当サイト作品『熏衣草』の続編。
稲×八前提です。予めご了承ください。

花蘇芳【1】


馬術部の部室に遊びに来ていた元部長の大川が唐突に「どうしてウチの学校が、わざわざ校則で不純異性交遊を禁じてるか、知ってるか?」と、真面目くさった顔で言い出した。日報を書いていた八軒は、手を止めるどころか、視線すらもあげずに「え? いや、知らないです」と答える。

「実は、過去に何人もの男子生徒に言い寄られていた女子生徒がいたらしいんだけどさ。それを適当にあしらっているうちに全員から恨みを買ってしまって、彼らにレイプされた挙げ句に殺されたっていう事件があってサ」

「へぇ」

「なんだよ、全然本気にしてない顔だな。ウチの実習林の奥にある山小屋が、その現場なんだってさ。そういう事件が二度と起こらないように、っていう戒めで校則に乗ったらしいんだぜ」

「ふーん。木野、知ってた?」

帰る支度をしていた森林科一年生の木野が、首を振る。
新部長で食品科二年の依田が「まぁた、その話ですか。先輩」と、苦笑いした。

「また、ってことは大川先輩の十八番のホラなんですか? 確かに、林っていうか山奥に、かなり古い小屋がありますけど」

木野が思い出したように言い出したため、大川は「ホラじゃねーぞ。その山小屋の壁にさ、こう、その時に飛んだ血の染みがついてるって」と、八軒から木野にターゲットを替えた。

「先輩は、現物見たことあるんですか?」

「いや、俺は森林科じゃないから見たことはねーけど、昔、先輩から聞いた」

ああ、こうやって都市伝説が育っていくんだな、と八軒は苦笑いをしながら書き上がった日報を片付け「したっけ、そろそろ俺帰りますね」と宣言した。

「あ、じゃあ私も帰る」

御影が立ち上がる。おおっ、二人きりで夜道か? と期待した八軒であったが、御影は間髪をおかずに「真奈美と円山君も、一緒に帰ろうよ。あ、木野君も」と続けた。

「……ですよねー」

「どうしたの、八軒君?」

「いや、なんでもない」

畜生、こっちも一ミリも進展ねーな。こうして、毎日顔を会わせて会話できているだけで、充分なのかもしれないけれど。
先輩なんて、もう何日も姿すら見てないもんな。学年も学科も部活も違うし、寮生じゃないみたいだから、会えなくて当たり前だけど。

「八軒君?」

「ん? ああ、なんでもない」

今日だけでも同じ会話を何回か繰り返したような気がするが「なんでもない」としか答えようがないので仕方ない。御影もそれ以上は踏み込んでこようとはしなかった。




寮に戻ると、八軒の机の上に輪ゴムで束ねられた封筒の束がいくつか転がっていた。

「何コレ?」

切手が貼られていないところを見ると、実家や札幌の同窓生からではないようだ。西川が露骨に嫌な顔をしながら「ラブレターらしいぜ」と答えた。

「ラブレター? おおっ、ようやく八軒勇吾クンの時代の到来か?」

「男からだけどな」

「なにそれ。なんかの強制労働のお誘いとか、セミナー的な何かとか?」

「いや、ホントにラブレターらしーぜ。今まではタマコんとこでまとめて管理してたみたいだけど、これからは直接応対しろってさ」

ああ、そういえば前に鍋奉行がどうのこうの言ってたしな。じゃあ、女衒の真似事は諦めたってことなのかな。もしかしたら一人か二人……という淡い期待を胸にパラパラとめくってみたが、女の子の名前は見当たらなかったので、束ごとゴミ箱に放り込んだ。

「……大胆だな、ハチ」

「別に俺、男に興味があるわけじゃないし」

……先輩以外は、と胸の中で呟く。そういえば最近、携帯にもナンパのようなスパムメールがやたら届いていると思っていたが、もしかしたらそれも、本気で口説いてきている野郎からのラブメールだったのかもしれない。ほとんど目を通さずに削除しているけれど。

「そーいやハチ、先輩への告白、結局どーなったんだ?」

「最近は、先輩の姿すら見てないや」

「ふーん。ま、最近はオマエよく寝れてるみたいだから、別に俺は気にしないけどさ」

そういうと、西川は読みかけの漫画に視線を戻した。
風呂の時間までにはもう少しあるな。ちょっとベッドでゴロゴロしてようかな、と八軒が思った途端、誰かがドアをノックした。

「は、八軒君、居ますか?」

「俺だけど?」

「あの、ちょっとお時間いいですか?」

「はぁ」




八軒が渋面で戻ってきたのを見て、西川は「皮肉なもんだな、告白しようとしてた側がされる側になって。でもまぁ、よりどりみどりの中から、好みのんを選んでOK出したらいいんじゃね?」と、冷やかした。

「だから、男に興味ねーんだって……先輩以外」

「カワイソーにあのモヤシ、お前が居ない間に、何回か来てたわ」

「知ってたのかよ」

「つーか、お前本当に男にモテモテだったんだな。今までよく襲われなかったよな。それぐらい、多摩子がうまく釣ってコントロールしてたってことだろうけど。やっぱ多摩子に管理してもらうか?」

「釣って、って餌が俺自身だろ。そんな話に乗れるかよ。評判の断らない男も、但し性的な意味を除く、だ」

胸を張って八軒が宣言するが、その途端にドアがノックされた。思わず、西川と顔を見合わせる。

「ハチ、さっそく性的な意味を除いてくるか? それとも居留守にするか?」

「居留守、頼むわ」

八軒はベッドに上がり込んで隠れ、西川が代わりにドアに向かう。

「はいはーい。絶賛大人気の八軒勇吾クンはいませんよーと」

「え? 八軒君、まだ帰ってないの?」

「あ、なんだ。相川か」

それを聞いて、八軒もベッドから這い出してきた。
確かにドアの外に居たのは、クラスメートで同じ実習A班の相川であった。

「なに? なんかお菓子でも持ってきてくれたの?」

「いや、持ってきてないけど……なんか最近、僕に八軒君を紹介してくれとか頼む奴が居たりしてて、八軒君の身辺がちょっと心配になったから。全部テキトーに断ってるけど」

「おおっ、助かる。さすが相川」

「ああいう手合いは、ほんの僅かでもチャンスがあると思うと引かないから、徹底的に叩き潰した方がいいと思うんだ。ちょっとその件で擦り合わせをしておこうかな、と」

相川はそういうと、後ろ手にドアを閉じた。

「擦り合わせ?」

「もうちゃんと恋人が居るから、口説いても無駄ですよって設定にしておけばいいんじゃないか、って思ってさ。で、御影さんとは相変わらずみたいだし、そもそもそうやって女性を矢面に立たせる形になるのはフェアじゃないから、誰か適当に見繕ったらいいんじゃないかな、と」

「せんぱ……いや、あのひとをそんなのに巻き込めないよ。大体、その……あまり周囲に知られたくないし」

「うん、分かってる、だから別の誰か……」

話を続けようとする相川を遮って、西川が「じゃ、俺がソレ引き受けようか」と、片手を挙げた。

「え、西川じゃ、やだ」

「バカ、贅沢言ってる場合か。どうせカモフラージュなんだから。相川、つまりそーいう相談だろ?」

「アレ、僕ってことにしようって言いにきたつもりだったんだけど。ほら、僕と八軒君は、一緒に居ること多いから、そういうことにしても自然でしょ?」

「今回の場合、逆恨みされてボコられる危険もあるから、相川じゃ無理だろ。相川、背は高いけどヒョロいもんな。俺なら大丈夫だ。そーいうの逃げるの、得意だから」

「逃げんのかよ!」

「逃げをバカにするな。三十六計逃げるにしかず、だぜ。ハチだって、生きるための逃げはアリアリですって、あのコロポックルに言われたんだろ?」

そう言われてしまえば、八軒も「ぐぬぬ」としか言えなくなる。

「そうだね。僕も恨まれるのは嫌だから、八軒君の周辺が落ち着くまでは、そういうことでお願いしておこうかな」

御影とのことも進展してないのに、なんでこんなところで大ハッテンしてるんだろう、と八軒は頭を抱えたくなった。
「じゃ、今度からはそういう言い訳で撃沈させておくから、よろしくねー今度部屋訪問する時は、なんか食べ物持ってくるわ」と爽やかに言い残して、相川が帰って行った。

「よろしくねー、だとさ。じゃあ、よろしくな、ハチ」

しれっと手を差し出してみたが、八軒は西川の手を邪険にはね除けて「ただの、カムフラージュだからな」と宣言した。

「おいおい。それっぽくしておかないと、信じてもらえねーべ。沸いた虫を退治するまでの短い間なんだから、我慢しろや」

「だって」

「添い寝もキスもした仲だろ」

「あれはノーカウントって言ってたじゃないか! 認めない、俺は認めないからな! つーか、やっぱ相川ってことにしてもらうわ。そっちの方が絶対にマシだし!」

「待て待て待て、だから今回のは相川じゃ、役者不足なんだって。あいつ喧嘩とかできないべ? ノーカウントでいいし、変な事したりしないから、とりあえず落ち着け?」

今にも部屋を飛び出しそうな八軒を羽交い締めにする。なかなかおとなしくならないどころか、今にも振りほどかれそうなぐらいの火事場の馬鹿力を発揮しているのに手を焼いて、西川は仕方なく八軒の足を払ってベッドに突き倒した。思いがけない手荒な扱いに驚いたらしく、八軒が体をすくめる。見上げる顔が恐怖に引き攣っている。

「あ、その……悪い。痛かったか? とりあえず、落ち着け。何もしないから。そもそも、お前のためにやってんだぜ?」

「う、うん」

「先輩を巻き込みたくないんだろ?」

八軒はうなづいてはみせたものの、心配して肩に触れようとした西川の手は、蝿でも追うように払った。




勉学と部活と課外活動としての強制労働に生活のほとんどを占められる灰色の学校生活に於いて、色恋の噂は燎原の火の如く広がる。翌朝の朝食時には、西川と(※別府も一緒に)食堂に入るだけでも、痛いほどに視線を感じた。ひそひそと囁き交わす声も聞こえるようで、妙に居心地が悪い。

「なにこれ、すげぇストレス。こういうの、胃にキそうなんだけど。もう辞めたい」

「まだ一日も経ってねーぞ。けっぱれよ」

「こんなんで頑張りたくない……つーかこれさ、もしかして先生の耳にまで入ったら、西川とふたりして職員室入りなのかな」

「そんときは、フツーにルームメイトです、清らかな関係です、キリッ! ってすりゃいいだろ。つーか、不純異性交遊ネタで三度も職員室に呼ばれるって、そうそう無いだろうな。殿堂入りもんじゃね?」

「そんな記録樹立したところで、全然嬉しくねーよ!」

「あんま大声出すと、注目浴びるぞ」

「ううっ、納得いかない」

「我慢しろよ。ベーコンやっから。ほれ、あーん」

衆人環視の中、あーん、なんかで食えるか。そんなことしたら、火に油を注ぐようなもんじゃねーか、と思いつつも、いざ熱々で脂が滴っている分厚いブロックベーコンを差し出されると、ついつい食欲に負けてしまう八軒であった。




「ねぇねぇ、稲田君。稲田君ってば」

さっきから単語帳をめくっていたが、目が滑ってまったく頭に入って来ない。今日の小テストやばいな、などとぼんやり考えていたところ、バンッと机を叩かれてようやく、自分が呼ばれていたのだと気付く。視線をあげるとやけに視界が真っ暗だった。目の前に立ちはだかっている女子生徒の長い黒髪のせいだ。

「ああ、豊西さんか。何?」

「聞こえてなかった? 稲田君ってば、八軒のこと詳しいのよね、って」

「詳しいっていっても、毎日のように顔会わせてた豊西さんほどじゃないよ。俺はほら、妹がクラスメートってだけで」

うん、無理。
今日はあきらめよう、と稲田は単語帳を机の上に放り出した。

「八軒だけどさ。ウチんとこの御影に気があると思ってたんだよね。そもそも御影が居るからって、馬術部に入ってきたんだし。でも、最近、オトコができたって」

「みたいだね。農業科の子だっけ? 寮で噂になってるって聞いた。男の比率が多い学校だし、男にも好かれそうなタイプだから、不思議じゃないのかもしれないけど」

それのおかげで、今日の小テストは爆死しそうなんだけどね。八軒のやつ、気になっている女子が言ってたんだけど、どうしたんだろうな。だが、八軒自身が己の意志でそうと決めたことなら、どんな形であろうとそれでいい、と考えている。もちろん、そう簡単に感情は割り切れるものではないけれど。

「実際んとこはどうなのかしら、って思って」

「さぁ。多摩子は詳しく知ってそうだけど、アイツとも滅多に会わないからなぁ」

むしろ「実際のところ」を聞きたいのはこっちの方だ、とはあえて言わない。聞いたところで妹はタダでは答えない守銭奴だし、カネを払ったところで素直に事実を述べるとも思えないひねくれ者であることは、長い付き合いでよく知っている。さっさとこの話題を終わらせてしまいたかったが、豊西は「女のカンだけど、あれはフェイクよ」と食い下がった。

「そう思うんだったら、豊西さんが直接聞いたらいいんじゃないかな。引退したとか言っても、空いた時間に部室に行くのは自由なんだし」

「部活繋がりだからこそ、御影のこととか引っかかって、素直に話してくれないんじゃないかって思うのよ。だからこそ、部活以外の繋がりがある人に手を貸してもらいたかったんだけど」

「手を貸すもなにも、俺は八軒との直接の繋がりは、何もないよ。ほとんど赤の他人」

吐き捨てた言葉が己の首を絞めるようで胸が苦しくなるが、そんなことはおくびにも出さず「そろそろ先生、来るぞ」と豊西を促した。
例えそれがフェイクだったとしても、八軒が自分の意志でそう装うと決めたんだったらそれでいいじゃないか、と稲田は自分に言い聞かせる。拒むつもりは一切ないが、敢えて去る者を追いはしない。俺にそんな資格はない。
自席に戻っていく豊西の背中を眺めながら、そういえば今日の実習は何だったかな、と考えていた。さすがに今日は刃物を扱いたくないな。なんか、手元が狂いそうで。




二人並んで部室に向かう途中、ふと、御影が立ち止まった。数歩進んで八軒も足を止め、振り返る。

「どうしたの?」

「あの、八軒君。これ」

御影は頬を染めながら、小さな水色の紙袋を差し出した。ちょうど掌に乗るぐらいのサイズで、可愛らしくリボンでラッピングされている。

「俺に? プレゼント?」

「うん」

俯き加減の御影の掌から、それを受け取る。振ると微かにカサコソと音がした。紙? 手紙でも入っているんだろうか。やったぜ八軒勇吾、ようやく春の到来か? これで男がどうのこうのいう不毛な環境から晴れて脱却だ。おめでとう、おめでとう俺。ありがとう、ありがとう御影。信じてたよ、御影。暗黒だった俺の青春に差した一筋の希望の光。君の導きで、俺はこの不毛な大地も歩いていけるんだ。

「これ、開けていい?」

「え、ちょっと恥ずかしい……でも、いいよ?」

リボンを解き、紙袋に貼られていたシールを剥がす。袋の口を開け……中から白い箱が出てきた。それを見た途端、八軒の顎がガクッと落ちそうになる。

「えーと。御影、これ、何?」

わざわざ聞かなくても、箱にデカデカと商品名と効能が印刷されているので『見れば分かる』という状態なのだが、それでも八軒は御影に尋ねずにはいられなかった。ほら、もしかしたら何かの間違いで「あ、ごめーん、こっちの袋だった。間違えちゃった、てへぺろ」って可能性があるかもしれないし?
だが、御影は極めて真顔で「要ると思って、購買で買って来たよ。患部の場所によって対処が違うんだってね。注入も塗布もできるタイプのを探したから」と答えた。八軒はがっくりと脱力して、地面に両手をついた。そうだ、御影との付き合いに於いては、無駄な落ち込みを回避するための心構えは常に必要だった筈なのに、つい舞い上がってしまった。

「どうしたの、八軒君? 大丈夫?」

「あー…うん、なんでもない」

「やっぱりお尻痛いの? 悪化させると馬に乗れなくなるから、こまめにケアした方がいいよ」

御影は多分、心から八軒の尻を心配して、痔の注入軟膏を買ってきてくれたのだろう。嫉妬でもなく、興味本位でもない、ただひたすら純粋な友人としての、素直な好意で。

「じゃあ、私、先に部室に行ってるね?」

御影が立ち去る。それは二人の物理的な距離が離れるというだけでなく、心理的にも遠ざかって行くような気がした。しばらく立ち直れず、そのまま地べたにうずくまっていると「八軒君?」と呼びかけられた。

「ああ、相川か。お前の昨日の提案のせいで、俺の人生めちゃくちゃだ。変な虫どころか、御影にまで避けられたじゃないか」

「何の話? なんかしんどそうだから、ウチの部室でなんか飲んで、少し休んでくといいよ」

しれっと誘いをかけた相川は、八軒の返事を待たずに腕を掴んで立つように促した。
確かにこの心理状態では、馬術部の部室に行っても、無事にマロン号に乗れる気がしない。いや、馬に乗るだけが部活ではないのだから、もくもくと馬房の掃除でもして汗でもかけば、少しは気が晴れるのかもしれないけれど。

「御影が痔の薬くれた」

「へぇ、良かったね」

「良くないよ! 西川とそーいうことヤってるって思われたってことじゃないか。というか、御影にぐらいは、誤解しないように前もって根回ししといてくれれば良かったのに」

「敵を欺くにはまず味方から、だよ」

「過ぎたるは及ばざるがごとし、とも言うじゃないか、畜生」

不満たらたらながらも、八軒はホルスタイン部の部室に入った。振り向いたホル部の三年が「おう、お姫様同伴か、相川」と冷やかした。

「誰がお姫様ですか」

「お前だよ。三年にまで評判伝わってるぞ。おい、二又。お姫様にミルク出してやれ」

ホルスタイン部の一年、二又が湯気のたっているマグカップを運んできた。八軒だけでなく、ホル部全員分ある。

「ウチで丹誠込めて育て上げた女王のミルク、絞り立てだからな。正座して心して飲めよ」

「はぁ」

絞り立てのうまさは、御影の実家で味わっている。あの時は冷やしても温めてもいない常温状態であったが、それでもコクがあってまったりと舌に広がるのを感じる事ができた。いわゆる牛乳特有の臭みすら、濃厚な甘みに包まれて絶妙なハーモニーを奏でていて。

「冷たくした方が飲みやすいんだったら、冷蔵してるのを出すぞ。温めた方が腹には優しいから、とりあえずホットにしてるが」

「いえ、大丈夫です。どちらでも」

実際には、脂肪分やタンパク質が塊で浮いているような生乳は濃過ぎて、人によっては消化できずに腹を下すのだ。特に日本人は、実に95%が乳糖を消化できない体質なのだ。幸い、八軒は幸運な5%に含まれているらしい。
マグカップを両手で包んで、ミルクの表面をふうふう吹いてから、口をつける。通常の牛乳よりも厚い膜が張っていて、まずはそれを啜り込んで食べるような形になった。

「相川、この膜、ミルクカイゼンっていうんだっけ」

「そうそう、タンパク質の。ラムスデン現象だね。こないだ授業でやったヤツ」

しばらくの間、全員無言でずるずると牛乳を飲んでいたが、八軒はふと我に返った。

「いやいやいや、牛乳なんかで誤摩化されないぞ」

「誤摩化すつもりなんてなかったんだけど……お代わり要る?」

「あ、欲しい……じゃなくって!」

そもそも、この状況は相川のせいじゃないか。それに、さっきホル部の人、なんて言ってた? 三年にも評判って。それってつまり、先輩の耳にも入るってこと? 最悪だ。

「責任とれよ、畜生」

「責任とれって、どうやって。付き合うとか? 別に僕は構わないけど。昨日の話だって、西川君が立候補しなかったら、僕が被るつもりだったんだし」

「だから、なんでそういう方向に」

「大丈夫だ、八軒。ホル部一同、総力を挙げて、お前らの仲をバックアップしてやるから」

先輩方が無駄に良い笑顔で親指をグッと立てるのが、腹立たしさを倍増させる。

「いや、だから、そういう方向じゃなくて」

やっぱりオカシイ、ここの部活。日本語通じない、助けて。なにこの感覚こわい。泣きたくなって俯いてしまった八軒の頭を、相川がそっと撫でた。ついほだされて、相川の胸にもたれかかりそうになったが、これは巧妙な罠じゃないかと、八軒の第六感が囁いて辛うじて踏みとどまった。確か、ホラー映画とかでこういう展開があったような気がする。

「あっ、あのっ、ミルク、ごちそうさまでしたっ!」

そう叫ぶと、カバンを引っ掴んで部室を飛び出す。

「惜しい。もう一押しだったね、相川」

二又が苦笑いしながら、マグカップを片付ける。相川はそれには直接コメントせず、テーブルの上に転がっている箱を拾い上げ「八軒君、もらった薬忘れていったみたいだね。後で、部屋に届けてあげようっと」と、呟いた。

初出:2012年12月12日
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