当サイト作品『熏衣草』の続編。
稲×八前提です。予めご了承ください。

花水木【1】


ふわりと包まれている感覚が心地よくて、身を委ねていた。
先輩だけは俺を受け止めてくれるから。豚丼に名前を付けた時だって、周りの人は皆、馬鹿なことをと嗤ったけど、先輩だけは理解してくれた。何度かお願いごとをした時も……狂気の沙汰と言われたほどの無茶だって、いつも嫌な顔ひとつせずに手を貸してくれた。だから、俺から差し出せるものがあれば、なんでも……俺なんかのものでよければ、なんでも。

「八軒、いい味覚してるよな。この舌」

長い指が緩く開いた唇に触れ、ぬるりと内側に滑り込んでくる。その指に赤ん坊のように吸い付き、舌を絡めると、くすぐったそうに手を引っ込められてしまった。

「可愛い。食べちゃいたくなるぐらい」

先輩にだったら、食べられてもいいよ。唇が触れ合う甘美な感触を、目を閉じて待っていたが、いつまで経っても何も起こらなかった。
あれっ、と思ったが何故か、声が出ない。目を開けると、稲田はびちびちと動めく赤い肉片のようなものを片手に摘んで、ニコニコと笑っていた。

「じゃあ、八軒君の舌は貰っていくね。大切にするから」

えええ、ちょっ、ちょっと待って。なにそれ?
叫びたいのに声は出ず、四肢も泥の中に突っ込まれたように重たくて動きにくい。舌だけ、俺の価値は舌だけですか。

「残り? 皆でテキトーに鍋にでもしたら?」

鍋? 鍋ってまさか。
後ろから誰かに捕まれ、引きずり倒され、押し潰される。嫌だ、嫌だ。絶対にお断りだ。生きるための逃げならありありです、だ。振り払っても振り払っても肌にまつわりつくねっとりとした感触と、こみ上げてくる恐怖と生理的嫌悪……やがて、先輩にまで棄てられたという絶望感が、ひたひたと全身を飲み込む。
要らない子なんだ、やっぱり俺は要らない子なんだ。落ちこぼれていい学校も行けなくて運動もできなくて馬術も酪農のことも御影の足元にすら及ばなくて、そして、唯一認められていた味覚も無くなってしまったら、俺は。

う、わ、あ、あああああああ 、あ、あ。




ぼふ。

なにやら柔らかいもので顔面を殴られた。
気付けば自分はベッドに寝ており、抱き枕を抱えた西川が自分を見下ろしている。どうやら自分は夢を見ていたらしい……と、八軒は理解した。先ほど殴られた鈍器(むしろ柔器?)は多分、その抱き枕なのだろう。

「就寝時間も一応プライベートタイムだから、サカろうとシコろうとうなされようと勝手だけどさ。ひとの睡眠の邪魔すんじゃねーよ」

「あ、ゴメン」

思い切って先輩に告白しようと決めたものの、いざとなると具体的に何をどう伝えたものか皆目見当がつかず、ここ数日、悶々と考えていて熟睡できていなかった。おかしな夢をみたのも、そのせいだろう。

「ほれ。これ貸してやっから、おとなしく寝とけ。つーかもう、やるわ。お前の匂いついちゃって、臭い」

「え、要らない。こんなん持ってたら、オタクだと思われるもん……借りるけど」

「だったら、休みの日にヨーカドーにでも行ってフツーのボディピロー買え。ちょっと高いヤツだったら、抱きつくだけじゃなくて腕枕で寝てるふうとか、だっこで寝てる感じになるやつとか色んなのあるから、自分で好きなの買え」

「あー…いいな、そういうの」

抱き枕を受け取り、抱きついて足まで絡めて、八軒はコロンとベッドに転がる。その甘ったれた姿はあまりにも無防備で、西川ですら「これ、写真に撮ったら売れないかな」などと不埒なことをついつい考えてしまうほどだ。

「なんだよ。腕枕とかしてもらいたいのか。つーか、そんなにヤりたいんだ?」

「ヤりたいとか、そんなんじゃない」

「じゃあ、付き合いたいとか?」

「男同士でそーいうの変じゃん。そりゃ、会いたいとか話をしたいとか、多少はあるけど、三年生だから、進路の邪魔しちゃいけない、って分かってるし」

「だったら一体、どうしたいんだよ」

「んー…とりあえず今は、寝たい」

ま、そうだろうな、と西川は苦笑する。ルームメイトは抱き枕に顔を埋めるや否や、すやすやと寝息を立てていた。馬術部の朝は早い。




「西川にお願いがあるんだけど」

食堂で朝食をカッ食らいながら、八軒が言い出した。西川はまだ寝起きのためにボンヤリした頭で、生卵を小鉢の端にコツコツ打ちつけながら「んー?」と生返事を返した。

「先輩に告白するの、協力して欲しいんだ」

ごしゃ。
予想外の依頼に驚いて、思わず卵を握りつぶしてしまった。あーあ、もったいない、と呟きながら、西川は化け猫のように掌を舐める。

「ああ、ごめん。大丈夫? 手拭いか何か、貰ってきてあげようか?」

「いや、ティッシュあるわ。で? どうしろと。俺に三年の伝手はねーぞ。学科つながりなら、別府を頼め」

「そういうんじゃないんだ。その、段取りじゃなくて、下準備っていうか、告白の中身っていうか……具体的に言うと台詞、かな」

「台詞ゥ? 確かにお前口下手だもんな。下手に向こうの土俵に引きずり込まれたら、言いたいことの半分も言えないだろうしな。かといって、感情剥き出しで訴えても見苦しいし」

「ううっ、やっぱり見苦しいんだ。そうだよね、呆れられるよね。ああああ」

何やら思い出したらしく、八軒は箸を握ったまま悶えている。西川はあえてその内容については追及せず「割った卵の代わりに……って、お前もう卵食っちまったか。じゃあ、その鮭の切り身くれよ。それで手を打ってやる」と要求することで、会話を無理やり立て直した。

「え? これ? もう箸つけてるからダメ」

「俺は食いさしでもかまわねーよ? 貴重な蛋白質だし」

「俺が嫌だ。間接キスになるじゃん」

なにが間接キスだ、とツッコみたかったが、ファーストキッスを大切に守っている八軒にとっては、間接といえども疎かにはできない重要事項なのだろう。

「へーへーそうだな。先輩に捧げたいんだな」

「うん」

なんか損な役回りだなぁ、と思いながらも、いかにも嬉しそうな八軒の顔を見ていると怒る気にもならない。

「じゃあ、今日の部活が終わったら、ビニールハウスの裏でいいな? 俺、今日もそこらへんで作業だから」

「鶏舎側の端のあたりだっけ? 分かった」




季節柄、部活が終わるぐらいの時間になると、そろそろ薄暗い。
夕食の時間に間に合うように寮に戻る時間を逆算すると、小一時間ぐらいかな。そんなにかからないと思うけど……と、西川が首に巻いたタオルで顔を拭いながら待っていると、八軒がパタパタと駆けてきた。

「おせーぞ。告白するんだったら、遅刻は御法度だべ。十分前行動、十分前行動」

「だって、依田先輩、俺に日報押し付けるんだもの」

「ハイ、言い訳しない。お前、先輩相手にもそーやって口答えすんのか?」

部活中に落馬でもしたのか、左肘にこびりついている土埃を払い落としながら、八軒は「……しないな。つーか本番じゃ遅れないし」と、不承不承ながら呟いた。

「そうだな。練習だもんな。じゃあ、とりあえず俺を先輩だと思って、まずはお前が思った通りにやってみろよ。添削してやっから」

「え、やだ。恥ずかしい」

「協力しろって言ったの、お前だろーが。ハチは何でも、ぐちゃぐちゃ複雑に考え過ぎなんだよ。シンプルに考えて行動あるのみ。当たって砕けろだ」

「砕けちゃ困るんだけど……分かった、やってみる」

八軒は肩に引っ掛けていた鞄を地面に下ろし、深呼吸をする……が、その途端にボッと顔が赤くなってしまった。
さて、どう来るかな、と腕組みをしながら待っていたが、なかなか言葉が出て来ないようだ。ううむ、ヘタレっぷり半端ねーなと西川は呆れる。仕方ないなぁ。

「八軒君、こんなところに呼び出して、何の用だい」

若干芝居がかかった口調で促してみる……が、八軒は吐き気を堪えるように口を押さえながら首を振るのが精一杯のようだ。

「オイコラ、ちゃんとやれよ。俺まで恥ずかしくなるだろうが。つーか、これは練習なんだから、いくら失敗してもいいんだぞ? 別に茶化したりしねーし」

「分かってるんだけど、やっぱり無理。心臓吐き出しそう」

「胃ならともかく心臓って何。お前、どんな体の構造してんだ」

「比喩だよ、比喩!」

「どうでもいいわ! せっかく練習してるんだから、真面目にやれや。ほれ、けっぱれけっぱれ」

しゃがみ込んでしまった八軒を無理やり引っ張りあげて立たせ、肩を叩く。

「やっぱり、いい。無理」

「無理って諦めてそこに留まるのは、嫌なんだろ? 突き進むにしろ、引き返すにしろ、まずは立って歩かなきゃ、どこにも行けないだろ」

「いいよ、やっぱり。男同士だもの。おかしいよ」

「でも、好きなんだろ? 簡単に諦めつくんだったら、最初から悩んでないだろ。毎晩毎晩隣でぐだぐだぐだぐだぐだ鬱陶しいったらねーんだよ」

「ごめん、ごめん……なさい」

「あー…いや、怒ってるわけじゃねーから。泣くなボケ。ホントに何も浮かばなくて、添削以前の問題だっつーのは、よく分かった」

「俺、最初に言ったじゃん。どういうふうに言ったらいいのか、よく分からないって」

「ここまでワヤとは思わなかったんだよ。こーいうのは、拙くても自分の言葉で言うのが一番だと思うんだがなぁ。じゃあ、一度頭を冷やして、告白じゃなくてプレゼンだと考えて話を組み立ててみようぜ。研究課題の発表の仕方とかゆーてこないだ授業でちょっとやったんだけど、ハチの方がああいうの得意だろ。例えばさ、こないだ色々、好きな理由言ってたじゃん。あれをアピールするんだよ。そんで、今後どうしたいとか希望を伝えて、返事をもらう……って、そういう流れでどうよ」

「確かに、二年になったら実績発表やるからって、論文の書き方とかプレゼンとかの授業あったね。何かを伝えるという意味では似たようなもの、なのかな」

「待て待て、メモは作るな。お前、メモ見ながら告白するつもりか……まぁ、今は練習だからいいか」

西川は腕組みをしてハウスの柱にもたれながら、しゃがみ込んでノートにペンを走らせている八軒を眺めていた。これだけ一所懸命に愛されて、先輩とやらも果報者だなぁと思う一方、所詮は男同士、ハッピーエンドなんてあるわけ無いと分かりきっているのに、わざわざ煽り立てるなんて自分も意地が悪いな、とも思う。それどころか、八軒が玉砕するのを、心のどこかで楽しみにしているのかもしれない。それは決して嫉妬などではなく。断じて、まかり間違っても、絶対に、誓って、嫉妬などではなく。

「なんとなくイメージできた。じゃあ、仕切り直してもう一回、やってみる」

八軒が立ち上がり、深呼吸をした。顔をあげて、ぐっとまともに目を覗き込んでくる。
そういうことをするから余計にアガるんだろうが。胸元あたりに視線を逃がすとか、少しはずるいテクを覚えろ。まぁ、そういう生真面目なところがコイツの良いところなんだがさ……むしろ、視線を受け止めるこっちの方がドギマギしちゃうだろ馬鹿野郎……と、ツッコみたいところだが、立ち上がりでいきなり腰を砕くわけにもいかないだろうと、ぐっと飲み込む。

「今日、ここに来てもらったのは、どうして伝えたいことがあったから、なんです。今さらって思われるかもしれないし、迷惑に思われるだけかもしれないけど、でも伝えないままじゃ苦しくて、耐えられないんです」

芝居がかった口調と両手を広げるようなオーバーアクションがやや鼻につくが、元々が無謀な告白だ。これぐらい気合いが入っている方がいいのかもな。それに告白はインパクトだって、何の漫画で聞いた台詞だったかな。ともかく気持ちが伝わりゃいいんだよ気持ちが……と、西川は好意的に解釈して「うんうん。で、伝えたいことって?」と続きを促す。

「えっと、その……前、俺、気になる女の子が居るって言ってたけど……」

そこで、言いたいことがオーバーフローしてしまったのか、八軒が口ごもった。一応、脳内でストーリーは出来ているらしくゴニョゴニョと続けるが、自信が無いのか恥ずかしいのか、声が小さくて聞き取れない。

「で? 何? もっとハキハキ言えよ」

「そのっ、あのっ……だから、俺はあなたが好きなんですっ!」

そう喚いた八軒が、がばっと抱きついてきた。予想外の動きに、西川は避けることが出来ず、勢いよく顔面同士が激突して、ふたりして尻餅をついてしまう。

「いたたた。前歯が折れるかと思った……まぁ、気合いだけは伝わったぞ。ちょっと口ん中切れたけど」

「え、ちょ。もしかして、さっき、口にぶつかった?」

八軒がなぜか涙目で口を手で覆っている。
どうやら彼も口をぶつけたらしく……ということは、これ、やっちゃった?

「あー…その、ノーカン。これはノーカンだ、ノーカン。練習だしな、練習。練習上でのアクシデントだからファーストキスにはカウントしなくていい。本番じゃないから、ノーカウントだ」

「そ、そうだね。うん、練習、練習」

「まだもう少し時間があるから、もう一回。とりあえず声出せ、声。腹の底から出せ。どんな良い台詞でも、聞こえなきゃ意味ねーぞ。伝わるものも伝わらねーべ?」

「う、うん。頑張る」

よっしゃ、と立ち上がったところで、コケーッ! というつんざくような声が飛び込んできた。

某SNS部分公開:2012年11月28日
当サイト収録:同年12月01日
←BACK

※当サイトの著作権は、すべて著作者に帰属します。
画像持ち帰り、作品の転用、無断引用一切ご遠慮願います。