花水木【2】


ハッとして、ふたり我に返って振り返る。作業着を着た長身の男性が、じたばたと暴れる鶏を抱えて突っ立っていた。

「ええっ、先輩、なんでこんなとこにっ……!」

「あー…いや、コイツが逃げたから、追ってたら、つい」

「もしかして、先輩、さっきの見てました……?」

「まぁ、少し。ダメだった?」

八軒の顔がカッと赤くなった。ダメだったも何も、多分、世界で一番見られたくなかった相手だった。恥ずかしさといたたまれなさに苛まれた挙げ句、発作的に「いいわけないでしょう、アンタが鶏なんか逃がすからっ!」などと喚いて、全力失踪で駆け去ってしまった。

「えーと。さっきの、劇の練習か何かだった?」

八軒のリアクションにさすがにキョトンとしながら、稲田が尋ねる。西川は「そんなところです」と誤摩化した。

「なかなかの熱演だったのに。見てなかったことにすれば良かったのかな」

「いや、そーいうふうに気を使われる方が、余計に傷つくと思います」

「そう?」

釈然としないながらも、鶏を抱えて戻ろうとする稲田の背中に、西川は「あの、ひとつ、いいですか?」と声をかけていた。

「ん?」

「八軒のこと、どう思ってるんですか?」

「どうって? まぁ、いい子だな、とは思ってるよ。素直だし、真面目だし……あと、味覚がいいね」

「味覚、ですか」

「俺が進みたい方向の理想の味を理解してくれる、繊細な味覚をしてるよ。一口で添加物の有無を見抜いたぐらいだからね。あの子は酪農科より食品科の方が、絶対に向いてるよ。女の子だったら生涯の伴侶にしたかったぐらいの、素晴らしい味覚の持ち主だと思うね」

「はぁ……味覚、ですか」

先輩にとって、ハチの価値は舌だけですか。本当にそれだけですか。ハチ、テラカワイソス……涙を禁じ得ないぜ。まぁ、嫌われてないってことだけは、確かみたいだがな。うん。
女の子だったら、とか言いながら、ちゃっかりハチのこと食ったみたいですけど……と畳み掛けたいところであったが、親しくもなく、体格差もある上級生相手にそのような挑発的なことを言えるほど、西川もチャレンジャーではない。溜め息をついて、八軒が置き去りにしてしまった鞄を拾い上げて肩にかけた。教科書やノートをいちいち生真面目に持ち歩いているのか、やけにずしりと重たかった。




西川が寮の部屋に戻ってみると、八軒は亀の子のように布団に引きこもっていた。時折、ひっくひっくとしゃくり上げているところを見ると、べそをかいているらしい。またかよ、と呆れながらも、布団の上からぺたぺたと叩いて「えーと、その。お前少なくとも嫌われちゃいなかったし、頑張れ?」と、慰めてやる。

「だって無理、もう無理、あんな恥ずかしいとこ見られちゃったし、先輩に向かって『アンタ』とか言っちゃったし、嫌われた、今度こそ絶対嫌われた」

「あー…そーいや言ってたな。いくら逆ギレでも三年に向かってアンタ呼ばわりはちょっとキョーレツだったな。いやいや、でも本人、そこんとこは全然気にしてなかったみたいだよ」

「気にしてないってことは、俺のことどーでもいいから気にならないってことじゃないの?」

「いや、そんなことないって。お前の味覚はいいって褒めてた。女だったら嫁にしたいって」

「女じゃないから、要らないって?」

「いちいち悪意に取るなよ」

「あと、俺のファーストキス返して」

「無茶いうな。つーか、あれはノーカウントだっつったろ」

そんな不毛な押し問答を延々としていると、ドアをノックされた。
こんな状態の八軒を人前に晒すのも可哀想だから、さっさと追い返そうと扉を薄く開けると、相川が白い袋を突き出してきた。

「うわ、何? 腸詰め? でかっ」

「稲田さん経由で、稲田さんのお兄さんから。なんか、八軒君に叱られたから土木科に修理して貰うのどーのこーのって」

「叱られた……ああ、アレか」

「何かあったの?」

「何かあったってゆーか、稲田先輩が鶏捕まえに来てて、また鶏逃がしたのかと、そんな感じで」

「うん、全然分からないんだけど」

「とりあえず貰っとくから」

ずしりと重い袋を受け取って、さっと部屋の中に戻ろうとしたところで、相川が扉に足を挟み込んできた。口元はいつものように柔らかく笑っているけど、目が笑っていない……気がする。

「やだなぁ。つれないじゃないか。せっかくだから皆で食べようとか思わない?」

「こえぇえええ! 相川こえぇええ! ちょ、駒場、止めろよコイツ」

「いや、美味そうだから、俺もそれ食いたいし」

相川一人ならともかく駒場とのタッグマッチ相手に腕力で勝てる訳ねぇ、と西川が絶望的な気分になったところで、別府が戻ってきて「ただいまー部屋に入れて」と、のんきに言い放った。




とりあえず八軒宛に貰った腸詰めだからと、西川が袋をベッドに持っていってやると、顔をぬぐって体裁は繕ったらしい八軒がもぞもぞと這い出てきた。

「大丈夫そうだな。連中、部屋入れていいな?」

「なにそれ? ソーセージ?」

「んだよ。食いもん前にしたら、途端に元気になりやがって。例の先輩からだって。さっきのお詫びじゃね?」

そこに別府が割り込んで「そのサイズだと豚の腸だねぇ。フツーは羊の腸を使うんだよ」と、余計な解説をする。相川が それを聞きとがめて「あー…そういうこと言うと、また八軒君が拒絶反応起こすよ。前も、卵は総排泄孔から出るとかなんとかで、一時食べられなくなってたんだから」と嗜める。

「えー? 腸だってキレイに洗ってるから、汚くないのに」

「いや、そういう問題じゃなくてね」

だが、個別包装を剥いて現れた腸詰めに八軒がかぶりつけずにいるのは、外野が騒いでいるのとはまた別の理由からであった。両手に掴んで見つめているうちに、そういえば、こんな感じのモノをこうして銜えて……などと、思い出してしまったのだ。ボッと顔が赤くなってしまい、いやいや、そうじゃないから、コレはそういう意図のアレじゃないから。大体、暗かったからよく見えなかったし、似てるとか似てないとか、分からないし……と必死で己に言い訳する。
隣で その様子を見ていた西川は、八軒が何を考えているのかなんとなく察して「あちゃぁ…」と呟いてしまった。キスもしてないとかなんとか言ってたくせに、そーいうことはしてたのかよ。

「なぁ、ハチ。今、食いにくいんだったら、置いといて、あとで落ち着いてからにするか?」

西川が見かねて助け舟を出したが、野球部の猛練習で欠食児童状態の駒場は「ハチが食えねぇんだったら、俺らで食えばいいじゃねぇか」とケロリと言い放つ。騒ぎを聞きつけたらしい常磐や、隣の部屋の連中が「え、なになに? ソーセージ?」などと言いながら、ドヤドヤと押し掛けてくる。

「いーや、食う!」

奪われそうなのを必死で抱え込みながら、八軒は決死の思いでソーセージを口元に運ぶ。だが、歯を立てて皮を噛み切ろうとした時になって、常磐が「なんかエロいなー」などと言い出したため、ぶっ、と吹き出してしまった。

「余計なこと言うな、このポークビッツが!」

「俺、ポークビッツじゃねーもん! ハチだって、これエロいって思ったんでしょ?」

「ちっ、ちげーよ! ともかく食うからな! これは俺んだからな!」

改めて噛み付こうとしたところで、常磐が「いてっ」とアテレコした。それにカッとした八軒が「俺、歯なんて立ててない!」と喚き、西川がフォローし切れずに(アホだ……)と、己の額を押さえた。さらに、裏の意味に気付いていない駒場に「いや、だって食おうとしてたろーが」と冷静にツッコまれたところで、八軒は己の自爆に気付き「あっ、これはそうだけど、そうじゃなくて、あの、その」と、涙目でうろたえた挙げ句、頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。

「要らないんなら貰うね?」

別府がそう言うと、ひょいとソーセージを取りあげてかぶりついた。

「ああああああああっ! 先輩ぃいいいい!」

だが、その悲痛な叫びが逆に呼び水になってしまったようで、飢えたピラニア共がドッと堰を切ったように殺到した。




数日後の昼休み、八軒が職員室に呼ばれると、何故か馬術部の元副部長、豊西が居た。

「なんか、君たち、付き合ってるとかいう噂があるんだけど」

「はぁ?」

「八軒君にはこないだの吉野さんの件もあるから、デマだと思うけど念のため。寮制で生徒を預かっている学校としては、風紀を乱すようなことがあると、親御さんに申し訳が立たないからね」

豊西もそれは初耳だったらしく、口がポカンと開いている。やがて気を取り直すと「いやいや、先生。確かに同じ部活ですし、副部長としての引き継ぎとかで二人で話をすることはありますけど、寄りに寄って八軒君とそんなん、無いですよ」と、一気にまくし立てた。

「無いのかね」

「はい。私だという名指しはあったんですか? 私よりも彼と同じクラスの御影さんの方が、よっぽど親しくしていると思います。もちろん、友人としてですけど」

「食品科の三年っていうから、八軒君の身近には、君しか該当者が居なかったんだ」

「八軒君は真面目すぎて、チョすと面白いから、玩具にされてるだけだと思います」

「まぁ、そうだな。高校生なんだから、恋愛に興味が湧くのは自然なことなんだが……その、なんだ。一応、不純異性交遊は校則で禁止されているという建前上、質さないといけない立場でね。何も無ければ、それでいいんだ」

帰って良し、と促されて、八軒と豊西は並んで廊下に出る。

「寄りに寄って俺、ってさりげなく酷い言い方じゃないですか? 御影のことも友人として、って強調した挙げ句に、面白いから玩具って、なんです」

「あのね。怒ってるのよ、私。この時期になって不純異性交遊のデマで退学とか停学とかなったら、冗談じゃないわよ。内申点に関わるでしょ」

「あ、その……そうですよね。すみません」

「で、心当たりあるの?」

そう言われてみて初めて、八軒は「豊西先輩も食品科だっけ」と気付いた。彼女とは部活でしか会ったことないし、馬を相手にしている時には、誰がどこの学科だなどと意識したことなどなかったのだ。そうと分かれば、以前『断らない男(但し性的な意味を除く)』という噂を彼女がいち早く聞きつけたのも、納得だ。
そして今日の噂の出所は多分、あの練習の前の食堂での西川との打ち合わせだ。告白、三年、別府の学科、あたりを誰かが適当に聞きかじったのだろう。

「不純異性交遊の心当たりは、ありません」

「そうだよねぇ。私が見る限り、なんも無いよね。御影とも。まぁ、そのオボコいとこが八軒のいいとこだよ。そこを見込んで私の後継者にしたんだから。そーいや八軒、家畜の出産、苦手なんだって? 人間のだってグロいんだよ。そんなんじゃ女とイイコトできないよ?」

けらけらと笑いながら、豊西が八軒の背中を叩く。八軒はその励ましを喜んで良いのやら、悲しむべきやら、と複雑な愛想笑いを浮かべていたが、ふと思いついて「ねぇ、先輩。先輩だったら、味覚がいいって褒められてるのって、どう思います?」と尋ねてみた。

「どういう状況でそう言われて、何を聞きたいのかよく分からないから、なんとも言えないなぁ。単純に『味覚がいい』って言っても、それが具体的にどうなのかは客観視できないもの。そりゃ、糖度計なんかで甘みを数値化することはできるし、私らはそういう研究をしたりもするけど。でも、実際のところ、自分が感じてる味と同じ味を、皆が同じように感じてるかどうかなんて、分からないよね。自分がどれだけ美味しいって思っても、それを共感してくれる人が居ないと、すっごく孤独。どの感覚でもそうなんだろうけど」

「まぁ、そうですね」

喋っているうちに、酪農科一年の教室まで着いてしまったが、まだ昼休み時間が残っているので、そのまま廊下で立ち話になった。

「だからさ、美味しくなるようにって作ったものを、美味しいって言って貰えると嬉しいわけじゃん。八軒の味覚を褒めたって人がどういうつもりで言ったのかは知らないけど……八軒って美味しいもの食べるとすっごく美味しそうにリアクションするんだって、御影が言ってたよ? だから、その人も八軒が喜んで食べてくれるのが嬉しくて、そう言ったんじゃないかなぁ」

「はぁ」

「例えばサ、『毎日三食、私が作ったご飯を美味しく食べてるあなたの姿を見ていたい』って、ほとんどプロポーズじゃん。食卓に愛を、だよ」

「そういうもんかな」

「そそそ。今度、私もなんか食べさせてあげようか? こないだの実習でソーセージ作ったんだよ。ソーセージって一見どれも同じように見えて、何の肉をどんな割合で入れるとか……肉だけじゃなく脂身や血や内臓を混ぜたり……添加物を使うとか使わないとか、ハーブを使うとか、香辛料の調合はどうするとか、すっごく個性が出るからね。逆に言うと、何を入れてるかパッと見で分からないから『ソーセージと法律は作る過程を見ない方がいい』なんて諺もあるぐらい」

「ええええっ!」

だからソーセージだったのか。セクハラなんかじゃなくて良かった。しかも、先輩オリジナルのこだわりの一品だったとは。ピラニア共にほとんど食われてしまったのが、今さらのように悔やまれてならない。

「せ、先輩のソーセージぃいい……」

絶望のあまり、八軒ががっくり肩を落として床に手をついてしまったのを見て、豊西は軽くパニックになりながら「えっ? 何? そんな泣くほどソーセージが食べたいの? ちょ、分かった、分かったから。食べさせてあげるから。あー…もう昼休み終わっちゃうか。今日、部活に持って行ってあげるから、八軒君、泣かないの、ね? いい子だから、ちょっと待ってて?」と、子供をあやすように囁いた。





豊西のソーセージはハーブが巧みに練り込んであり、黒髪を長く伸ばした日本人形のような豊西のイメージに相応しい、たおやかで上品な味がした。
豊西は頬杖をついて、ボイルされたソーセージを貪り食っている八軒を眺めながら「美味しい? ホントに美味しそうに食べるねぇ、八軒は。そりゃ、泣くほど食べたかったんだもの、美味しいよねぇ。たくさんあるから好きなだけ食べて良いからね?」と、ニコニコ笑っている。そこにひょっこり現れた元部長の大川が「あ、美味そう、食っていい?」と皿に手を伸ばしかけたが、豊西はその手の甲をペチンと叩いて拒んだ。

「味見もしないで何にでもソースかけるような味覚オンチに、食べさせるソーセージはありません。私がどんだけ考えて工夫して手間ひまかけて作ったと思ってんの」

「んだよ。こっちは就職組で部活もないからって、放課後に鶏舎の改築させられて腹ペコだっつーのに」

「単に腹を膨らます目的なら、アンタの好きなソースを、馬草にでも存分にかけて食べてなさいよ。大体、なんでアンタはエビフライにも目玉焼きにもサラダにもソースなのよ。ひとが丹誠込めて作ったタルタルソースとかドレッシングとか無視して、ソース、ソース、ソース、たまにマヨネーズ。やる気なくすわ」

「そーいう豊西はなんでも砂糖入れるべや。納豆はまぁ、そういうの食べてる相撲部屋もあるっていうし、粘りが出るっていうから、許すわ。卵焼きも伊達巻きの延長だと思えばなんとか納得できる。野菜炒めは醤油ベースならギリ、セーフ。でもよ、麦茶に砂糖はねーべ。どこの貧乏ジュースだよ」

「な、なによ! 紅茶にも抹茶にも砂糖入りはありなんだから、麦茶だけ差別することないじゃない! 中国ではウーロン茶だって砂糖入ってんのよ」

猛烈な勢いで罵り合っている元部長・副部長コンビの姿を見て、八軒は(なるほど。確かに、味覚のセンスが合わないとうまくいかないんだな)と納得した。




その晩。
西川はベッドの下段に「ハチ、抱き枕要るか? つーか、最初から持っとけ」と、声をかけた。

「大丈夫だよ。今日はよく寝れそう」

「そうか? 昨日までソーセージ食えなかったとか言って、ぐずぐずしてたべや」

「そうだけど」

「なんだ、今日は上機嫌なんだな」

よく分からないけど、勝手に立ち直ったみたいだな、と西川は呆れる。ま、俺的にはハチがグダグダ鬱陶しくなかったら、別に全然構わないんだけどさ。

「なぁなぁ、西川。味覚って大切なんだなぁ。味覚が合うって、実はすっごく理解しあってるっていうか」

「は? なんだ、ノロけてんの?」

「ノロけになるのかな、あのね……」

ほいほい、と返事をしたが、八軒の言葉は途切れて続かない。どうしたのかと身を乗り出して下段をのぞいてみると、八軒はとっくに寝息を立てていた。
うわ、ひとを散々巻き込んでおいて、なにそれ。むかつく。額に肉って書いて写真撮って『八軒勇吾の恥ずかしい写真売ります』って商売すんぞコラ。とりあえず、最近すっかり八軒専用になっていた抱き枕の今日の出番はなさそうだな、と足元に放り投げた。


【後書き】前回の『雪中花』を読んだ伊崎さんとtwitterで盛り上がり、会話の中で触発されたり、アイデアを頂いたりしながら作り上げた続編です。むしろ伊崎さんとの合作と言っていいかもしれません。この場をお借りして、お礼を申し上げます。
ちなみに、元道民の伯方の実家では、納豆にも卵焼きにも野菜炒めにも砂糖入ってました。子供の頃は麦茶も砂糖入り……赤飯に甘納豆、茶碗蒸しに栗の甘露煮を入れる道内でも、少数派の『家庭の味』でした。いや、フツーに美味しいんですよ?

タイトルはミズキ科の落葉樹より。別名アメリカヤマボウシ。一青窈はあんまり関係ない……筈。花言葉は「私の想いを受け止めて」。
某SNS部分公開:2012年11月28日
当サイト収録:同年12月01日
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壁紙:素材屋Miracle Page より。

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