猩々木【4】
揺り起こされても少しの間、夢なのか現実なのか判別できなかった。少なくとも、自分を抱き起こしている相手が稲田ではないことだけは分かっていたので、体をよじってその腕の中から逃れようとする。
「いてて……別府、お前が余計なこと言うから……ちょっとそこのタオル取ってくれや」
その声には聞き覚えがあった。
「……西川?」
「あ、起きたか? 悪い夢見るとこまでは不可抗力の生理現象としても、いちいち寝ぼけて悲鳴あげて暴れんなよ。大声あげると隣の部屋に迷惑だし」
「うなされるのも生理現象じゃん」
「そんな屁理屈こけるんだったら、大丈夫だな」
ポンポンと肩を叩いて、西川が体を離す。そのTシャツの胸がべっとりと濡れているのを見てギョッとするが、それが自分の寝汗なのだと八軒は気付いた。別府からタオルを受け取って、水を浴びたようにぐっしょり濡れている自分の顔や首筋の汗を拭った。西川は八軒のベッドから降りると、シャツを脱ぐ。西川の首筋や背中に、出来たてらしい歯形や爪でつけたらしい引っ掻き傷が見える。
「うわ、すごい。もしかして俺が寝てる間に、西川なんかした?」
「するかよ。うなされてるから起こしてやろうと思ったら、お前が発狂して暴れたんだべや」
「俺が寝ぼけてるからって、また、キスとかしてないだろうね」
「してねーっつの。もう、ホント勘弁してくれや。いい加減、部屋割り替えて欲しいぐらいだわ」
つい口調がきつくなり、八軒が「あ……ごめん」と呟いて俯いてしまう。さすがに言い過ぎたと思ったのか、西川なりの心遣いのつもりで、ぼふ、と萌え絵抱き枕を八軒に押し付ける。
「とりあえず俺の嫁、貸しとくから。これでおとなしく寝とけ」
「……ごめん、なさい」
別府は、騒動がとりあえず収束したのを見て取ると「オレ、先に寝てるね」とベッドに戻った。西川はそれを横目でチラッと見てから「何の夢見てたんだ? つーか、何か思い出したことでもあるのか?」と、八軒の耳に小声で囁きかける。
「夢の内容はよく覚えてないけど……先輩だと思ってたら、違った、って感じの」
「そういう身に覚えはないか? あるいは忘れてたのを思い出した、みたいな……例えば、その、馬術部の先輩んちに泊まった時とか」
「まさか、依田先輩と? 無い無い。そんなんしてない」
「絶対だな?」
「多分。よく覚えてないけど」
それが怪しいんだろうが、とは思うが、あまり突つき回して、余計な膿が出てきても厄介だ。小首を傾げて「そういえば」と思い出そうとしている八軒の肩を叩くと「してないんだろ。そういうことにしとけ」と、かぶせるように言ってやった。
「昨日会ったばかりであんな夢見ちゃったら、なんか先輩に会いにくいな」
「やっぱ、頭撫でられたぐらいじゃ物足りなかったんだろ。欲求不満溜まってたんじゃね? ムラムラしてんのを肉体疲労で誤摩化すこともできるけど、それは対処療法であって根本的解決なわけじゃないし」
「でも、だからって他の人となんて、夢でも嫌だ。もしかしたら、浮気願望でもあるのかな、俺」
「逆夢だろ、逆夢」
西川は八軒の頭を撫でてやろうとしたが、こうやって自分が構ってやるのが良くないんだろうかと気付いて、手を引っ込めた。
「先輩に直撃できないんだったら、まずは食品科で事実関係を聞いてみるとか?」
「その池田って女子、本人に?」
「……変か」
よく考えれば、面識の無い他クラスの異性を尋ねること自体が噂のタネになりそうだし、中途半端に御影の耳に入っても面倒だ。それに、もし付き合っているということが事実なら、修羅場もいいところだ。
「一人で先輩んとこ行く勇気が出ないようなら、一緒に行ってやるよ」
「ん、ありがと。その気になった時はヨロシク」
そういうと、八軒はニコッと笑ってみせてから、抱き枕を抱えたまま、電池が切れたようにポテンとベッドに倒れ込んだ。時計を見ると、あと三十分ぐらいで八軒の起床予定時刻だった。いっそこのまま起きてた方がマシなんじゃないかと思ったが、すぐに寝息が聞こえて来た。
それでも数日は「その気」になれなかったようで、何の音沙汰も無かった。
正直、このままスルーかなと西川は思っていたので、金曜日になって二学期の終業式とホームルームが終わってから、いきなり教室に押し掛けて来て廊下に引っぱり出され「付き合って」と言われた時には、なんのことやら分からずに「は?」と真顔で聞き返したほどだ。
「いや、俺には愛しの二次嫁がいるし、ガチ系には興味ないし」
「何の話?」
「だっておめぇ、付き合ってって言ったべや、今。まぁ、対外的には一応、そーいうことこになってたけどさ」
「誰がお前と付き合うって話になってんだよ。ちげーよ。先輩んとこ行くから、ついて来てって」
「ああ、凸するって言ってたヤツか。こんな土壇場になって」
ようやく思い出した。そういえば、そんな約束したっけ。すっかり忘れていた。
「だってほら、今週末はもうクリスマスだし」
「あー…なるほどね」
階段を登って、三年の教室に向かう。廊下で、もと馬術部の部長・大川に会った。
「おう。八軒、おひさ。どこ行くんだ?」
「あの、食品科に」
「豊西か? 呼んでやろうか? つーか俺も豊西んとこ行くんだけどさ。一般教科のノート返しに」
「あ、いや、豊西先輩じゃなくて、稲田先輩」
「ああ、こないだのオムライス対決のトメさん」
おかしな覚え方をしているようだが、大川なりにウンウンと頷くと教室の引き戸を開けて首を突っ込み「豊西ィ、これ。あと、トメさんも呼んで。まだ帰ってないだろ」と、大声で呼ばわった。
「トメさんって……ああ、稲田君のこと?」
西川は訳が分からず「なぁ、ハチ。トメさんって何?」と尋ねたが、一言で説明できるようなものではない(※花蘇芳参照)。
豊西は大川からノートを引ったくるように受け取ると、もう大川には用は無いといわんがばかりに八軒に向き直り「ご無沙汰。今日は、どうしたの?」と、尋ねた。
「あー…その」
八軒が口ごもり、西川がとっさに「稲田先輩に一年のカノジョが出来たって、マジですか?」と尋ねた。
「え? そうなの? 私ら三年は、もうそんなことにウツツを抜かしていられるようなシーズンじゃないわよ」
「ですよね。いや、一年の食品科でそういう噂になってるって聞いて」
八軒はその隣でコクコクと頷いている。
「あー…もしかして、恋愛相談に乗ってやってたけど、結局誰が相手だったのか分からなかったって噂の、アレか。男子が騒いでたヤツ」
ねぇ、と豊西が振り返った先に、稲田が憮然とした表情で立っていた。
八軒が勇気を振り絞って(それでも、西川の背中に半ば隠れたまま)「札幌までデートしたとか、先輩の家に遊びに行ったとか聞いてるんですけど、本当ですか」と尋ねると、割とあっさりと「ああ、それは本当だが」と返って来た。大川がヒュッと小さく口笛を吹き、豊西も「稲ちゃん。やるんでが」と呟いた。
稲田は面倒くさそうに溜め息を吐くと「だから、その子の相談にのってやって、プレゼント選びに付き合っただけだっての。確かに家にも来たけど、ツレが合流したりして、ふたりきりにはなってないし」と、続ける。週明けからもう、何回、同じ説明を繰り返したんだろう。いっそ、本当に池田(あるいは、その友人)の恋の標的が自分だと告白されていた方が、あっさりキッパリ断ることができた分だけ話がスッキリしていたに違いない。
それでも納得のいかない様子の八軒が「じゃあ、駅でお姫様抱っこしてたっていうのは?」と、畳み掛けて来る。
「あー…アレか。誰かに見られてたかな。汽車で爆睡してて起きないから、仕方なく引きずり下ろしたんだが」
実際にやましいとは考えていないせいもあってか、稲田は顔色ひとつ変えずにそう言い切った。
「だからって、お姫様抱っこはないじゃん」
「汽車で寝過ごしたら、シャレにならないし、まさか女の子の襟首掴んで引きずるわけにもいかんだろうが……じゃ、今度は俺から尋ねていいか? 豊西さんとそっちの彼は、外してくれないか?」
「ああ、俺はノート返しに来ただけだし」
大川はそういうと「じゃな、八軒」と手を振って帰って行った。豊西は「うわ、超面白そうな話だって、女の勘が囁いてるのに」と悔しがってみせたが、稲田に睨まれて「じょ、冗談よ。稲田君、八軒のことになるとムキになるんだから」と肩をすくめた。
「さて。これ、お前のメアドで間違いないな?」
人払いをすませると、稲田が自分の携帯電話を取り出し、アドレス帳を開いて八軒に見せた。
「あ、はい。確かに……これ、誰から?」
「豊西に聞いた……と言いたいところだがお前から俺に送ってきている。心当たり無いか?」
八軒がおどおどと後ろにいた西川を振り返り、西川はブスッとした表情のまま片手を挙げて「メールなら、俺っス」と、白状した。
「多摩子にメアドとか聞いたっていうから、冗談のつもりで勝手に代筆して送ったんですけど、ハチが余計なことするなって、発狂しちゃって」
「電話も、先週が初めてじゃなくて、そのかなり以前に架かって来たことがあるんだが」
それは初耳だ。八軒と顔を見合わせてから、西川が「かなり以前って、具体的にいつッスか?」 と尋ねた。
「その日の夜中だな。履歴は残ってないが……寮生は携帯電話は夜、使えないんじゃなかったっけ?」
メールと同じなら、依田先輩んちに転がり込んだ日だなと、すぐに思い出せた。ここで八軒の無断外泊を告白して依田先輩に罪を(というか、多分、事実)をなすりつけるべきか、それとも、ここは自分が被ってうまく取り成すべきか、西川はかなり迷った。誤って地雷を踏み抜けば、体格差のある相手にフルパワーで殴られる恐れがある。そもそも、妹の多摩子が空手をやってるということは、その兄だって何かしらの格闘技の類いを嗜んでいた可能性が高い。そんなんで本気出されたら、俺、マジで命の危険があるんじゃね?
「あのー…どういう電話でした?」
「さぁ? 誤発信みたいだったが……後ろに誰か男がいたようだったな。声がしてた」
八軒が、何かを思い出そうと首を傾げているが、西川は嫌な予感がして「ああ、すみません、それも俺」と、とっさに割って入った。あの日、部長さんの家から帰って来たハチはどこか浮かれていたし、はっきりとは白状しなかったがアルコールを飲んでいたように見受けられる。そういえば出血が云々と言っていて……先日の夢のこともある。まさかとは思うが、下手に突けばひょうたんから駒というか、鬼が出るか蛇が出るか、というか。おかしなことを思い出す前に誤摩化してしまわなければ。
「そのケータイに迷惑メールが多いとかいうんで、そのイタメールのお詫びがてら、フィルターの設定弄ったり、ネットしてて登録したことになってた懸賞サイトとか退会したりとかするのに結構手間かかりそうだったんで、部屋に持ち込んでたんです。そしたら思ったよりもゴチャゴチャしてて、あれこれ触ってるうちに短縮ダイヤルで架かっちまったみたいで」
「そうなのか、八軒?」
強い口調で質され、稲田のそんな厳しい表情を見たことのない八軒は怯えて俯いてしまう。
「コイツ、携帯とか詳しくないし、誤発信させたのは俺なんで、コイツに聞いても分からないと思います。すぐ切ったし、どうせイタ電扱いで忘れられるだろうって考えて、お詫びに行くのを怠ってました。スミマセン」
ふぅん、と呟いてしばらく、無言であった。
その張り詰めた空気を肌に感じて、さて胸倉を掴まれるか、殴られるか……と内心ヒヤヒヤしていた西川であったが、肩にポンと手を乗せられただけだった。
「とりあえず今日のとこは、カレシさんの言うことを信用しておくよ」
「は、はい」
こわごわ見上げた顔は、口元に笑みすら浮かべていた……が、笑顔のままシレッと屠殺もできる人だと聞いている。なにより善人に見えても所詮はあの多摩子の兄だ。侮ってはいけない。
「西川は、カレシじゃないし」
そこで、八軒が空気を読まずに突っかかってきた。なぜかそこで稲田が「でも、そういうことにして、色々助けてもらってるんだろ?」と、嗜めている。
「でも、ホントは違うし。先輩がそれを言うの、オカシイし」
「ともあれ、池田さんの件は誤解も解けたようだし、俺の方も携帯の件は説明を聞いたということで、手打ちにしていいかな?」
西川はその『大岡裁き』に安堵してへたり込みそうになったが、八軒は「なんで池田って子は、俺も行ったことない先輩の家に遊びに行ってるんですか」と、まだ不満そうな表情を浮かべている。
「分かったよ、じゃあ、今晩ウチに泊まりにおいで」
そう聞いた途端に「え、いいんですか? 行きます! 絶対に行きます!」と、八軒は目を輝かせた。
「待ち合わせとかは、携帯電話があるから適当でいいな?」
「は、はい!」
感激のあまり、子犬のように稲田に抱きつき(多分、ついでにキスをしまくり)そうになった八軒だが、ここは学校の廊下だ。西川が慌てて八軒の制服の袖を引っ張って抑えた。
その日の午後や部活をどうやって過ごしたのか、記憶にないぐらいフワフワと過ごした八軒であったが、ふと我に返って「外泊かぁ……でも、どうやって出たらいいんだろ?」と、呟いていた。なにしろ脱走は重罪、一週間便所掃除の刑だ。
「したっけ、外泊届出したらワ? つーか、出かけるんなら出さんきゃないっしょ、本来」
すっかり脱走&無断外泊コンボの悪い癖がついていたようで、西川に指摘されるまで、八軒はその制度の存在をまるっと忘れていた。
「ああ、そっか。ちゃんと届けだしたらいいんだよね。用紙とか、どこにあるんだろ」
「センセの詰め所だべサ」
「理由とか、どうしよう」
「私用のため……じゃ、漠然とし過ぎてダメか。家族との面会のため、とかどうよ? 例のにーちゃんが近くにきたとかで」
「むう、納得いかん」
だが、他にいいアイデアも思い浮かばなかったので、職員控え室に行って先生から用紙を受け取ると、そう記入した。
「八軒君も家族と面会、か。冬休みだしクリスマスが近いから、里心つく子が多いんかな。今日、これで二件目だわ」
疑いもせずに用紙を受け取った先生が、承認欄にシャチハタを押し付けながら、そんなことを言った。
「他にも外泊する人が居るんですか?」
「稲田君」
「えっ!?」
「ほら、君のクラスメートの」
「ああ、多摩子か」
「お母さんが近くに来ているとかで」
痩せてキレイになった多摩子にソックリというか、兄・真一郎が女装したらかくや、というか。初めて見たときには「姉もいるのか」と思ったほどに、派手な顔立ちで若作りの稲田母の顔を思い出して「はぁ、あの人が」と呟いていた。
職員室を出ると、廊下で待っていた西川が「どうだった?」と尋ねる。
「うん。バッチリ。なんか、多摩子も外泊するんだって」
「多摩子? まさか、先輩の家じゃないべな」
「さぁ。先輩そんなこと言ってなかったし、先輩も、多摩子が来るって分かってたら、俺を自宅に呼ばないっしょ」
「それもそうだな。仲直りのしるしに、一晩心置きなくヤりまくるんだろ? 下着、ちょっとは色っぽいのを履いてけよ」
「色っぽいのって、どんなだよ」
「どんなって、そりゃ勝負下着だろ。例えば……黒のビキニとか?」
「ええっ、そんなの持ってない! トランクスばっかりだよ。やっぱり色っぽくないとダメ?」
「そりゃ、脱がして萎えるようなパンツじゃダメだべサ」
「ど、どうしよう。途中のコンビニとかでそーいうの買って、履き替えた方がいいかな」
「コンビニまで数キロあるけどな」
「ああああああっ、これだから田舎はああああっ!」
「とりあえず手持ちのパンツから、一番マシなのを選ぶか?」
冷静に考えたら凄まじく間抜けなことをしているような気もするが、せっかくのチャンスを潰すようなドジはしたくないから、用心には用心を重ねておきたい。
「う、うん。手伝って」
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