みるく【2】


案ずるより産むが易しという。子豚を寮に持ち込むことは、思ったよりもあっさり承諾された。富士は「その子豚については、お前に全権任せている」と言い切ったし、寮では「富士先生の許可が出てるなら」というスタンスだったからだ。

「じゃあ、コイツのこと、よろしく頼むな。八軒、いい子にしてるんだぞ?」

稲田が帰ろうとするとキューキューと鳴いて縋ってきたが、さすがに外部の人間が泊まるわけにはいかない。抱き上げて鼻先に軽くキスをしてやると、プーと変な声を漏らして不承不承であることをアピールしながらも、おとなしくなった。

「わぁ、ハチケンっていうの? この子。カワイー!」

女子がわっと子豚を取り囲み、子豚が尻尾を振っている隙に、稲田は寮の玄関を出た。本当に、どうしたらいいんだろう……と、溜め息を吐く。せめて、誰か八軒のことを覚えていてくれればいいのに。過去の全てが自分の記憶違いだったということにして、思考停止してしまうことだって可能かもしれないが、そうしてしまうには、あまりにも記憶は鮮明であったし、子豚の態度も八軒そのものであった。
だが、いくら周囲の記憶が塗り替えられていようとも、八軒が居なければ起こりえなかった出来事は、いくつもあった筈なのだ。そこの矛盾を突いていけば、あるいは、多分。




ハチケンは稲田が居なくなっていることに気付くと、キューキューと不安そうに鳴いてしばらくの間探しまわっていたが、やがて諦めたようだ。

「別にどこを散歩させてても構わんが、粗相をしたら、持ち込んだ相川が掃除しろよ」

「え、僕がですか? はぁ、分かりました」

そういうわけで、トイレットペーパーを片手に提げて、相川がハチケンの後をついて歩く羽目になった。ハチケンは食堂や休憩室などを覗いてはフンフンと匂いを嗅いでいたが、やがて思い出したように、男子部屋エリアに向けて走り出した。相川が慌てて追いかけると、西川と別府の二人部屋の前で立ち止まり、カリカリとドアを引っ掻いている。

「何? この部屋に行きたいの?」

西川は農業科、別府は食品科で、相川は酪農科。お互いに直接の繋がりはない。大型コンバイン・ハーベスターを見に行こうと、一緒に寮を脱走した仲ではあるが、それ以前にどうやって知り合ったのか、よく覚えていない。だが同じ寮で寝起きし同じ食堂で飯を食っているのだから、なんとなく知り合って、なんとなくウマがあったということなのだろう。友達なんて、そんなものだ。
ノックをしてドアを開けてやると、ハチケンは部屋に駆け込み、誰も使っていない机とベッドを前に、やや興奮した様子でぐるぐると室内を走り回った。

「なにコイツ?」

西川は突然現れた子豚に驚いた様子で、目を丸くしていた。

「なにっていうか、ハチケン、だって」

「ハチケン?」

西川はその単語が引っかかったのか、少し目を宙にやった。子豚はその様子に気付くと、尻尾をふりふり西川にすり寄った。

「あれ、なんだろ。そういう名前のキャラが居たんだっけか」

ドシッと、ハチケンが猫パンチならぬ『子豚パンチ』を西川の足にお見舞いした。

「いてっ、何するんだよ。丸焼きにして食うぞ」

もう一発、子豚パンチが炸裂する。

「いてぇ……相川、コイツ連れて帰れよ。見ろよ、青あざ出来ちまったじゃねーか」

「ごめんねぇ、なつっこい子だから、そんな乱暴するなんて思わなかったのに。ハチケン、帰ろ? 玄関んとこに、寝床の段ボール置いてあるから」

だが、なぜかハチケンは断固としてこの部屋を出る事を拒み、キューキュー鳴いて自力ではよじ上れないベッドに乗せるよう西川に要求した挙げ句、物置代わりにそこに押し込んであった西川ご愛用の二次元嫁抱き枕にしがみついて眠ってしまった。




翌朝、西川はハチケンの鳴き声に起こされた。どうやら、ベッドの高さから飛び降りることもできないらしい。だったら登りたがるんじゃない、と言いたいところだが、仕方なく床に下ろしてやる。続いて、ドアをカリカリと引っ掻いて、チラリとこちらを見上げてきた。

「んだよ、手のかかるヤツだなぁ」

それでも、出て行ってくれるのは歓迎だと、廊下に追い出す。ハチケンは一目散に玄関に向かった。時計を見るとまだ午前四時だ。こんな時間に目を覚ますなんて馬術部かよ、と苦笑いをし……何故、そんなことを知っているんだろうと首を傾げた。同室の別府が食品科で、同じ食品科に馬術部の円山がいるから? そんな話をしたことがあったんだろうか。だが、そんな些細なことはどうでもいい。とりあえず寝直そう……とベッドに上がったが、眠りに落ちる前にカリカリと忌まわしい音が聞こえた。嫌な予感がしてドアを開けると、当たり前のような顔をしてハチケンがそこに居た。どうやら玄関に置いてあるペットシートで用足しをしてきたらしい。

「あ、待て待て! ハチ、尻尾! ンコついてる!」

えっ、という表情でハチケンが自分の尻を見ようとしたが、子豚の体ではくるくるとその場でコマのように回ってしまうだけだ。西川は仕方なくティッシュペーパーを数枚掴み取ると、ハチケンの尻と尻尾を拭ってやった。

「ハイ、キレイになった……って、またベッドで寝たいんかい! 自分で登れよ、それぐらい!」

だが、なぜか面倒をみてしまうのは、どうしてだろう。以前にもこうやって、文句をタレながら誰かの世話を焼いていたような気がするのだが、思い出せない。
ハチケンをベッドに放り込んですぐに上の段に戻ろうとしたが、不安そうにか細く鳴いたので、仕方なく西川も下の段に乗り込んだ。抱っこされて安心したのか、ハチケンはすぐに寝息を立て始める。そりゃ、ただの布と綿の塊よりも、温かい生き物に抱かれている方が心地よいだろうサ。本来なら母豚や兄弟豚と寄り添って寝ている週齢だろうし……小さな動物特有のやや高い体温を腹に感じているうちに、西川もトロトロと眠りに引き込まれた。




昼休みや放課後を使って稲田があちこちで聞き込みをしてみた結果、八軒が校内清掃で拾って来たピザ窯はちゃんと存在していることが分かった。一年生の誰かが拾って来たということは覚えていたが『誰が』という部分は曖昧になっている。しかし、あんなに大きなゴミだから皆で拾ったんだベサ、ピザも協力して焼いたんだべと言われてしまえば、反論のしようもない。同じく八軒が拾った子犬については、駒場が「先日行った、ばん馬の厩舎みたいにここでも犬を飼えないか」と言い出したことになっており、その他のことについては「なんとなく、皆で」という説明だった。さらに、八軒が子豚に「豚丼」という名前が付けていたことは完全に忘れられていたようで、稲田はがっくりと肩を落とした。それでも諦め切れず、八軒が「豚丼」をベーコンにする下ごしらえをした時に提出した食肉加工室と燻製小屋の使用許可書を資料室で探し出し、そこにようやく『八軒』の文字を見つけることができた。生真面目そうな筆跡の本人署名も残っている。

「良かった。やっぱり居たんだな、八軒」

呟きながら、その文字を指でなぞる。ふと視界がぼやけたのに気付いて、この文字すら消えてしまうのかと慌てたが、自分が涙ぐんでいたことに気付いていなかっただけだった。誰かに見られたら恥ずかしいな、と手の甲で目元を拭うと、その書類の署名欄を携帯カメラで撮影しておいた。まさかとは思うが、これだけ八軒の存在を証明するものが消えている状況では、この文書だってどうなるか分からない。そこまで疑うのなら、この画像データだって信用はできないのだが。
さて、ここからどう反撃すれば、八軒を元の姿に戻せるのか。ファイルを前に腕組みをして考え込んでいると、資料室の扉をカリカリと何かで引っ掻いているような音がした。

「今度はこの部屋を見たいの? 鍵がかかっているよ」

扉の向こうの声に聞き覚えがあったので、稲田は立ち上がった。

「いや、開いてる。ちょうど使ってたものだから」

扉を開けると、子豚が足に突撃してきた。不意のことに驚いてよろけ、尻餅をついてしまうと、ハチケンはさらに腹の上にまで駆け上がって来て、ぴいぴいと大袈裟に鳴き喚いた。

「あー…スミマセン」

ぺこぺこと頭を下げていたのは、昨日のホル部の一年生だった。一緒にいる小柄な男子生徒は、確か八軒のルームメイトだった筈だ。

「いや、別に構わないよ」

そういえば、八軒の痕跡について調べるのに夢中で、本人(本豚?)のご機嫌を伺うのをすっかり忘れていた。ハチケンは、どれだけ寂しくてあちこち探したかを訴えるように、延々とキイキイ鳴いている。

「ハイハイハイ……分かった分かった。ごめんな。分かったから。な?」

何が分かって何について謝っているのか自分でも不明だが、ともかくそう囁いて撫で回してやる。やがてプシューと鼻を鳴らすと、おとなしくなった。

「それにしても、よく子豚を校舎に連れ込めたな」

「むしろ、俺らが授業を受けてる間、寮には置いておけないでしょ? どういうわけか、酪科の教室が気に入ったらしくて、授業中はおとなしくしてたんですよ」

ふむ、なるほど。さすが優等生の八軒らしい。

「そういや、腹壊したりはしてないか?」

「今朝ちょっとお腹がユルかった程度で、元気ですよ。でも、やっぱり合わない乳は良くないからって、酪科の八千代先生が昼休みに、近くの農協で豚用の人工乳を買って来てくれました。富士先生は、ペットじゃないんだから過保護だって文句いってましたけど」

ああ、やっぱりここの教師は人が善すぎる。だが、稲田の指にしゃぶりついて甘えている姿を見ると、そうしたくなるぐらい子豚は可愛いのだとも思えた。

「良かったな、八軒」

もっとも、豚として幸せになったところで、何の解決にもなっていないのだが。

「俺はもう少し、調べものしなくちゃいけないから、お友達のいうこと聞いて、いい子にしてろ。な?」

そう囁いて抱き下ろそうとしたが、なぜかハチケンはグズッている。こんなに聞き分けの悪い子じゃない筈なんだがなと訝っていたが、鼻面を押し上げる仕草を繰り返しているのを見ているうちに、昨日のようにキスを強請っているのだと気付いた。

「……ハイハイ」

さすがに恥ずかしくて、抱きかかえたまま相川らに背を向けてから、キスしてやった。

「あっ、大丈夫ですか? 今、噛まれませんでした?」

「え?」

「いえ、それやったら昨日おとなしくなってたからって、相川が真似しようとしたら、噛まれかけて。ホラ、豚の歯って結構危ないっていうから……なんか、女子が相手だったらおとなしかったらしくて、ハチもオスなんだなぁって話してたんですけどね」

「……こら」

稲田は少しだけムッとして、ハチケンの頭をペチンと叩いた。こっちが必死で手がかりを探しているというのに、何をのんきに……床に下ろしてやると『余計なことをいうな』と言わんがばかりに西川に突進して、子豚パンチと子豚キックを繰り出した。




そろそろミルクの時間だね、と相川がハチケンをあやしながら連れて行き、稲田は広げたファイルを片付け始めた。さて、次はどこを調べたものだろうなと考えていると、誰かが資料室に入って来た。

「こちらに稲田さんが……ああ、居た居た」

「アンタ、馬術部の部長の……」

「はい、依田です。さっき、ウチの部の犬のことで聞きに来てたでしょ? その後で、なんか妙なことが思い浮かんで、どうにも頭を離れなくて」

「はぁ」

「あの犬の名前は『副部長』じゃなくて、実は『副部長の犬』だったんじゃないかって」

「は?」

「馬術部の今年の二年生って、俺一人なんですよ。だから部長が俺なのは当然として、副部長がいないんですよね。それで、犬に副部長って名前がついちゃった……と思ってたんですよ。今まで。でも、よく考えてみたら本当は誰か副部長が居て、その子が連れて来て可愛がっていたから、暫定的に『副部長の犬』って皆が呼んでて、それが定着しちゃったのが、真相だったんじゃないかって」

「その副部長の名前とか、何か特徴みたいなものは思い出せないか?」

「その、ぼんやりとしか。ハチケンって言ってましたっけ? そうだったような気もするし、違ったような気もして、ハッキリ断言できないんです。でも、割と最近、その子と一緒に馬で山奥に行ったことがあったような気がして。ええ、二人で。その子が乗っていたのは白い馬で……白い馬ってことは、マロン号? あれ、マロンには今まで誰が乗ってたんだろう? あんなに気難しい馬なのに」

そこまで吐き出すと、依田は「……ッ」と呟いて眉をしかめ、額を押さえた。

「大丈夫か」

「すみません。なんか、さっきから、こんなふうに頭が痛くなって」

ここで畳み掛けるべきなのか、あるいはせっかく現れた協力者に無理をさせない方がいいのか、判断がつかなかった。迷いながらもじっと依田を見つめていると、依田は苦しそうに喘ぎながら「もしかしたら、その山奥に何か手がかりがあるんじゃないかな、って。今日はもう遅いんで無理ですけど、明日、よろしかったら馬術部に来てくれませんか? どこをどう行ったのか俺は覚えてないんですが、もしかしたらマロン号なら連れていってくれるかも」と、声を絞り出した。

「気持ちはありがたいし、俺も次の手掛かりが欲しいところだから、是非、調べさせてもらいたいけど……アンタ、どうしてそこまで?」

「さぁ。よく覚えてないけど、俺、その子と深い仲、だったような気がして。だから、このまま忘れてしまっちゃいけないんじゃないかって」

「えっ?」

いや、それだけは記憶違いだとツッコみたいところであったが、なぜ自分だけ八軒の記憶が残ったのかということを考えるに、それが八軒との仲に比例していると仮定してみると、この男もある程度は『そういう可能性』があったことは否定できない。だが、今優先すべきは、八軒の本来の体と八軒の存在を取り戻すことだ。それまでは、いわば呉越同舟もやむなしだろう。

「そういう稲田さんこそ、どうしてそんなことを調べているんですか?」

「俺も似たような事情さ」

そう言うと、稲田はニヤッと笑ってみせた。




「すっかり西川に懐いちゃったねぇ」

寮に戻ったハチケンは、ぬるま湯で溶いた人工乳を飲ませてもらって、ようやく機嫌を直したようだった。西川は「こんなん、酪科がやれよ」とボヤいていたが、どういう訳か玄関の寝床をスルーして、西川らの部屋をねぐらに認定したようなので仕方がない。しかも、今日はなぜか(というより、稲田に叱られたから?)女子に面倒をみられるのを避けている様子だ。

「昨日は、女子がお風呂一緒に入れようかとか言ってたのを、尻尾ふって期待してたぐらいなのにね? それとも風呂入れなくてガッカリしちゃった?」

女子の大半はノリノリで、誰が担当するかジャンケンで決めようなどと盛り上がっていたのだが、御影が気まずそうに「でも、入浴時間って短いから、子豚を洗うだけの余裕なんて無いよ? それに、寄生虫とか病原菌とか持ってるかもしれないし」と呟いてその空気をブチ壊し、混浴はお流れになってしまったのだ。

「御影さんって、もしかして、子豚嫌いなのかな。ハチケンのこと触ろうともしないで、遠巻きにしてるもんね」

「三次女のカワイイとかキモイとかの基準って、よく分からねーワ。なぁ、ハチ?」

もっとも、いくら豚が賢いとはいえ、言葉が通じているように見えて、西川ですら薄気味悪いと思う瞬間がある。御影という娘は、その違和感を敏感に感じ取って、素直に可愛がる気になれないのかもしれない。

「さて、今日もベッドに寝るのか? 抱っこは居るか?」

さも当然だと言わんがばかりに、ミルクのチューブを吐き出すと、そのまま西川お気に入りのカモフラージュ柄Tシャツの胸元に噛み付いた。どうやら、その位置から追い出されるつもりは毛頭無いらしい。

「じゃあ、この哺乳バケツ片付けておくね。西川君、おやすみ」

「ああ、サンキュ、相川」




翌朝も、丸で目覚ましでもかけているかのようにハチケンは朝四時に起きた。寝ぼけて朦朧としている西川が廊下に出してやると、パタパタと玄関に向かう。そこで馬術部の栄真奈美と出くわした。

「おはよう、ハチケンちゃん。まだ朝早いよ?」

そう言いながら、栄がハチケンを撫でていると、同じく馬術部の御影がやってきた。チラッと子豚を一瞥して通り過ぎようとする。子豚は尻尾をふりふり御影の後を追った。

「あらあら。ハチケンちゃん、アキが好きなの?」

するりと逃げられた栄がそういって笑ったが、御影は顔を引き攣らせながら振り向いて「来ないで」と冷たい声を出した。

「誰なん、アンタ。八軒君を返してよ。八軒君はアンタじゃないっしょ。八軒君は豚じゃないんだから。違うんだから」

「アキ? 何を言ってるの?」

だが、御影は目を吊り上げながら子豚を両手で掴み上げると「返してよ、返してよ、返してよ!」と喚いて乱暴に揺さぶり始めた。子豚がキイキイと悲鳴を上げる。

「ちょっ、アキ、落ち着いて、どうしたの、アキ!」

栄が慌てて御影の手から子豚を取り返そうとし、同じく部活に行こうとしていた木野と円山が駆けつけてきた。

「どうしたの? 御影さん、大丈夫?」

「アキが……ハチケンちゃん殺されちゃう!」

なんとか子豚を御影から引き剥がしたが、既に脳震盪でも起こしたのか、ぐったりしている。御影はぷつんと糸が切れたような表情をしていたが、やがてワッと大声を出して泣き伏し、その騒ぎに宿直の教師も駆けつけて来た。

初出:2013年01月02日
←BACK

※当サイトの著作権は、すべて著作者に帰属します。
画像持ち帰り、作品の転用、無断引用一切ご遠慮願います。