花蘇芳【5】
「そうだ、八軒が見つかったって、円山に連絡しとかなくちゃ」
木野が思い出したようにポケットから携帯電話を取り出した。メール送信しようとして、電波が届いていないことに気付く。
「あれ? この辺でもメールできた筈なんだけど」
「貸してみ。これ、再送信すればいいんだろ」
駒場が木野の携帯電話を受け取って、背伸びをするようにして上に差し上げた。より高い位置にある方が電波を拾いやすいようだ。送信完了の音がして、同時にメール着信もあった。
「あ……円山からだ」
メールタイトルは「八軒は無事」で、本文が「依田先輩んち」。送信時間を確認すると、山に入って間もない時間だ。
「尻ポケットに入れてたからなぁ」
「それに円山のケータイ、山奥じゃ通じにくかったんだっけ」
森の中を彷徨っていた時間は丸々無駄だったということか。一同、ドッと脱力してしまう。
「じゃあ、その道路に出るルートを試してみようか」
木野の提案に、八軒は「えー」と声を上げて露骨に嫌な顔をした。
「じゃあ、八軒も森ん中、通って帰る?」
「いや、俺と先輩は、道路の方に戻ってチャリで帰るけど」
駒場がイラッとして「だったら、俺らもそっちで帰るぞ。歩きでも、山道と平坦な舗装道路だったら、道路の方がよっぽど楽だし早いに決まってるだろーが」と食ってかかったが、駒場相手に八軒が素直になるわけがなく「徒歩で行くには、遠いと思うよ」と切り返す。
そこで相川が「僕、歩き疲れたから、自転車乗せてほしいなァ」と言い出した。
「八軒は、チャリなんだろ。良かったな。相川乗せてけや」
「ええっ……でも、先輩は?」
八軒がすがるように稲田に話を振ったが、稲田は「俺は歩きでもいいよ。その子、顔色悪いし、乗せてやれば? あと、そのチャリ馬術部のだから、返しておいて」
と、さらりと答えた。
「えっ、先輩が歩くんだったら、俺も歩きでいい」
慌てて前言撤回した八軒だったが、駒場が「八軒は、チャリなんだろ」と、意地悪く繰り返した。
小屋の裏からは、確かに獣道のような小道が通っており、どぶのような沢を越えて土手を登ると、舗装道路に出た。自転車はその脇に鍵をかけて置いてあった。
「先輩、ホントに歩きなんですか? だったら、俺も歩きでいいのに」
まだ納得がいっていないのかぐちゃぐちゃ言いながら八軒がサドルに跨ると、相川が「悪いねぇ。よろしく」と、荷台に座って八軒の腰に腕を回してきた。その感触にざわっと全身が総毛だち「うぎゃっ」と奇声が漏れる。
「気持ち悪い、ひっつくな」
自分はさっき散々稲田の背中にべったり密着していたのは棚に上げて、八軒が喚いた。
「えー…でも、どこか掴まんきゃ、アズマしくないし。したっけ、ベルトでいい?」
後ろから革ベルトを掴まれる。それはそれで、脊髄反射的に悲鳴があがった。ドッと嫌な汗が湧いてきて、膝の力が抜けそうになる。
「それも嫌だ。その、後ろからのそれ、怖い」
「アレ? なんかトラウマでもあんの? 僕は合意なしに襲ったりしないから、安心してよ」
相川がニヤニヤしているのが、気配で感じられる。
うっさいよ、大体の事情は知ってるくせに、白々しい……と罵りたいところだが、木野や駒場など『事情を知らない』連中もいる前だ。グッと拳を握り締めながら「もう、相川一人でチャリ乗れよ。俺、皆と一緒に歩いてくし」と、言い返すのが精一杯だった。
「それじゃ意味ないっしょ。上り坂もあるから、漕いでたら疲れるし」
「注文が多いなぁ。駒場ァ……チャリ漕ぎ代わって」
最終手段とばかりにプライドを捨てて駒場に助けを求めたが、駒場はシレッと「八軒は、チャリなんだろ」と繰り返しただけであった。
「そんなぁ」
いつまでもぐずぐずしているチャリ組に呆れたのか、木野が「したっけ、俺ら、先行ってるし」と告げて、歩き出した。これで、八軒が自転車を漕がざるを得なくなった。
「したら、背中合わせに座るわ」
相川が後ろ向きに跨ると、足の間からのぞく荷台を掴んだ。
凭れれば背中が触れ合う形にはなるが、前向きに座って腰や腹に手指を這わされるよりはマシだろう。
「それなら、我慢できなくもないな。あんま、くっつくなよ」
「つれないなぁ」
せっかく先輩に触れてた余韻が消えちゃうじゃないか、とはさすがに口に出しては言えない。代わりに、ヤケクソ気味に立ち漕ぎの状態で自転車を走らせ始めた。
「うわ、八軒君、危ない……落ちるッ!」
相川は振り落とされまいと荷台を掴むのに必死になり、減らず口を叩く余裕がなくなったようだ。そのまま坂の上まで全力で突っ走り、先行していた徒歩組を一気に追い抜いた。
「よっしゃ、こっから下りターボ!」
「ちょ、八軒君、ホントに危ないから、少し加減してッ!」
「ふははは、思い知れぇええ!」
一方の徒歩組は、その様子を眺めながら「いい気なもんだな」「楽しそうでいいじゃないか」「アレ絶対、ハッチャキこいててコケるパターンだべな」などと、口々にのんきな感想を述べていた。
「そーいえば、ハチと二人して、えらいのんびりしてたようですけど」
西川が、隣を歩いていた稲田に、それとなく小声で話しかけた。
ハチを延々と悩ませ苦しめていた相手に、自称カレシ……いや、少なくとも友人としてチクリと言ってやりたかったのだが、微妙に皮肉が通じなかったようで「ああ、オムライス勝負でムキになっちゃって」という、やや頓珍漢な返事が返ってきた。
「はぁ、オムライス」
「豊西さんが、八軒が美味しいものを食べるリアクションが可愛いからって、張り切ってたもんだからさ。おとなげないと思いつつも、ついつい」
そうじゃなくて、その後ふたりで……と畳み掛けたいところだが、常盤が「いいなァー…オムライス。卵はやっぱ、とろっふわなんですよね」などと割り込んだので、そこから話が続かなかった。
多摩子は、馬術部の部室前で、御影らと一緒に副部長(の犬)と遊んでいた。
「あら、兄さんと一緒に帰ってくるかと思ったのに」
「先輩は、他の人と一緒に、歩いて帰ってくるって」
「あら、そう」
多摩子は、数時間前の取り乱した様子など微塵も感じさせない態度で、淡々と受け答える。副部長(の犬)は上機嫌で、キャンキャンと尻尾を振りながら、八軒の足元にじゃれついた。しゃがみ込んで子犬の頭や腹を撫で回していると、その鳴き声で気付いたのか、留守番をしていた円山が部室から出て来た。
「お帰り。依田先輩から電話あって、買い物してからこっち来るってさ。なんか、先輩んちの食料食い尽くしたとか言ってたけど」
「あ、うん。豊西先輩と稲田先輩とで、ご飯作ってくれた……このチャリ、うちの部のなんだって?」
「らしいね。で、お前帰ってきたら、馬乗せてくるようにって、言われてるわ。昨日今日と、マロンのご機嫌伺ってないだろ。御影が少し乗ってやってたから運動不足にはなってないけど、お前がな」
「あー…ハイ」
御影はどう言いくるめられたのか、いつも通りの様子で「八軒君、今日は元気そうだねー」などとニコニコしていたが、ふと真顔になると「そういえば八軒君、お尻は大丈夫?」と尋ねた。
「え? あ、うん、ちょっとチャリこけた。ふたりとも怪我はしなかったけど」
「そうじゃなくて。薬、使ってくれた? 馬乗れる?」
御影の斜め上の発言に、八軒は「えっ、ああ、うん」と目を白黒させるしかなく、隣に居た相川はブッと吹き出していた。
「じゃ、そろそろおいとましようかしら。兄さんのカバン預かってたんだけど、どうしよう」
「あ、俺がそれ、預かっておきます」
カバンの受け渡しにかこつけて、もう少し稲田に会えるという計算が働いたのだが、円山が「いや、八軒はマロンのとこな」と遮った。
「いや、多分、もう少ししたら、先輩来るし」
必死で食い下がろうとするが、相川が「したっけ、返しておいてあげるよ」と割り込んだ。
「僕なら、お互いの顔を知ってるし、僕んとこの部活は今日、特に急ぎの用事は無いから、時間的にも余裕があるし」
「そ、それはそうだけどっ」
この機会を逃すと、また当分会えないという焦りから、八軒も必死になっている。
何しろ、稲田の携帯番号もメールアドレスも知らないし、写メだって1枚も持ってない。さっきイチャイチャしてた時に、アド貰っておけば良かったと後悔するが、まさに先に立たず、だ。
「だったらせめて……その、タマコ。お願いがあるんだけど……稲田先輩のメアド教えて」
「高いわよ」
「カネなら払うっ! 幾らだ、この守銭奴め!」
「というか、アンタら今まで交換してなかったの?」
「ほっとけ」
そこに相川が「じゃあ、一万円ぐらい貰って、皆して駅前で美味しいもの食べようよ」と、提案した。皆、の範囲がどの程度かにもよるが、仮に一人あたま千円ちょいだったとしても、ごはんお代わり自由の定食屋なら腹一杯食べられる。少なくとも森を彷徨っていた連中と多摩子、円山の留守番組にはその権利があるだろう。
「鬼かっ!」
「八軒君、先輩のアドレスに一万円は払えない? 八軒君にとって、先輩の価値はそんなもんかな?」
「払うっ! さっき払うって言ったからなっ、いくらでも出してやるぜ畜生ッ!」
ポケットから札入れを引っ張り出し、紙幣を抜いて突き出す。さすがに相川も多摩子も唖然とした。
「八軒君、本気? いや、お腹空いてるから、ありがたいけど」
「可哀相だから、オマケとして兄さんの写真も何枚かメールで送ってあげるわ。小さい頃のも要る? 妹の私が言うのもナンだけど、なンまらメンコイわよ」
「あ、ほしい」
商談が成立したところで、円山がいつまでもぐずぐずしている八軒に業を煮やして、襟首を掴んで厩舎まで引きずって行った。
唇が離れて、改めて間近で顔を見た時に思ったのは、睫毛が長いんだな、ということと、前髪が乱れてはらはらと額に落ちているのが色っぽいな、ということ。
「ホテルって、チャリの距離じゃないんですよね。先輩の家って遠いんですか?」
「逆方向だな。寄り道してたら叱られるぞ」
「俺は、どこだっていいですよ」
「どこだって、って行ってもなァ」
道路脇の土手を降りれば原生林。ちょっと奥に入れば生い茂っているクマ笹に姿を隠すことも可能だろうが、とても落ち着けるような場所には思えない。それでも、このまま帰るよりはマシだ、と思い詰めていた。
「とりあえず、行ってみましょうよ」
「マジかよ」
呆れながらも稲田が自転車を脇に寄せ、ガードレールに引っ掛けるようにチェーンの鍵をかけたのは、彼も少しは自分を欲しいと思ってくれていたのだと、自惚れてもいいだろうか。
「そこ、ヌカるから気をつけろよ」
確かに、土手を降りきった辺りの地面はぬかるんでいた。よく見れば、排水なのか沢なのか、泥のような水がチョロチョロと流れている。
「ここ、水芭蕉とか咲くのかな」
「もっとキレイなとこじゃないと無理だろ。良く似たヘビノマクラは生えるだろうけど」
いや、きっと咲きますよ。一緒に見に行きたいな……と言いかけて、その頃には先輩はもう学校に居ないんだよな、と気付く。クラスメートで同じ部活であり、卒業までの三年間、曲がりなりにも、付き合いが続く御影との違いは、そこなのだろう。
「こんな湿地じゃ、座られんだろ。諦めるか?」
「嫌です」
「お前、変なトコ依怙地だな。もう少し、奥行くか……笹で手、切るなよ」
「だって、次いつ会えるか分からないし、ボヤボヤしてたら、先輩、春には居なくなっちゃうし」
「そうはいってもお前、こんなトコじゃ寝転がるの無理だし…じゃあ、そこの木に手ついて、立っていけるか?」
「立ちバック?」
「こら、どこでそんな単語覚えた」
ペチン、と軽く頭を叩かれる。どこって……アレ? 確か、西川が言ってたんだっけか。
えへへ、と笑ってゴマ化しながら「こう?」とザラザラした木の幹に掌を押し付ける。大きな木の下は光が届きにくいのか笹が少なく、落ち葉の積もった地面が顔を出していた。この木が、エゾマツかトドマツかは知らない。一応、枝の形を見れば分かるらしいけれど。確か、上に向かってたら、天まで届けトドマツ、だっけか……そんなことを考えていると、後ろから肩を掴まれた。続いて、腰に触れられて……その瞬間、頭の中が真っ白になる。
「もう少し、前に屈めるか?」
「嫌だ、怖い」
思わずしゃがみ込んでしまった。心臓がバクバクと早鐘を打っている。
最初、そのリアクションが理解できずに途惑っていたようだったが、やがて思い当たったらしい。
「もしかして、前の、そんなに怖かったのか?」
「先輩だって分かってるから、大丈夫だと思ったけど、やっぱり、その……顔見ながらの方が、いい」
「嫌われる覚悟で多少手荒にしたのは確かなんだけど、こんなに引きずるほどだとは思ってなかった……その、ごめんな」
「だから、言ったでしょ? 思い出したら、気が狂いそうになるって。でも、先輩だからいいんです。先輩でよかった。他の人は、絶対に嫌だから」
「本当にいいのか? やめといた方がよくないか?」
振り向いて向かい合わせの姿勢になった。
押しとどめようとするのに抗って、自分から唇に吸い付く。舌を絡めているうちに、互いの呼吸がうわずっていく。最初は遠慮をしていたようだが、やがておずおずとシャツ越しに胸元に触れて来た。
「先輩だから、いい。大丈夫だから。だから、もっと」
浅い息継ぎの合間に何度もそう繰り返して、もどかしげに足を絡める。
閉じていた目を開けた時に……なぜか視界が真っ暗なのに気付いた。森の中じゃない? そうだ、あの後、少しだけ戯れ合って……小屋の方から聞こえてくる人の声に気付いて、先輩が手を止めちゃったんだっけ。じゃあ、今は?
絡み付いている舌に、思い切り噛み付いた。
「ーーーーーーーーッ!!!!」
声にならない悲鳴があがった。顎を緩めてやると、相手が口元を抑えながら体を引く。その距離になってようやく顔が見えた。同室の西川だった。ベッドのカーテンは閉じられている。
「ちょ、なに? 図々しい」
「図々しいって……変な声でうなされてるから、心配して様子見にきたんじゃねーか。抱きついてキスしてきたのは、ハチの方だぜ」
「うなされてなんかないもん。せっかく、気持ちよく先輩の夢見てたのに……あーやだやだ。ウガイしてこようかな」
そう言って手の甲で口元を拭ったのがよほど神経を逆撫でしたのか、西川が「てめぇッ」と掴み掛かって来る。とっさに、掌で顎の辺りを押し返していた。空手でいうところの『掌底』という技だが、狙って繰り出されたものではなく、単なる偶然だろう。狭いベッドの上だったこともあり、西川は背中と後頭部をモロ柱にぶつけ、弾き返されるように前のめりに崩折れた。
「あ、ゴメン。大丈夫?」
「少しは加減しろ、バカ」
「やりすぎた」
これだから喧嘩慣れしてないヤツは。いくら可愛らしくてへペロしても許さん。仮にカモフラじゃなくてリアルの恋人だったとしても、これはDVの範疇だろ畜生と、西川は涙目になりながら呻く。いや、ハチが貞操を守りたいというのなら、イザという時には、これぐらい本気で抵抗しなくちゃいけないんだろうけど。
そのままふたり重なるように寝入ってしまい、しかも西川の首筋に吸い痕だの歯形だのが派手についていたのを別府に目撃されてしまったせいで、それから数日間、西川は針のムシロの思いをさせられるのだが……この時点の西川は、八軒が「ごめんねぇ」と囁きながら、出来立てのコブを撫でてくれる感触が心地よく(まぁ、カモフラージュでもいいか)などとボンヤリと考えていた。
【後書き】西川はとばっちりで酷い目にあって、八軒の携帯にはロリ画像が入っているという悪評でも立てばいいです(マテ)。私生活で山登りする機会があったので、皆がぞろぞろと山道を行くシーンを妄想して……そこから膨らませたオハナシ。むしろ依田先輩んちの料理対決の方が、書いてて面白くなった件(マテ)。
ちなみに「アズマしくない」は、標準語には簡単に置き換えられない気がするのですが、あえて言うなら「居心地が悪い、落ち着かない」というニュアンスの語です。語源からいうと「吾妻しい=我が妻の傍らにいるように安らぐ」という状態「ではない」ということらしいのですが……私の幼少時には否定ニュアンスでしか使われていなかったような(逆に「アズマしくなくなかったら、アズマしいっていうの?」と尋ねて「理屈コクんでねぇ!」と叱られたもんだ)。
また、クマ笹は熊笹(熊が居るような所に生える、ごっつい笹、的なイメージ)だと思っていたら、葉のぐるりに「隈」ができるからクマ笹なんだとか……なので、あえて「クマ笹」表記にさせて頂きました。
タイトルは中国原産のマメ科の落葉低木。花言葉は、裏切り、エゴイズム、不信、疑惑など。 |