当サイト作品『熏衣草』の続編。
稲×八前提です。予めご了承ください。

雪中花【1】


ある日の風呂上り。ズボンを履き、なにげなくベルトをぎゅっと締めた八軒は、ふと首を傾げた。
穴がずれている気がする。正確に言うと、そこでいつも留めていると思われる、革についたバックルの痕が、八軒のウエストよりも太い位置に刻まれている。学祭の準備だの入院だの、色々あったせいで痩せたんだろうか? いや、あれからかなり経って回復した……筈だ。
むしろ、こんなベルト、俺持ってたっけ?

「おい、ハチ、何してんだ。次が詰まってんだけど」

「お、おう」

慌てて脱衣場を飛び出し、自室に戻った。あらためて、ズボンから革ベルトを抜いてみる。バックルはシンプルなデザインだが、革はややぬめりのある滑らかな手触りで、合成皮革ではなく本革だということは(散々牛を触っている生活のおかげもあってか)なんとなく分かった。
ともあれ、明らかに自分のものじゃない。

「誰のだろ?」

腹回りが明らかに違う別府ではない。西川は自分と同じぐらいの体格だが……気になって、西川の背後から腰をわっしと両手で掴んでみた。

「ぎゃあああっ! ハチに襲われるぅ!」

「誰がお前なんか襲うか!」

「だってハチ、前にBL研究してたもん!」

「うるせぇ、わざわざ東京まで行って、特殊なエロ本買ってくるヤツに言われたくねぇよ!」

罵りあいながら、西川の腰と自分の腰を交互に掴んでみる。どうやら、西川の方が若干細いようだ。




自分よりやや大きいということは、駒場のか? 確かに風呂は一緒のグループだが、脱衣場でベルトを取り違えるということはあり得るのだろうか。念のためにそのベルトを手に、駒場の部屋を訪問してみた。

「何の用だよ」

「単刀直入に言うと、これ、駒場の?」

「いや、俺んじゃねーな。そんなヤワなヤツは使わん」

あっさり即答されてしまった。確かに駒場の腰に巻かれているのは、いかにも頑丈そうに編み込まれたミリタリーふうの布ベルトだ。念のために腰に巻いてもらうと、駒場のサイズはさらにもうひとつ上の穴になるらしい。

「ほら、サイズもちげーだろ。相川のじゃねーの?」

そう言いながら、駒場がポイと相川にベルトを投げて寄越す。

「野球は、見た目によらず腰周りが太くなるからねぇ……僕はこれよりひとつ下の穴の方がちょうどいいかも」

「ええっ、相川、俺とウエスト同じサイズ!? 背、全然違うのに」

「夏休みに痩せたの、戻ってなくって」

相川は丁寧にベルトを巻いて、八軒に返した。じゃあ、結局誰のなんだろう。名前が書いてあるわけでもなく、ブランド名と思しきものは、擦り切れて読めない。

「誰のでもいいだろ。それぐらい、貰っておけや」

「でも、すごく丁寧に使ってた感じだから、大切なものかもしれないし」

「オマエ、どうしてそう厄介事背負い込みたがるんだよ。マゾか? マゾなのか?」

「いっそ、落し物ってことにして、先生に届け出たら? 誰かのだったら返しておいてもらえるだろうし、見つからなきゃ先生が処分してくれるだろうし」

周りの連中は「おおっ、それはいいアイデアだ」と感心したが、当の八軒は「いや、でも、落ちてたわけじゃないし」と、気乗りしない様子であった。




他にズボンを脱ぐような心当たりといえば……ふと思い当たって、顔が耳まで赤くなった。こないだの、資料室での……でも、真っ暗な中とはいえ、ベルトを取り違えるだろうか? 手探りでベルト通しにベルトを通したような記憶がないし、向こうも止め具を外しただけだった筈だ。そうそう、ぶら下がったバックルが揺れて、ガシャガシャと邪魔だったんだ。

「んー? 顔赤いぞ?」

「あのっ、そのっ……いや、気のせい、気のせい」

でも、念のため先輩に聞いてみようかな。あれから逢っていないし、その、先輩のかどうか、確認するだけだから。心臓がなんかものすごくバクバクいってるけど、違うから。下心なんて無いから。ベルトの所有者を探すだけだから……と、八軒が己に言い聞かせていると、常盤が「結構前からそれ締めてたよな、ハチ。シルバーのバックルだし、ビンテージかなぁ、カッコいいなァ……って思いながら見てたから、間違いねーよ」と、ケロッとして口走った。

「えっ、そうなんだ。それ、いつ頃からか、覚えてない?」

「全然」

「こっ、こっ……こんの鳥頭ぁああああ!」

ついカッとした八軒は、常磐を捕まえると首を絞めた。

「うわぁあああ、ハチが発狂したぁああ!」

「羽交い絞めにしろ、押さえ込め」

「あ、後ろからはやめといた方がいいよ。多分、怖がるから……僕がいこうか?」

「後ろからは怖がるって、馬かよ。そーいや、ハチは馬みたいだって、アキが言ってたな」

口々に勝手なことを言いながら、なんとか八軒と常盤を引き剥がし、駒場が「気付かずに、ずっと他人のベルト締めてたお前が一番悪いんだろーが」と、吐き捨てる。
確かにそれはそうなんだけど……と、へこみかけた八軒を、相川が抱きかかえて頭を撫でてやりながら「でも、ほら、八軒君はここしばらく、本調子じゃなかったから」とフォローした。

「ここしばらく……か」

そう言われてみれば、心当たりはもうひとつ、ある。ただ、記憶が曖昧で、ベルトがどうだったかなんて、そんな細かいことまでは思い出せていない。

「いや、後ろから掴まれた……ような気はするんだけど、あの体勢でベルト外せたんだろうか」

「は?」

「あ、いや、独り言」

うつ伏せにテーブルに押さえつけられた状態で、ズボンをこう……ということは、ベルトは外さないと脱げない、と思うんだけど、どうだっけ……と、記憶を辿る。

「あの、もしかして八軒君……その、いつぞやみたいにフラバとかあるかもしれないから、無理に思い出さない方がいいと思うよ」

八軒の考え事に思い当たった相川が、恐る恐る声をかける。

「いや、もう大丈夫、だと思う。あの人を怖がる必要なんて無いし」

「あの人って誰? ハチがオカマになっちゃったって、ホントなの?」

ひょこっと常磐が割り込み、八軒がカッと赤面して「うるせぇ、黙れこのエロチキン!」と再び掴み掛かろうとした。

「まあまあ。そういう野暮な詮索はやめようよ。デリケートな問題なんだし」

「でも、その相手ってのが一番、ベルトの持ち主の可能性が高いんでしょ? 相川は誰か知ってるの?」

「えーと。直接聞いてはいないよ」

正確に言えば、聞いていない……ことになっている。八軒が無意識に自爆して、図らずも判明してしまったのだが、ここはあえて知らないふりをしているのが友情だ。少なくとも、常盤には、教えられない。
「でも、やっぱり違うかも。あの状態からはバックル外せないだろうし」という八軒の独り言を聞きつけて、常磐がこりずに「ねぇねぇ、あの状態って、どの状態?」と、つついてきた。

「常磐、そろそろ学習しろ」

「あ、そうだね。部屋に戻らなきゃ」

学習しろって、そういう意味じゃないんだが……とツッコみたいところであったが、確かにそろそろ各部屋に戻る時刻であった。




部屋に戻り、ベルトを机の上に乗せる。ひとりぼーっとそれを眺めていると、洗濯かごを提げて西川も戻ってきた。

「それ結局、誰のか分からなかったのか。ズボン脱いでベルト取り違えるなんて、風呂ぐらいしか無いだろ。あと、洗濯んときにかご間違えるとか? 他になんかあるかなぁ」

「なくもない、んだけど、やっぱり無理かなぁ、とか。でも他には心当たり無いし」

「なんのこっちゃ。何かはしらねーけど、気になるんだったら、実際にできるのかどうか、実験してみたらどうだ?」

西川はなんの気なしに言ったようだが、八軒の顔は引き攣った。顔が赤くなったり青くなったりと目まぐるしく表情が動き、やがて思い切ったように「えーとその……じゃあ、西川、手伝ってくれる?」と、絞り出した。

「え、手伝うって何を」

「心当たりの検証。実際にはこの机より、もう少し高い台なんだけど……そこにこう、上半身をうつ伏せに突っ伏した状態でさ、そこからベルト外せるか試してみてくれる?」

さすが薄い本の愛読者である西川は、何を再現しようとしているのか察したようだった。

「いいのか? こーいうの、セカンドなんとかっていうんじゃねーの?」

「う、うん。でも、実際のところどうだったのか、俺も気になるし……どういう訳か記憶が飛んじゃってて、あんま、正確なとこは覚えてないんだよね」

「そーいうのは、思い出さない方がいいから忘れてるんじゃねーの?」

「そういえば相川も似たようなこと言ってたけど……いや、大丈夫。多分」

八軒は机の上の参考書類を手早く片付けて、上の棚に放り込むと、深呼吸をひとつして突っ伏した。椅子が邪魔なので、蹴って横にどける。

「机、狭いな。実際には、もっとぴったり寄った姿勢で、顔まで押し付けた状態だったんだけど」

「えーと。つまり、立ちバックだったわけだ?」

「あのときはパニックで何が何やらだったけど、確か、そう。で、この姿勢でベルト外せる?」

「え? 腹も台についてたんだろ? その体位だとバックル、完全に腹で潰してるよな」

「体位ゆーな」

「贅沢ゆーな……なぁ、コレ無理っぽくね?」

念のためにと、西川が八軒の脇腹から手を突っ込んでみる。バックルに触れようと腹筋の上をモゾモゾ探ると、八軒が「やめっ、やっ、モチョコいッ!」と喚いて身悶えた。

「絶対違うわ。そんなところに触られた記憶、ないし」

「でも、これじゃズボン脱げないだろ」

「片手……多分、左は肩の辺り、抑えてた筈なんだよね。押されてる感触は覚えてる」

「じゃあ、右手一本で? 無理無理。相手、何人かいたんじゃねーの?」

「あの人は、そんな人じゃない」

「いや、そんな人もこんな人も、そもそも誰か知らんし」

押してダメなら引いてみろとばかり、後ろからベルトを掴んで、力任せに引っ張ってみる。ズボンは骨盤の辺りで引っかかり、それ以上は下がらない。

「いでででっ、そんな引っ張ったら苦しい! ベルト食い込む! 腹の皮剥けるっ!」

「うん、無理だな。もう少し緩い『腰履き』の状態だったら、ベルトごと引き下ろせるかもしれないけど……いつも、これぐらい締めてるんだよな?」

「うん、パンツ半分見えるような、みったくない格好してたら父さんに叱られるし……なんでだろ? おかしいなぁ。この状態でズボン、膝ぐらいまでは下ろしたんだけど」

「ここからどうやって脱がせっつんだ。スカートだったら、パッとまくり上げたらおしまいなのになぁ。脱がしたんじゃなくて、ズボンの尻に穴あけたとか、じゃないのか?」

「それだったら、穴あきズボンがどこかに存在していなくちゃいけないだろ」

「そうだよな。服も引っ張ったぐらいじゃ簡単には破れないし。漫画だったら簡単なのに、三次元って面倒くさいんだなぁ」

それでもどうにかして脱がせる方法はないものかと、八軒の尻をにらみながらベルトを掴んでアレコレ考えていた西川であったが、ふと(別府の帰りが妙に遅いな)と、気になった。虫が知らせた気がして、パッと振り向く。半ば開いた扉の向こうで、帰ってきたらしい別府が顔を引き攣らせながら固まっていた。手には、携帯電話。

「おまえ、それ何してんの? もしかして、動画撮ってなくね?」

「そ、その、西やん、ハチ……幸せにな」

「ちげーよ、誤解だ! つーか消せ! そのデータ消せぇえええええ!」

初出:2012年11月24日
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