熏衣草【1】
時間にすれば、ほんの十数分のことだったかもしれない。
作業台に、うつ伏せに押し付けられるようにして組み敷かれた。ズボンをずり下げられただけの状態で、微かに覗いたその奥を弄ばれようと、やがてぬるりと入り込んだものにリズミックに蹂躙されようと、ただひたすら目を固く閉じて唇を噛み、頬に冷たく硬いステンレスの感触を感じながら、コトが済むのを待っていた。
「やけにおとなしいじゃないか。俺が言うのもナンだけど、いくら断らない男って評判でも、さすがにこういうのは断ってもいいんじゃないの?」
やがて相手の体にすっぽりと包まれるように抱き込まれた姿勢になって、動きが止まる。内側でドクドクと脈打つのが感じられた。空調の利いた空間の筈だったが、雨だれのようにぽたぽたと汗の雫が落ちてくる。
「もしかして、初めてじゃないのか?」
その問いに、呆れたような響きがあった。さすがにそれは首を振って否定したかったが、その前に肩を掴まれて、強引に体をひっくり返された。
場所が場所だけに、自分が食肉にでもされたような、奇妙な感覚だった。このまま切り刻まれてしまいそうな。そのための道具はいくらでもある。それでも逃げようとは不思議と思い浮かばなかった。顎を掴まれ、相手がそのまま覆い被さってくる。唇が触れかけた頃にようやく我に返って、必死で顔を背けて避けた。
「あ、あのっ、こういうのは、好きな人とするものだと思いますっ!」
「なんだ、ちゃんと断れるんじゃないか」
思ったよりもあっさりと、相手は手を引いた。
その呆気なさに逆にこちらが焦って「いや、別に先輩が好きじゃないとか、そういう意味じゃなくて」と、へどもどしたほどだ。大体、体を散々嬲らせておきながら、今さらファーストキスに拘ったところで、どうなるというのだろう。しまいには逆に、断ってしまって良かったんだろうかと、己を責めてしまいそうになる。
「試すようなことして、悪かったな」
それに自分がどう答えたのか、あるいは答えなかったのか。そして、そこからどうやって寮まで戻ったのか、まるで思い出せない。
いや、そんなことがあったこと自体、なぜか記憶からスッポ抜けていた。ルームメートの西川一の机の上に散らばっているものに目が止まるまでは。
「なに、これ? なんかのパンフ?」
八軒勇吾は、その薄っぺらい本をつまみあげて、首を傾げた。表紙はフルカラーで、ビキニのような露出度の高い鎧を纏った美少女のイラストだ。
「いや、漫画……っつか、同人誌って言って、オマエ分かる? 自費出版みてーなモン。東京に遊びに行った時に、イベントで買ってきてもらったんだ。読む? 汚すなよ」
「汚すかよ。常磐なら教科書にヨダレ垂らすだろうけどさ」と、笑いながら、八軒勇吾はその本を広げた。パラパラと数ページめくって「なんだよ、これ。レイプ?」と顔をしかめる。
「そそそ。割とヌけるぜ。だから汚すなよって……んだよ、優等生様はエロには興味ないのか? エロは男のロマン、偉大な文化の極みだぜ?」
「労働に明け暮れるこの過酷な生活のどこに、エロを嗜む余力があるんだよ。学生らしいキヨラカな男女交際だって縁遠いっつーのに」
「過酷な生活だからこそ、リアルで味わえないことを妄想で補うんじゃねーか」
「だからってレイプはねーだろ」
自分で連呼しておきながら、レイプという響きが妙に気持ち悪くなって、八軒は口元を抑えた。
後ろから手首を掴まれた感触や、ねじ伏せられた感触が不意に蘇り、ついさっき目にした漫画の絵に重なった。
「どうした? ちょっと刺激が強すぎて、気持ち悪くなったんか?」
「ん……そうみたい。ちょっと、横になるわ」
八軒はベッドに倒れ込んだ。心臓の鼓動が、まるでヘリコプターの爆音のように感じるほど激しくバクバクしている。
「ハチ、オマエどこまでマジメに出来てんのさ。こーいうのはファンタジーだぜ? 真に受けるなよ。つーか、これ、一応R指定だけど、そんなに過激な内容でもなかった筈だし」
「いや、風邪気味ってのもあるかもしれないし」
「あー…そういえば、最近、なんか調子悪そうだったもんな。今もちょっと顔赤いし。熱あんのか? クスリもらってきてやるわ」
さすがに多少の責任を感じたのか、西川が部屋を出て行った。
同室の別府太郎も心配したのか「俺のとっておきのジュースだけど、飲む?」と声をかけてくれたが、けだるく首を振って断るのが精一杯だった。本当にあんなことが、自分の身の上にあったんだろうか。夢にしては妙にリアルすぎるが、現実だとしたらどんな顔をして会ったらいいのか、分からない。悶々としていると、西川が戻ってきた。
「おーい、ハチ。クスリ、貰ってきてやったぞ」
「アレ、水は? 俺のジュースはあるけど、確かグレープフルーツは薬と飲んじゃダメなんだよね」
「水は要らねーよ。ハチ、尻出せ、尻」
ぼんやりしていて、西川が何を言っているのか理解できなかった八軒だったが、西川がベッドに乗り込んできて毛布を剥ぎ取り、ジャージのズボンを引きずり下ろそうとした時点で、反射的に悲鳴があがった。
「ばっ、ちげーって、ボルタレン、ボルタレン。ホントは点滴が一番なんだけど、それ以外ならコレが早く効くって、センセが言ってたからさ。明日も朝早いだろ? だから、その……別府。ハチ押さえつけるの、手伝え」
「あー…確かに座薬なら、水要らないよねぇ」
巨漢の別府がのっそりと八軒の上半身を抱え込み、西川があらためてジャージのウエストゴムに両手を掛けたところで、ドアがギィッと微かに鳴いた。はっとして西川が振り向くと、八軒に勉強を教えてもらいにきたらしい常磐恵次が、ノートを抱えたまま固まっていた。
「あの、その、お邪魔しました」
「違うっ! これは断固として違うからな! おいこら、待て、納得して帰るな! 誤解だ、絶対にオマエ誤解してるから、待て!」
西川が喚いて連れ戻そうとしたが、常磐の逃げ足は早かった。
案の定、翌日には『断らない男(性的な意味含む)』という噂が駆け巡ったようで、教室は微妙な空気が流れていた。しかも都合の悪いことに、西川は農業科学科、別府は食品科学科。八軒一人がクラスメート皆からの好奇の視線に晒されるハメになる。比較的八軒に好意的な吉野まゆみすら、放課後のホームルームが終わって教師が教室を出るや否や「ちょっと前からそうじゃないかって噂があったんだけど……私、ナマモノ見るの初めてだわ」と、目をキラキラさせながら口走る始末で、脱力した八軒は「いや、アレはボルタレンが」などと弁解するのも面倒くさくなった。
「で、八軒君は掛け算的にどっちなの? 受けなの? それともリアルはリバーシブルが多いっていうから、八軒君もやっぱりそうなの?」
「ごめん、何を言ってるのか、全然理解できないんだけど」
「『断らない』ってことは、総受けなのよね。3Pとかもアリなんでしょ? ああっ、どうしよう! 札幌の市民会館、今からでもチケとれるかなぁ」
吉野が頬を染めて顔をブンブン振っている姿を唖然と見下ろしていると、今度はハンプティ・ダンプティ体型の女子がススス……と近寄ってきた。八軒と同じ実習グループA班の紅一点、稲田多摩子だ。
「5ぐらいは欲しいところだけど、2でいいわ」と囁きながら、人名が並んだ紙を差し出してきた。
「何これ?」
「ウェイティングリスト」
「ウェイティングリストって、レストランとかの順番待ちのアレだろ? なんで唐突に?」
「機会の平等に伴う、限りある資源の平和的、効率的活用……かな?」
「全然意味が分からないんだけど」
「アナタ、頭良いくせに、頭悪いわね」
「どっちだよ」
「そんなんだから簡単に騙されるんだって、兄さんも心配してたわよ」
「先輩が?」
「もうとっくに食い荒らされてるんじゃないかって」
(もしかして、初めてじゃないのか?)
くらっ、と目眩がした。動悸と吐き気がそれに加わる。
「そんな……そんなことない。俺、そんなんじゃない」
うわごとのように呟いているのが聞こえているのか、いないのか、多摩子は「違うの? 初物なら、もう少し値段を吊り上げられるわね。実際のところ、どうなの?」と、シレッと畳み掛けた。
「どうって、よく覚えてなくって、その、現実だったかどうかすら」
「ン? どういうこと? 一服盛られたの?」
「違う、と思うけど」
さすがの多摩子も首を傾げていると、同じく実習A班の相川進之介が「脳生理学では、非常に強いストレスを受けると無意識にその記憶が抑圧される、ってことはあるらしいけど」と呟いた。
「心的外傷後ストレス障害、だったかしら? ってことは、レイプだったとか?」
さすがに見かねたのか、駒場一郎が割り込んで「でも、そんな酷いことするようなヤツ、コイツの周囲に居ないだろ」と、庇った。八軒は俯き、胸元をかきむしるようにしながら「酷いこと? そうだよな、酷いことだよな。酷いことされたのかな」と、ブツブツ言っている。それに気付かず、多摩子は涼しい顔で「でも、レイプの加害者の大半は、身近な人だという統計があるわ。いかにもレイプ犯です、なんて見かけの人物がいなくても、十分あり得る話よ」と切り返していた。農筋、野球筋は人一倍発達している駒場も、口では勝てない。ぐっ、と詰まったところで、相川が穏やかに「まぁまぁ、でも、八軒君が本当にそんな目に遭ったとは、確定していないわけだし」と、フォローを入れた。
「でも、このまま放置したら、遅かれ早かれ、いずれそうなるわよ? だからこそ、マネージメントが必要だと思わない? 八軒君だって、きっちり管理されていた方が身も心も楽だろうし、希望者も無駄な競争が避けられて出会いの機会を平等に得られる。そして私は儲かる。まさにWIN-WINの関係じゃない」
「稲田さん、もしかしてそれって、もしかしなくても売春斡旋になるんじゃないかなぁ。よくないよ、そういうの」
「売春なんて、失礼ね。奪い合いになる前に、平等に出会いとふれあいの場を提供するというだけの良心的サービスよ。ほら、鍋だって無秩序に競って突き合うよりも、その場を仕切る鍋奉行が居た方がいいでしょ? そこでお客様とスタッフが自由恋愛に陥るのは、売春ではなくってよ」
相川、駒場と多摩子が言い争っているのが、遠く聞こえる。視界が狭まっているように感じ、呼吸がやけに浅く、早くなっていた。
「ちょ、八軒君、大丈夫? 変な汗かいてるよ?」
吉野が声をかけてハンカチを差し出すが、受け取ることもできない。さすがに多摩子らもその様子に気付いて、気まずそうに顔を見合わせたが、その空気をまったく読まずに常磐が「なぁなぁ、それってやっぱ、なんかテクみたいの練習すんの?」と、ブチかました。
「え? まぁ、そりゃあ、多少は必要かもしれないわね。そういうのもサービスのひとつだし」
「そかーマグロじゃ、色気ないもんなー」
「そういうところで愛想をつかされたら、商売に差し障るものね。商品価値の向上、か。常磐君、良いところに気がついたわね」
マグロ、マグロって……確かにマグロだったかもしれない。そういうのって、愛想つかされるんだ。俺、愛想つかされたんだ……手指がすうっと冷たくなっていく気がした。
「あ。でも、あんまり床上手でも、逆効果なのかな。ほら、ハチの場合、初々しさとかがウケてるんでしょ? 経験豊富そうに見えない方がいいかも」
「そこいらの加減が難しいわねぇ。キスはダメとか、そーいうカンジでいったらどうかしら」
「それもありきたりな設定じゃね? むしろ、キスがNGって、他に好きな人がいまーす、みたいで、カンジ悪いんじゃねーかな」
「そうかしら? こういうのは所詮、性欲処理という側面もあるから、そこは全然、問題ないと思うけれど」
多摩子と常磐がそんな下世話な話題で盛り上がっているのが、聞きたくなくても八軒の耳に入ってくる。むしろ周囲の声がどんどん遠くなっていくのに、だ。そんなことない、違うんだ、俺はそんなんじゃない、とうわごとのように繰り返していると、背後でガシャン、と何かが鳴ったような気がした。
……そうだ。『いいとこで会ったな、ちょっと肉の加工を手伝ってくれ』と声をかけられたんだ。『俺、料理人に向いてませんって。豚丼のベーコンだってイビツだったじゃないですか。俺なんかでいいんですか』と答えたんだっけ。それでノコノコと出向いて……場所は、確か食品加工室、だったと思う。そして、金属扉が閉じられる音。
所詮、性欲処理、だったんだろうか。あの人に限ってそんなことはないと信じたいが、背中越しで顔を見れなかったので、本当のところは分からない……分からない。
「おい、ハチ。大丈夫か? これ、過呼吸起こしてないか? 誰か、紙袋とか持ってないか?」
「駒場君、待って。ペーパーバッグ法はかえって危険だよ……八軒君、聞こえる? 息、ゆっくり吐いて。吸って、吐いて……大丈夫だから、ほら」
何の騒ぎだろうと、八軒は他人事のようにぼんやりと考えていた。次第に、たゆたうようなゆるやかに繰り返すリズムが体を浸食していく。
(息吸って、吐いて……力抜いて、そう)
「うっ、うわぁああああっ!」
思わず悲鳴があがった。あまりにも唐突だったため、背中をさすっていた相川がギョッとして尻餅をついたほどだ。
「ちょ、八軒君……?」
「あ、相川か。ごめん、ちょっと、その……あれ、教室? どうしたんだろう、俺」
汗が首筋を伝うほどに流れている。吉野が「ハンカチじゃ足りないよね。私ので良かったらタオルあるけど、要る?」と、スポーツバッグから引っ張り出して差し出した。
「おおー…さすが不純異性交遊の噂が立った仲」
常磐が目敏く冷やかしたが、八軒はツッコむ気力もなく、代わりに吉野が「噂って、アンタが流したんだろうが! それに今日の話だって、そもそもアンタが!」と喚いてくれた。
「今日のハナシは吉野だって、リアルBLだ、ナマモノだ、3Pだとか言って、喜んでたじゃん!」
「そ、それはそうだけど、こんな深刻な状態だなんて思ってなかったのよ!」
ギャンギャンと罵り合っている常磐と吉野を尻目に、駒場が「ともかく、このコンディションじゃ馬には乗れそうもねーな。アキ、今日はコイツ部活休むって、言っておいてやれ」と、八軒と同じ馬術部である御影アキに声をかけた。
「えっ? あ、ああ。そうだね。八軒君が落馬して怪我とかしても困るし」
御影の肩に提げていたカバンが床に落ち、さらに教科書やらノートやらがバラバラと床に転がっているところをみると、目前の状況にかなり呆然としていたのだろう。御影の友人でバレー部の末広実郷が「アキ、大丈夫?」と声をかけながら、代わりに拾い集めてやる。
「まさに馬に蹴られるってヤツ?」
常盤がボソッと呟いたが、コイツを調子に乗せるとまたどんな爆弾を落とされるか分かったものではない。一同は顔を見合わせると、以心伝心でそのジョークを黙殺した。
「それにしても、どうしたもんかな」
駒場が腕組みをして首を捻る。相川が、借りたタオルで八軒の首筋を拭ってやりながら「心当たりは無いでもないよ。僕に任せてくれないか」と、提案した。
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