猩々木【2】


こないだはコイツ、毛布を独り占めして、抱き枕代わりにして寝てたんだよな、と思い出した。そういうのを用意してやれば良かったと、依田が軽く後悔したのは、胸元にしがみつかれたせいで暑く寝苦しかったせいだ。酔いが回っているおかげか、同性だということへの嫌悪感は薄い。

「あんま引っ付いてると、襲われるぞ。いいのか?」

「やだ。でも、先輩にも棄てられちゃったら、誰もいないもん」

棄てるも何もお前とそういう関係になったことはないと言いかけて、その『先輩』が自分ではない人物を差していることに気付く。前回のお泊まりの際に、ノロケだか愚痴だかよく分からない熱弁はさんざっぱら聞いている。だからこそ、なんとかふたりをくっつけてやろうと尽力したのだ。馬術部の先輩カップルまで押し掛けて来たのは計算外だったが、買い出しを終えて部室に戻って来た時に八軒が上機嫌だったのを見て、それなりに成果はあったと思っていた……筈なのに、何日もしないでこれだもんな。

なんなんですか、元の木阿弥ですか、俺と俺の冷蔵庫の努力は無駄だったんですか。恋愛相談なんて、親身になって聞くもんじゃねーな、バカバカしい。

八軒の話を総合して考えるに、あまり親の愛情を感じずに育ったうえに兄は比較対象としてコンプレックスを刺激するだけで弟なんぞ顧みることもなく、ぽっかりと心に空いていた穴に、たまたま稲田がスッポリとハマったのだろう。たまたま最初の男だったから、そう思い込んだのか、そう思い込んでいたからこそ、体を与えることも厭わなかったのか。そこまでは分からないし、多分、本人に聞いても判然とはしないだろう。

「御影は別枠か」

「御影は……そういうんじゃないし」

「そうみたいだな。男心は複雑だねぇ」

頭を撫でてやっているうちに、妙な気分になってきた。頬に触れてやると目をトロンとさせている。唇を舐める赤い舌の動きが、やたらと大きく視界を占領して見えた。
それでも最後の理性を振り絞って、ちらりと枕元の目覚まし時計を見て、睡眠時間を計算する。これ以上の夜更かしはキツいな……朝の厩舎掃除を終えてから、授業開始まで教室で寝ていよう、そうしよう。

「八軒、ジーパン履いたままじゃ寝苦しいだろ。脱いだら?」

「別に俺、構わないですよ?」

構わないのはジーパンの件ではないことは、緩やかに首に腕が巻き付いて来たことから明らかだった。耳元に吐息を感じる。それに……どうせ、今なら何をやっても覚えてない筈だと、依田は胸の中で繰り返す。

「先輩にも棄てられちゃったら、誰もいないもん」

今度の言葉は自分を指しているようだったが、唇を重ねようとすると胸元に顔を埋めるようにして、避けられた。やっぱ『本人』じゃないと嫌なのかな、と思う。それでも、腕の中で身をすくめている小柄な体を組み敷くのを止められそうになかった。




目を閉じてうわ言のように『先輩』と繰り返し呼ばれているのが、本当に自分のことなのかどうかは、確かめようという気にはならなかった。むしろ、勘違いしていてくれていた方が、自分には都合がいいと思っていた。やがて、八軒の腕が力を失ったように背中を滑って、ぱたりと布団の上に落ちる。依田もドッと脱力して、八軒の汗ばんだ胸に耳を押し付けるようにして倒れ込んだ。そのまましばらく覆い被さった姿勢で乱れている鼓動を聞いていたが、思い出したように肩を押されて退けられた。

「依田先輩、重い」

名前を呼ばれたことに依田は驚く。相手が誰か分かってて受け入れていたのか、それとも終わってから気付いたのか、どっちだろう。

「ああ、悪い……もうちょい、飲んどく?」

我ながら卑怯だが、覚えていられても厄介だから、もう一度酔い潰してしまおうと考えていた。

「そうする。なんで俺、こんなんやらかしたんだろ。西川が稲田先輩にイタズラメールしたもんだから、これで嫌われちゃったらどうするんだよって逆上しちゃって、そんでつい、寮を飛び出して来ちゃって」

「あー…そういう流れか」

発泡酒を二缶ほど八軒に差し出し、自分は裸のまま缶ビールを開ける。

「どんなメールよ。見せてみ?」

ビールを煽りながら差し出された携帯電話を覗き込み「確かにお前らしくないメールだよな」と苦笑いした。

「正直に、友達にイタズラで送られたんですって釈明しても、信じてもらえるだろ、コレ。返信見ても、半信半疑みたいだし」

「そもそも、勝手にメアド貰っちゃったのも叱られそうだし」

「好きなひとのことは何でも知りたかったんです、で通るだろ。お前、いちいち真剣に考え過ぎ。だから少しは楽に考えることを覚えろって」

そう言いながら、携帯電話を返す。ウチに来てすぐ、こうやって相談してくれれば、もう少し違う対応が出来たかもしれないのに、とは思う。

「でも、これは許して貰えないよね。俺、なんでこんなことしちゃったんだろ」

「酔って、稲田さんと間違えたんだろ。俺も酔ってたし。要は魔が差したんだ、お互い。酒飲んで忘れとけ」

「そういう問題じゃないし……もう、これ消す。登録してる資格もないよ、俺」

ぽろぽろと泣き出しながら、八軒は携帯を握り締めている。それで気が済むなら、それはそれでいいんじゃないかな、我ながら冷たい考え方だけど、俺はそこまで干渉できる立場でもないし……と思いながら、俯いて肩を震わせている姿を見守っていた。ふと、削除しようとして間違って発信ボタンでも押したのか、八軒の携帯電話が通話状態になっていることに気付いた。

「ちょ、かかってるぞ、バカ」

慌てて取りあげて通話を切ると、電源も落とした。
もしかしたら、罪悪感に駆られて発作的に「浮気」を自白しかけていたのかもしれないと思うと、ゾッとする。今度は胸倉を掴まれるだけじゃ済まない。

「八軒、ちょっとシャワー浴びて来い。その間にシーツ、替えておくから」




翌朝、気合いで起きた依田は二日酔いを吹き飛ばすように洗面所で頭から水を被った。弁当の準備をすませ、ついでに八軒の分のおにぎりも作ってやってから、丸めた毛布に抱きついて胎児のような格好で寝こけている八軒を蹴り起こした。

「さっさと服を着ろ。部活に行くぞ」

「え? あれ、何で俺、裸なんだろ」

何でって、寝こけて全身の力が抜けている人体に服を着せるのは、至難の業だからです……とは言えない。昨夜のことは覚えてないんだなと、依田は内心胸を撫で下ろしながら「酔っぱらってたから、暑かったんじゃね?」と、すっとぼけておいた。いや、依田本人も頭が重く腰の奥がダルいことさえ無ければ、実は全て夢でしたと言われても信じてしまいそうなぐらい、現実感に乏しい。昨夜のうちに汚れたシーツを証拠隠滅した俺、グッジョブ。

「あの、突然押し掛けてしまって、済みませんでした。なんか、稲田先輩のメールのことで、西川……ああ、ルームメイトなんですけど、ソイツとケンカしちゃって。カッとして寮を飛び出しちゃって」

「そうみたいだね。とりあえず、もう痴話喧嘩でウチに押し掛けてくんなよ、頼むから。家計が破綻するわ。稲田さんはイタズラメールぐらいで怒るようなひとでもないんでしょ?」

浮気まで許してくれるかどうかは知らないけどね……とは言わない。アルコール臭が残らないように匂い消し用のタブレットを口に放り込み、八軒にも手渡した。

「そーいえば俺のチャリ、後ろの荷台無いんだよな……ランニングでガッコ行く?」

「朝っぱらから、なにその拷問」

「冬はチャリ使えないから徒歩だぜ。そうだな、強引に二人乗りしようと思えば……一人が前で立ち漕ぎで、もう一人がサドルに座るか……ハブついてないけど、強引に後輪の車軸のところに足かけて立ち乗りする……ぐらいかな。試したことないけど」

「うわ、どっちも危なそう……だけど、ランニングよかマシかな」

「ガッコまでの道順分かるな? そもそも歩いて来れたんだし、迷子にはならねーよな」

「はぁ、多分」

「だったら、お前が立ち漕ぎな。俺座っとくわ」

「鬼ッ!」

「年功序列だ」

なにしろ腰が半端なくダルい。多分、八軒も原因不明の下半身の疲労に襲われている筈だが、それが何か思い出せないうちに、通常の(?)筋肉疲労をおっかぶせてウヤムヤにしてしまえば、一石二鳥だ。




なんとか代返でゴマ化しきったものの、いつ脱走がバレるかと気が気ではなかった。朝になって携帯電話を返してもらえば連絡がとれると安易に考えていたが、いざ架けてみると『電波の届かない場所にあるか……』などとアナウンスされた。単なる充電切れという可能性もあるが、まさか何かに巻き込まれたんじゃあるまいか……と心配していたところで、八軒がしれっと朝食を食べに食堂に現れ、西川はドッと脱力してしまった。

「どこ行ってたんだ?」

隣に座りながらコソッと尋ねると、割と機嫌良く「依田先輩んち」と答えた。

「こないだの、馬術部の部長さんち?」

「うん。他に泊めてもらえるようなとこ、知らないし。野宿できるような場所も分からないし」

土地勘が無いというのも、たまにはプラスに作用するんだなと、西川は妙に感心した。
あの部長さんなら、何が何でも部活に連れ出してくれるだろうから、失踪の心配はないし。

「で、またうまいもん食べて来たのか」

「食べたというか、飲んだというか。あんまりよく覚えてないんだけど、依田先輩がまた家計がどーのこーのって言ってた」

「飲んだ? 酒か?」

「内緒。でも、ぐっすり寝て起きたら、色々どうでもよくなっちゃった。あと、おにぎり作って貰ったから、部活中に食べた」

「そいつは良かったな」

心配したんだぞ、とは敢えて言わない。そもそも自分が原因だという自覚ぐらいはあるし、心配してくれと頼んだ覚えはないと逆ギレされても面倒だ。ここは無事に戻って来てくれたことを(周囲に気取られないように、内心密かに)喜ぶのが精一杯だろう。

「そーいえば、さっきトイレ行ったら、便器が血まみれでさ」

「飯の最中に、なんつー話題だ」

そう言いながらも、モリモリと飯を食えるのがエゾノー生クォリティだ。それぐらいで食欲をなくしていては、あっという間に飢え死にする。

「前に御影から貰った薬って、捨てちゃったかな」

「シラネ。お前のだろーが。つーか尻、何かやったんか」

「心当たりはないんだけど……乗馬ってそもそもお尻には良くないから、たまたまソレが出て来ただけ、なんだと思うけど」

「実は、ナニをヤったんじゃねーの?」

泥酔していたら、大出血するような怪我をしても痛みを感じないとかいうから、もしかしたら。あの人の良さそうな部長さんに限ってそんなことないだろうけど、寝ぼけているハチって割とアレだから、まさか……とは思ったが、八軒は「ちげーよ、多分。ガッコに戻るのにチャリ2ケツしてたからだと思う。漕ぐの結構しんどくて、ケツ割れるかと思ったもん」と、きっぱり否定した。




最初、稲田は自分の手の甲に浮かんでいるミミズ腫れのようなものが何か、思い当たらなかった。リスカをするような趣味もないし、どこかに引っ掻いたような覚えもない。よく見れば数字の羅列のような……というところに至ってようやく、昨日かかって来たおかしな電話の番号だ、と思い出した。インクは洗い流されたものの、ボールペンの筆圧で内出血のようになって、白い肌に浮かび上がってきたのだろう。

「なにその番号。カンニング?」

なんでもないと答えようとして、多摩子より早く『結論』を聞き出せそうな相手であることに気付いた。

「豊西さんは、八軒のケーバンとメアド知ってる?」

「は?」

テストの合間の短い休憩時間を、しかも進学組から奪うことになるのだから、あまり冗長な話をするのも迷惑だろうと考えて簡潔に尋ねてみたのだが、少し唐突過ぎたようだ。豊西は鳩が豆鉄砲を食らったという慣用句そのままにきょとんとしていたが、やがて我に返ったようにポケットから携帯電話を引っ張り出した。

「知ってるというか、一応。部活の連絡事項を回したりするから」

アドレス帳を開いて差し出された。メールの方も削除してしまっていたが、本名をもじったアドレスは覚えやすかったので、確かに間違いないと分かった。電話番号も手の甲の読みにくい数字と照合する。

「サンキュ」

あの時間にかかってきた妙な電話と電話向こうにいた男の存在が引っかかるが、とりあえず八軒のアドレスで間違いないということだけは分かった……謎解きごっこはテスト終わってからにすれば良かったかなと軽く後悔したが、今日のところは得意分野の教科が多いから、何とかなるだろう。そうでなければ、昨夜あんな馬鹿騒ぎに参加したりしない。

「なに? 八軒に何かあんの? 伝言なら聞くけど」

「いや、特に。ただ、何かあったら連絡とれるだろ」

しれっと言うと、教室の入口の方を指してみせた。ちょうど、答案用紙を抱えた教師がのっそりと入って来るところだった。豊西が「あら」と呟いて、あわてて席に戻る。




二学期も終わりが近づいたある日。
一年生が自分を呼んでいると聞いて連想したのは、ここしばらく音信不通状態の八軒だったが、廊下に出てみると代わりにロングヘアで小柄な少女と、長身で地味めな顔立ち少女の二人が立っていた。名前は知らないが、確か食品科の筈だ。八軒が作ったという噂のベーコンを食べてみたいと相談されたので「ちゃんとお金を払って買うといいよ」とアドバイスしたことがある。その流れから、皆、ちゃんと代価を払ってベーコンを貰っていたらしく、お人好しの八軒が大盤振る舞いをして損をするようなことがなくて良かった、と陰ながらホッとしたものだ。

「今日は、何?」

「あっ、あのっ、相談っていうか……クリスマスのプレゼントって何がいいかなって考えてて、アドバイスっていうか、その」

ロングヘアの子が、大きな目を一杯に見開いて必死で訴える。稲田は他人事のようにぼんやりとそれを聞き流しながら、そろそろそういう季節か、と思っていた。

「プレゼントなんて、気持ちがこもってたら、何を贈っても喜んでくれるとは思うけど」

「男性の視点でアドバイスしてくれたらいいなっていうか、一緒に選んで欲しいんです。どうせ贈るんなら、喜んでもらいたいんです。だから、その、こういう相談を誰にしていいのか分からなくて、それで、いっそのこと、と思って」

「はぁ、俺は別に構わないけど」

いつの間にか、後輩の面倒見がいいという評判でも立てられてしまったのだろうか。確かに、八軒に関しては『面倒見がいい』と見られても不思議ではないと納得がいくけれども。頭を掻きながら「一緒に選ぶって言っても、この辺じゃろくな店ないだろ。週末に札幌にでも行く?」と提案すると、小柄な子の顔が茹で蛸のように真っ赤になった。

「いっ、いいんですかっ、そのっ……じゃあ、今週、お願いします!」

札幌の住民は北海道の地方は遠いというイメージがあってなかなか足が向かないのだが、地方から札幌へは意外とちょくちょく遊びや買い出しに出て来るようだ。このギャップは札幌と地方の距離感の違いのせいかもしれないし、地方からは都会に憧れる気持ちがモチベーションとなっているのも、理由のひとつかもしれない。

「待ち合わせとか連絡するのに、携帯教えておいた方がいいかな」

「はっ、は……はいぃいっ! あのっ、私のもこ、これっ!」

小柄な少女は池田、というらしかった。連れのノッポの娘が「良かったねぇ、池っち」と冷やかしていた。




駅で待ち合わせて、札幌まで鉄道を使う。SLでもないのに列車を『汽車』と呼んでしまうのは、いわゆる北海道弁なのだろう。道中は、同じ食品科ということもあって、実習の話やら教師の悪口やらで、それなりに話題は尽きなかった。さらに、池田は下調べもしてきたようで「プレゼントは、ステラプレイスで探したら、それなりにあるかなーと思うんです。いいのが無かったら、地下のパセオでも探せるし。もし良かったら、大通りで今、ミュンヘンクリスマス市ってのをやってるみたいだから、のぞいてみません? 屋台とか出てるらしいですよ」と、手帳を繰りながら、ウキウキと話す。
池田は白地にもこもこしたファーが愛らしいダウンにフリルのスカート姿で、稲田は黒のシンプルなロングコートを羽織っていた。

「デートみたいで、彼氏に申し訳ないな」

「え、あ、そうですね。デートみたい、ですよね。嫌ですか?」

「嫌ではないよ」

自分は単に相談されて、どこぞの誰かへのプレゼントを探す手助けをさせられているだけだし、八軒からはあれっきりメールも電話も無いし。いや、馬術部の彼女とうまくやってるんだろ、多分。

「先輩だったら、クリスマスプレゼント、何が欲しいですか?」

「さぁ。俺個人の欲しいものは調理器具とかキッチン用品とかに偏ってるから、あまり参考にならないよ。贈りたい相手にもよるだろうけど、男って自分の欲しいものにはこだわりとかあるから、どっちかというと自分で買いたいものだし……贈るとなると、無難なものになっちゃうのかな」

「そ、そういうものなんですか」

ステラプライスとは札幌駅に直結してるファッションビルで、大丸デパートにも繋がっており、最上階にはシネコンもある。レディスファッションのテナントが若干多めだが、プロアガイドを見るとメンズの店もあるようだ。

「どんな傾向のものが好きか分かれば、探しやすいんだろうけどね。和風が好きとかミリタリー調が好きとかストリート系が好きとか」

「そこまで親しくないんで、趣味は分からないんです。その、相手は三年生なんで」

「誰?」

「それは……その」

池田が口ごもったので、稲田はそれ以上追及しなかった。好きな人の名前を知られるのが恥ずかしい、という感情は理解できなくもない。恋心とは、そういうものかもしれないのだし。

「じゃあ、ますます無難な小物になるかなぁ。小銭入れとかパスケースとか。予算はどれぐらい?」

「ストラップとか、はダメですかね」

「女の子なら喜ぶだろうけど、男はあまりジャラジャラつけないっしょ」

「ああ、そうかも」

女の子に贈る物を探すんだったら、小物でもアクセサリーでもハンカチでも文房具でも縫いぐるみでも、色んな候補があるのにな……と、テナントを眺め歩きながら思う。
野郎相手か。なかなかイメージができないので「八軒に贈るとしたら」という発想に切り替えて、商品を探してみた。

「これとか、どう?」

取りあげたのは、革の小銭入れだった。札入れにしなかったのは、長財布か二つ折りかだけでも好みが割れるものだからだ。似たような路線でキーケースやパスケースも考えられるが、寮生には鍵や定期券は必要ない。ワニ革や合皮もあったが、なんとなく牛革を選んでいた。酪農科だからという訳ではなく、単に、それが一番シンプルで飽きのこないデザインだと思われたからだ。

「あ、いいですね。こういうのって、使い込んだら味が出るっていうか、なめされて渋くなってくるんですよね」

「デザインは好みがあるだろうけど」

「いえ、これがいいです。やっぱり男性の目で探すと、違いますね!」

やれやれ、ミッション終了だな、と稲田は溜め息を吐く。いくら母親や多摩子の買い物に付き合わされて鍛えられている(?)とはいえ、やはりカップルや女性客がごったがえす中で延々とウィンドーショッピングするのは、男の身では疲れるものだ。

「どこかでお茶でも飲む? コーヒーショップみたいのも、このビルにあるみたいだし。大通りまで出るんだろ、少し休もうか」

「はい!」

小さな体のどこからそんな体力が沸いて来るのか、池田は嬉々として返事をした。
大通公園のホワイトイルミネーションは、まだ昼間だったために灯っていなかった。カップルでホワイトイルミネーションを見ると別れるという都市伝説もあるが、自分と池田には関係のない話だ。せっかく来たんだし、と池田が大はしゃぎして写メを撮ってもらいたがったので、携帯を借りて何枚もシャッターを押してやった。一緒に写ってくださいというリクエストには、池田の意図が理解できずに困惑したが「ちゃんと彼氏ができたら、消せよ」と言い聞かせたうえで、応えてやった。
ミュンヘンなんとかというイベントもやっていて、飲食の屋台やクリスマス系の小物の店も出ており、そこも精力的に覗いて回る。

「あ、小銭入れ、こっちの方が良かったかも!」

池田がふと立ち止まって、そう叫んだ。稲田の目からすると、可愛らしいデザインがどちらかというと女の子向けな気もするが、どこがツボだったのか、池田はそれがたいそうお気に召した様子であった。

「どうしよう、さっきの返品してこようかな」

「そこまで気に入ったんだ? じゃあ、こっちにするといいよ。小銭入れは、俺が買い取ろうか」

「いいんですか?」

「さっきの、レシート貸して」

女の相談なんて真面目に乗るもんじゃないなと、稲田は苦笑いする。結論はもうどこかに出ていて、ひとのアドバイスなんて聞いちゃいねぇ。いや、男もそうなのかな。視界の端にちらちらと白いものが舞っている。見上げると、粉雪が降ってきていた。

初出:2012年12月23日
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