い馬体が棒立ちになり、あっと思う間もなく八軒が落馬した。最近は落ち慣れたらしく、手綱を素直に離した体が、ゴムマリが弾むように地面に転がった。依田は馬から下りると、近くの木に手綱を結わえつけてから八軒に駆け寄った。
「大丈夫か? 頭打ってないか?」
「ちっくしょう、マロ眉めぇ」
当のマロン号は、先ほどまでの暴走が嘘のようにおとなしくなっている。
「どうしたんだろうな、マロン。何かにびっくりしたのかな。えらい山奥まで迷い込んだみたいだけど」
部長という立場上、他の一年も危険に巻き込む訳にはいかないからと、依田が単騎で追いかけていたのだ。
「携帯……さすがに通じないな。立てるか? とりあえず、ちょっと服脱げ」
「えっ?」
「ばっ、ちげーよ。血は出てないようだけど、怪我してないか一応、全身調べとくだけだ。おかしなこと考えるな」
「あ、はい」
白樺の林を縫うように、生い茂るクマ笹を踏み分けただけの獣道のようだが、傍らに腰の高さほどに石がいくつも積み上げられているところを見ると、かつては人の往来があったのだろうか。
「この石の上に落ちなくて良かったな」
「本当ですね……ズボンもですか?」
八軒はパンツ一丁になると、その石の塔に脱いだ服を引っ掛けた。依田がくるっと見回して「掌の擦り傷ぐらいか。アザも無いな。どこから落ちたんだ? 尻か?」と首を傾げる。八軒も、そういわれてみればどこにも痛みがないのに気付いて「背中、だと思ったんですがね」と、不思議そうに自分の体を見下ろした。
「うまく草がクッションになったのかもな。怪我が無いなら、いいんだ」
そう言いながらも、念のためにトランクスの腰ゴムに指をかけて、引き下ろしてみた。
「うん、尻も無事だな」
「ぎゃ、やめてください……つーか、少し寒いです」
北海道の夏は短か過ぎて、暦の上ではまだ晩夏の筈だが、既に秋の気配が感じられる。
「悪い悪い、服着とけ」
「はーい」
もそもそとズボンを履き、シャツに袖を通している。俯き加減の八軒のうなじが意外に白かった。夏休み中は農作業のバイトをしてたって聞いているから、もう少し日に焼けてると思ったのにな……と、つり込まれるように、手が出ていた。首筋に触れられ、驚いて振り向いた目が怯えていた。ああ、そんなつもりじゃなかったんだ、ただ、ちょっと見とれてただけで、と言い訳をしようとしたが、代わりに口を突いて出たのは「怖くはしないから」だった。
稲田は子豚の計量の記録簿を見て、首を傾げた。
一匹多い。
よく見れば、妙に体が小さい子豚が混ざっている。乳のポジション争いに破れて発育が悪い個体が出るのはよくあることだが……と、近づいてみると、向こうからもポテポテと歩み寄って来た。やけに懐っこいなと思って抱き上げてみると、嫌がりもせずにおとなしく腕の中に収まった。
「なぁなぁ、おかしくないか?」
「何が?」
一緒に計量をしていた班の連中は、まったく疑問に思っていないようだ。だからサ、と子豚片手に記録簿のファイルを広げて、こんこんと説明をしてやるのだが、なぜかうまく伝わらない。
「コラ、作業が終わったんだったら、タラタラしてないでとっとと戻れ」
豚舎を担当している女教師の富士が、それを見とがめて声をかけて来た。
「先生。子豚、一匹多くないですか?」
「そうか?」
「過去の計量記録が、この子だけ無いみたいなんですけど」
「記録簿を付け間違ってたんじゃないのか?」
「それはないですよ」
「どこからか迷い込んだとでもいうのか。近所の農家と何キロ離れてると思ってるんだ、ばかばかしい」
そう言いながらも、稲田が冗談を言うような生徒ではないと知っている富士は、念のためにと稲田の腕から子豚を取りあげ、こねくり回してみた。
「む? コイツ、去勢してないな。ウチの豚舎の子豚は全部、タマを切り落とした筈なんだが……稲田、そこのハサミをちょっと寄越せ」
その途端、子豚がピーピーと引き攣った声で喚き出した。必死で身をよじって富士の腕から転げ落ちると、稲田の足元に逃げ込む。尻尾を後ろ足の間に巻き込み、まるで人間の言葉を理解して去勢を嫌がっているような仕草に見えた。
「もしかしたら、本当によその子かもしれないですから、ちょっと待ってやりましょうよ」
その怯え方が誰かを連想して、稲田はつい、子豚を庇っていた。
「この時期を逃したら、肉が硬くなる。それはお前も分かっているだろうが」
「コイツらと同じ週齢の仔(こっこ)ならそうかもしれませんけど、そこの発育不良のヤツと比べても、ほら、まだ小さいでしょう。少し待つぐらいの猶予はあるんじゃないですか?」
子豚が『そうだそうだ』と言わんがばかりに、稲田の脚の後ろに隠れながらもキーキーと偉そうに鳴いている。
「待ったところでどうなる? どこの豚か、探すつもりか?」
「なんとか調べてみます。だから、それまでの間、俺に預からせてください」
「馬鹿なことを。まるで……」
「まるで……?」
「いや、何でもない。そういう馬鹿が昔、居たような気がしただけだ」
「それ、八軒のことじゃないんですか?」
なにしろ、稲田自身が己の行動を(まるで、八軒が豚丼に感情移入してた時のようだな)と思ったほどだ。だが、富士はキョトンとして「ハチケン?」と繰り返した。
そういえば、豚舎の掃除に来ている一年生の中に、八軒を見かけなかった。
稲田は自宅に帰ると、寮の夕食前ぐらいの頃合いを見計らって、妹の携帯に電話をかけ「八軒は風邪でも引いたのか」と尋ねたが「はぁ?」という素っ頓狂な声が返ってきただけだった。
「ハチケン?」
「ほら、お前のクラスメートの、眼鏡の男子」
「なに? ハチケンって名前? ハチなんとかケンなんとかの略、みたいな?」
「いやいや、八軒だって。数字の八に、家が一軒、二軒の軒。八軒勇吾。何をすっとぼけてるんだ」
「兄さんこそ、何を言ってるの?」
「ほら、ピザ祭りの子だって。子豚の肉でベーコン作ってた……札幌から一般入試で入って来た珍しいヤツだって、言ってたろ」
「兄さん、大丈夫? 冗談にしてはキツいわよ」
多摩子が珍しく優しい口調になったのは、それだけ本気で兄の精神状態を心配したからだろう。いや、オカシイのはそっちだと返したくなったが、富士の先ほどの反応とそっくりだと気付いて、口を噤んだ。彼女達がわざわざ口裏を合わせて、そんな悪い冗談でひとをからかうとも思えない。
「ああ、悪い。誰かと勘違いしてたのかもな」
「夏のお疲れが出てるのかしらね。独り暮らしだしね。家事が辛(えら)かったら、ハウスキーパーでも雇えば? その費用ぐらい母さんも出してくれるだろうから、少し甘えたらいいのよ。むしろ、たまには頼ってあげるのも、親孝行よ」
「考えとく」
そう言うと、通話を切った。
多分、他の誰に聞いても同じ反応だろうというのは、なんとなく想像がついた。本当に変な日だ。子豚は一匹増えるし、八軒は消えるし……そこで、コーヒーでも入れようかと食器棚に手を伸ばした稲田の動きが止まった。
現実的に考えれば有り得ないことだが『収支』は合う。だとしたら……?
稲田は財布と家の鍵をポケットに突っ込むと、家を飛び出した。
日頃の行いというのは大切だな、と思う。校舎で何人も教師や用務員に出くわしたが、稲田が堂々とした態度で「ちょっと用事があって」と告げると「そうか、夜遅いから気をつけろよ」と言われた程度で、それ以上の追及はされなかった。もっとも、ここの学校の教師達の人が善すぎるせいもあるだろう。
豚舎に辿り着き、電灯を点けて中に入る。施錠ぐらいはしてもいいんじゃないだろうか。不審者が入ったらどうするんだ……と思えるのは多分、厳重に管理されている実家の農場と比べてしまうせいかもしれないが。ともあれ、そのザルのようなセキュリティのおかげで、今、こうして子豚の前に居る訳だが。蛍光灯の光で眠りを妨げられてしまったのか、子豚達がキューキューと機嫌悪そうに鳴いていた。
「八軒?」
呼びかけると、ポツンと離れた位置にうずくまっていた一匹が、慌てたように尻をあげてまっすぐに駆けて来た。
「八軒なのか?」
前足を柵に掛けて伸びをしながら、尻尾を千切れんばかりに振っている。手を差し出すと、必死になってその指に吸い付いて来た。子豚といえども人の指ぐらい噛み切る力があることは知っていたが、この個体に対しては、不思議とそんな危険を感じなかった。
「どうした。腹減ってるのか」
これがもし八軒じゃないとしても、ただでさえポジション争いの激しい子豚の世界、ポッと出のヨソの子に乳房があたる筈がない。
「哺乳バケツ……は、豚舎にはないか。どこにあるんだろう」
どうやって乳をやれば良いのかぐらいは分かっているが、この学校のどこにそんな備品が置いてあるかまでは、酪農科ではない稲田は知らない。
「薬局かどっかで、哺乳瓶とミルク買って来ようか?」
頭を撫でてやると、もっと構えといわんがばかりに伸びをして来たので、抱き上げてやった。
「それとも、どこにあるのか教えてくれるか?」
コイツが本当に八軒なら。
足元に下ろしてやると、トコトコと歩き出した。途中で立ち止まり、こちらを振り返る。まさかとは思ったが、稲田はその子豚の後をついて歩くことに決めた。
子豚と稲田は、なぜかホルスタイン部の部室の前に辿り着いていた。かなり遅い時間だというのに部室には明かりがついていて、人工授精がどうのこうのと声高に話しているのが漏れ聞こえている。どうやら、研究発表会が近いらしい。
「ここの連中に聞いたらいいのか?」
確かに、彼らは牛に関してはエキスパートだろうし、哺乳バケツぐらいは持っているかもしれない。恐る恐るノックをすると、痩身の男子生徒がドアを開けてくれた。確かこの子は一年の……八軒のクラスメートだよな、名前はなんと言ったっけ。確か……相川君、だったかな、と思い出す。子豚もそれに気付いたのか、尻尾をふりふり近寄って行った。
「はい? 何か御用?」
「唐突で申し訳ないんだが、哺乳バケツがあったら借りたいんだが。できれば牛乳も」
「子豚に?」
「色々事情があって、乳が飲めないみたいで」
子豚は、必死に相川にまつわりついて何かをアピールしていたが、相川は「なんか、なつっこい子だねぇ」と言っただけで、特別何かを感じたりはしなかったようだ。ホルスタイン部の先輩らが何事かと顔を出したときも、相川は「子豚にミルクあげたいんだって」と簡単に説明しただけだった。
「子豚に牛乳って、大丈夫か? でも豚用の人工ミルクや哺乳瓶なんてのは、うちのガッコには置いてないだろうなぁ。富士センセはスパルタだから、乳が飲めなくて脱落しても、それが自然淘汰だって言い切る派だし……飲ませて腹下しても、自己責任で頼むぞ?」
「多分……大丈夫だよな? 八軒?」
ブイッ、と子豚が元気良く返事をする。
「ハチケン? あなたが付けたんですか? 変な名前」
相川はそう言って笑った。稲田はその反応に今さら驚きはしなかったが、本人(本豚?)にはショックだったようで、キーキーとやかましく抗議をし始めた。
「ほれ。使い方は知ってるか?」
「ウチも一応、牧場やってっから」
「そうだったな」
バケツを受け取って、ゴムホースを子豚の口元にやる。
「むせるから、がっつくなよ。牛用はやっぱ、豚にはちょっとデカすぎるわ」
そう言うと、まるで言葉が通じているかのように、子豚は一瞬、口をゴムホースから離した。稲田を見上げてから、恐る恐る銜え直す。
「そうそう、少しずつな。ちゃんと押さえてるから、大丈夫」
飲ませている間に、ホル部の部長が「そういえば、計量んときに子豚が一匹増えたがどうのこうのって、食品科の連中から聞いたな。そのチビのことか」と言い出した。
「ああ。ウチのガッコの子豚じゃないらしくて。でも、何キロも離れてる他所の牧場から迷子になってきたっていうのも不自然だし、どうしたもんかね」
「犬猫ならともかく、捨て豚ってのも変だしなぁ。ま、ガッコの豚と一緒に飼ってやっても、同じことだべ」
「同じことって……最後は肉にしろと?」
その途端に子豚がむせたのか、ブシュッと乳を吐き出した。稲田は、ゴムホースをつまんで出る量を調節してやっていたのがミスったのかと慌てたが、どうやらそうではないらしい。ホースを放り出すと、キューキューと甘えた声を出して、稲田のズボンに鼻面を擦り付けてくる。
「販売用の肉が増える分、お得だろ」
「それもそうなんだけど」
普段なら、そして普通の家畜相手なら、稲田もそう割り切って考える事ができる。そう、普通の家畜相手なら。
「その、なんか事情がありそうだろ? もし肉にするんなら、去勢もしなくちゃいけないんだろうけど、少し待っててもらってるんだ」
必死でまつわりついてくる子豚の鼻水とヨダレとこぼれた牛乳で、稲田のズボンはぐしょぐしょに濡れていたが、稲田は嫌な顔ひとつせずに子豚の頭を優しく撫でてやった。
「八軒、ミルクもういいのか? 心配すんな。なんとかしてやるから、腹いっぱい飲んどけ」
その言葉を聞くと、子豚はバケツのところに駆け戻った。ゴムホースの前にちょこなんと座って、稲田を見上げる。その姿を見て『この食い意地の張った性格は、確かに八軒だな』と稲田は確信した。それと同時に、本当になんとかしてやらなければいけないこと、そして具体的な方策が何も思いつかないことに気付いて、絶望的な気分になった。そういえば、お湯をかけたら元に戻るという設置の漫画があったと思うが、それだけで八軒の存在が周囲に忘れ去られていることまでが簡単にリカバリーされるとは思えない。
「さて、どうしたもんかな」
お腹をポンポンに膨らませて、ご満悦で稲田の膝の上に転がっている子豚を見下ろして、稲田がボヤいた。その愚痴の意味をどう解釈したのか、相川が「さすがに、子豚連れて通学するわけにもいかないですよね。離乳するまでの間、寮で面倒みましょうか?」と、言い出した。
「は? いいのか、それ」
「豚は犬並みに賢いからトイレとかもすぐ覚えるし、汚くもないから、飼う分には問題ないでしょ。普通に餌が食べれるようになったら、豚舎に戻したらいいんじゃないですか?」
「確かにウチのマンションはペット禁止だから、そうしてくれると助かる。寮の先生には、俺からも説明するわ……その前に、富士先生にも相談しないとまずいよな、それ」
女教師のサングラス越しの厳しい表情を思い浮かべるといささか気が重いが、今さら見捨てる訳にはいかなくなっていることは、重々承知していた。
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