雪中花【2】
翌日。昼休みのチャイムが鳴るや否や、八軒が立ち上がった。片手には例のベルトを握り締めている。
昨夜は遅くまで、西川と役割交代してみたり、誤解を解いた(&動画データも強制削除させた)別府も一緒になって考えたりしたのだが、結論は「不可能」だった。こうなったら、最終手段として本人に直接聞くしかない。もし、ベルトが先輩のものじゃないのだとしたら完全に迷宮入りだ。その時には諦めて落し物扱いで処理しよう……廊下を渡って階段に向かうと、腕組みをしながら壁にもたれるようにして西川が待ち構えていた。
「ちょいと待ちな。乗りかかった船だ。俺もその謎解きに参加させてもらうぜ」
「うん、なるほど。断る」
「オイコラ。ゆんべ、ひとを巻き込むだけ巻き込んでおいて、それかよ!」
「だって誰かバレちゃうし」
「今さら何言ってんだよ」
「いいからどけよ!」
押し問答をしていると「一年坊主、邪魔だ。どけどけ」と声をかけられた。高校生にとって、先輩後輩の上下関係は軍隊の如く絶対である。八軒らは「ハイッ」と威勢良く叫びながらパッと壁際に避けると、あさっての方向を睨んで直立不動の姿勢をとった。どやどやと上級生らが通り過ぎていく。
「あれ、八軒君」
声をかけられ、ハッとした。まさに探しにいこうとしていた人物が、八軒を見下ろしている。
「どうしたの、誰か三年に用だったの? 呼んできてあげようか?」
「あっ、あのっ、先輩っ……これ」
「俺? ああ、返してくれなくて良かったのに」
あっさり肯定されて、八軒は全身の力が抜けた。へなへなと崩れ折れそうになるところを、腕を掴まれて支えられる。
「俺、全然覚えてなかったんです。その、加工室んときですよね?」
「八軒君のベルト、ダメにしちゃったから、代わりにって渡したんだけど」
「ダメにしたって、どうしたんですか?」
「切った」
サラリと言われて、八軒は頭の中が真っ白になった。隣にいた西川も口がぽかんと開く。
なんというコペルニクス的転回。確かに、バックルを外そうと足掻くよりも切った方が早いだろうし、切るための道具ならいくらでもあるシチュエーションだ。それこそ皮どころか肉ごと、骨すら簡単に両断できるようなものが。
どうしてそんなインパクトのある行為が記憶に残っていなかったのだろう。まさに「思い出さない方がいいから忘れてる」状態だったに違いない。
「ともかく、そのベルトはやるから。要らなきゃ捨ててくれていい」
犬猫にするように稲田が八軒の頭をぽんぽんと優しく叩いた。さすがに西川には気まずそうに、無理矢理作った笑顔で会釈してみせてから、クラスメートを追って階段を上っていった。
それからたっぷり十数秒後、西川に「ハチ、大丈夫か、ハチ?」と肩を掴まれ揺さぶられて、ようやく八軒は我に返る。
「せ、先輩は?」
「とっくに行ったよ……あのひと確か、タマコの兄ちゃんだよな。オマエ、酷い目にあったんだな。その、なんだ。御影さんもいるんだ。過去のことは犬に咬まれたとでも思って、忘れとけ。あと……それ、持ってたら色々イヤなこと思い出しちまうんじゃないのか? 俺が処分しといてやろうか」
そっと取りあげようとしたが、八軒は「酷くなんかない。そんな人じゃない」とうわごとのように呟きながら、そのベルトを抱え込んで庇った。
「いや、押さえつけてベルト切ってヤったって、かなりアレだと思うんだが……いや、いいよ。分かった。分かったから、落ち着け。取らない、取らないから……歩けるか? 肩貸すぞ」
ぐったりとしている八軒の腕をとって肩に担いだ西川は、ふと、視界の端に巨大な肉団子がいるのを見つけた。別府だ。携帯電話を手にしている。
「そ、その、西やん、ハチ……幸せにな」
「またか! てめぇ、いい加減にそのガラクタ叩き折るぞ、畜生ぉおおおお!」
酪農科の教室へ八軒を送っていく途中で、相川に会った。偶然というよりも、教室を飛び出した八軒を探していたようだった。
「ありがとう。あとは、僕が八軒君の面倒みるから」
「じゃあ頼むわ。ハチのやつ、ナーバスになってるみたいだから。調子悪そうだったら無理させないで、保健室にでも連れてってやってくれよ」
「分かった……三年の教室に行ってたんだ? あのベルトの持ち主んとこ? 違ったんなら、落としもの扱いで先生に届けさせるけど」
「そのベルトは、ハチのさ。ちょっと勘違いしてただけさ。なぁ、ハチ?」
西川はとっさに嘘をついた。八軒はその発言の真意をつかみかねて、西川と相川をキョトンと見比べていたが、やがて「うん、ちょっと痩せちゃって、ベルトの位置が変わっただけみたいで」と、それに便乗した。
相川は素直にその言葉を信じてはいなかったようだが、あえて追及してこなかった。
その夜。消灯してもすぐに寝付けず、何度か寝返りを打っていたところ、二段ベッドの上から「ハチ、眠れねーのか?」と、押し殺した声で話しかけられた。
「大丈夫、そのうち寝る」
「抱き枕要る?」
「は?」
「なんかに抱きついて寝ると、落ち着くぞ。萌えだけじゃなくて、医学的にも癒し効果があるんだぜ。俺の何個かあるから」
ごそごそと荷物を探る音がして、西川がゆっくりと梯子を降りてきたようだ。眼鏡をかけた方がいいかな、要らないかな、と迷っているうちに、西川がカーテンをめくって、八軒のベッドに上がり込んできた。ぬっ、と大きな筒状の物体を差し出される。薄暗くて、どんなキャラが書かれているのかはよく見えない。
「これ。貸すだけだから、汚すなよ」
「あー…ども」
起き上がって受け取ったが、西川は戻らずにそのままカーテンを閉めた。顔を寄せながら、さらに声をひそめて「昼休みの、やっぱショックだったのか?」と、囁いてくる。なるほど抱き枕云々はいわば囮で、実際には隣のベッドで寝ている別府に会話が聞かれないようにしたかったのだろう。
「午後は、相川に保健室連れてってもらって、ちょっと休んだ。部活は普通に出れたけど」
「出れたっつか、副部長だからって、無理して出ただけだろ」
八軒は西川の視線を避けるように、あぐらをかいた姿勢で借りた枕にしがみつき、顔を埋めながら「まぁ、そうなんだけどさ」と、ぶつぶつ呟く。
「だって、悩んでても仕方ないし、どうせ次とか、無いって分かってるし」
「その言い方だったら、次もあった方がいいみたいだな。酷い目に遭わされたっぽいけど、嫌じゃなかったのか? ぶっちゃけ、好きなん?」
すっかりノリが修学旅行の告白タイムだ。
八軒は顔を赤らめながら、西川の耳に唇を寄せて「皆には言うなよ」と囁いた。
「言わねーよ、色々厄介だしな。特にあのエロチキンとか」
「ちゃんと告白とかあったわけじゃないし、キスしてないし、何か色々順番めちゃくちゃだし、うまく言えないけど『好き』っていうよか『苦しい』って感じなんだけど」
「お前、ホントにそっちのケあんの?」
「そうじゃないけど。でも、先輩はずっと俺の話を笑わない聞いてくれて、俺の考えを頭ごなしに否定しないで受け止めてくれて、いつも心配してくれて、優しくて」
「優しい、ねぇ。優しい人があーいうことするかよ」
「先輩だったらいい。他の人は絶対に嫌だけど。でも、三年生は忙しくて、俺なんか構ってる暇無いだろうなって。あんまりしつこくしたら嫌われちゃうだろうし」
「忙しいってゆーても、例えば馬術部の三年なんかは、しょっちゅう部活来てんだろ?」
「それに、イケメンだから彼女とかとっくに居るだろうし、俺と御影のことも応援されちゃってて、確か御影もに気になるんだけど、なんか好きの種類が違うっていうか、御影がいるからって先輩に距離とられちゃうのは違う気がして」
「待て。そこでなぜ泣く。この状況だと、俺が泣かしたみたいじゃねーか」
とりあえず落ち着かせようと(もう既にある程度接近していたが、それ以上に近づいて)肩をぽんぽんと叩いてやる。そのまま八軒の方から西川の胸元にもたれかかってきたが、この流れで突き飛ばす訳にもいかず、腕を背中に回してさすってやった。寝間着代わりのTシャツ越しに感じる体温が、妙に高い。
「うん、まぁ、ベッドから始まる恋もあるさ。二次元ではよくあるハナシだけど、リアルにだってそーいうのあるんだろ、多分。お前の場合、ベッドじゃなくて作業台だけどさ。それに。男は何人も同時に愛せるってゆーし、俺の勘だけど、向こうだってハチのこと多少は気があるんじゃね?」
「え、それ本当?」
「昼間の態度だと、逆にお前の機嫌とってるように見えたぜ。つーか、お前ばかり見てて、隣に居た俺、完全に空気だったし」
「先輩に好きって伝えて、嫌われちゃったりしないかな」
「いんじゃね? それに『ダメだって諦めてそこに留まるのは、嫌だ』って、豚丼の時に言ってたべサ、お前」
「そうだね、豚丼がそう教えてくれたんだっけ。諦めちゃ、ダメだよね。ありがとう、少し気が楽になった」
「礼にはおよばねーよ。隣で悶々とされて、ウットーしかっただけだ。ごろごろ寝返り打たれるのも結構ベッドに響く……って、もう寝ちまったのか。はやっ!」
さっさと自分のベッドに戻ろう、と思っていた西川であったが、抱きかかえている体温が心地よくて、ついつい、そのまま引きずられるように眠ってしまった。
翌朝、西川は八軒に平手打ちを食らって、目が覚めた。状況が思い出せずにポカンとしているところを、さらに抱き枕でぼふぼふと殴られる。
「なっ、ななっ……なんで、西川が一緒に寝てるんだよ!」
「昨日、ハチが泣きついてきて、そのまま眠ったんじゃねーか。覚えてねーのかよ」
「そういえば確かにそうだけど……お前、変なことしてないだろうな!」
「するかよ! ひとの恋愛相談につけ込んで手ェ出すほど、俺は意地汚くもねーし、萌え萌えきゅんな二次元の嫁達がいるから、別に困ってねーし! 第一、俺にそっちのケはねーし!」
「俺だってないわ! 他の人は嫌だって言ったろ!」
「つーか、貞操の心配するぐらいなら、テメェからひっついてくんじゃねーよ。離そうとしても離れなかったくせに!」
「そーいうつもりじゃなかったし! 俺からひっついただなんて、ひとをビッチみたいな言いがかり、よしてくんない?」
「言いがかりも何も、事実だ!」
ぎゃんぎゃん喚いていた二人であったが、ふと、ほぼ同じ瞬間に言葉が途切れた。まるで打ち合わせたかのように、仲良く振り返る。ベッドのカーテンの隙間から、別府が覗いていた。携帯電話は夜間、専用の棚に回収されていて使えないので、今回は録画していないようだ。
「そ、その、西やん、ハチ……幸せにな」
「だーかーらー! ちげーって言ってるだろ、このブタぁあああ!」
「だって、昨日から俺をのけ者にして、ふたりだけでコソコソしてるもん」
「うわぁあああ、最悪! 変な噂流れて、先輩に嫌われたらお前のせいだからな、西川、責任とれよ!」
「責任って、どうやってだよ。三次元諦めて、二次元に来るか?」
「嫌じゃ、ボケェ!」
八軒は半べそをかきながらバタバタと身支度をして(ちゃっかり例のベルトを締めて)、逃げるように部屋を飛び出して行った。馬術部の日課、厩舎清掃だ。
今後、色々厄介なことになりそうなイヤーな予感はするが、今、この場ではどうしようもない。まだ四時ちょい回ったところだし、とりあえず寝直すか。西川はのそりと自分のベッドに戻った。
【後書き】やはり思うだけだった(爆)な『銀の匙』第二弾です。懲りずに第三弾企画中。
タイトルは、水仙の別称。花言葉は「もう一度愛して欲しい 」。 |