熏衣草【3】


資料室のドアを開けると、室内は文字通りの漆黒の闇に包まれていた。廊下を渡る間に、星や非常灯の微かな明かりにかなり目が慣れた筈なのにと、八軒は訝る。

「デンキ、点けます?」

「いや、ちょっと待て」

ズカズカと稲田が奥へ進む。廊下に一人残されて急に何やら肌寒くなったが、後を追ってこの闇に足を踏み入れることもできない。

「何も見えないじゃないですか。デンキ、点けましょうよぉ」

そう言いながらも、何か得体の知れないものに触れたらどうしようという根拠のない妄想に怖気づいてしまい、自分で壁を探ってスイッチを探す気にはなれない。やがて、バサッという大きな音がして、八軒は驚いて「ひゃっ」と小さく悲鳴を上げ、しゃがみ込んでしまった。

「誰だ、カーテンなんか閉めやがったの」

珍しく苛立ちを含んだ稲田の声に、八軒は条件反射的に頭を抱えて「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」と答えていた。

「え? いや、八軒君に怒ったんじゃなくて……誰か、資料室に入ったみたいだなって思って。さっき、ファイルを取りに入った時にカーテンが閉まっていたかどうかまで覚えてないから『いつ入ったか』は断定できないけどサ」

「普段は鍵、かかってる部屋なんですよね?」

「一応、な。他の資料を取りに来る生徒もいるから、多少の出入りがあっておかしくないんだけど……なんで、カーテンなんか。ご丁寧に暗幕まで」

カーテンを開けると、窓から光が差し込んできた。そろそろ月も昇ってきたらしく、かなり明るい。八軒が恐る恐る立ち上がって室内に足を踏み入れる頃には、稲田はさっさとファイルをキャビネットに放り込んでいた。

「ここ、マズいかも。やっぱ、帰ろうか」

「え、嫌です」

「それに、札幌と違ってここらの夜は夏でもシバれるから、寒いだろうし」

「あの暗幕のカーテン、シーツ代わりにしたら暖かそうだけど」

「わざわざカーテンレールから外して、また戻すのか? 床に広げるだけでもワヤになるけど、どうするんだ? カーテンを洗濯して干してアイロン当てる暇なんか、あるのか?」

「……ないです。じゃあ、別の部屋とか」

「鍵が無くても入れるのは、フツーの教室……ぐらいだな。あと便所とか? 嫌だろ、そんなの」

「嫌です」

「ガッコを離れたって、ここいらじゃ、ラブホも100キロぐらい先のインターの辺りだしな」

ああ、宅配ピザの時にも実感したけど、札幌と地方では距離感覚が違いすぎる。札幌から100kmもあればニセコまで行けるじゃないか。でっかいどう北海道……と、八軒はがっくりと項垂れた。もっとも実際には、札幌市民の距離感覚も『内地』の人間とはかなり縮尺がズレているのであるが。

「じゃあ、帰るか?」

「嫌です」

なんでそんなに頑ななんだよ、どうしたもんだべな……と、稲田は頭を掻いていたが、やがて「毒食らわば皿まで、か。合言葉は、残さずキレイに食べましょう、だしな」と、呟いた。




そういえばお互い「嫌いじゃない」は連呼しても「好き」とは言ってないんだなと、八軒は暗がりの中で仰向けに転がって男の重みと床の冷たさに挟まれながら、ぼんやり考えていた。恋とか愛とかいうのとは、ちょっと違う気もするし、あえて言葉にしたらやっぱり「嫌いじゃない」としか表現できない。それに、今更あらためて「好き」と声に出そうにも、喉から漏れるのは、とっくに押し殺された切れ切れの喘ぎばかりになっていた。薄暗がりのうえに裸眼のせいで、視界はぼやけている。

「怖いとか苦しいとか思ったら、すぐ言えよ。俺だって男相手は経験ないんだし、今日はローションも何も用意してないから、痛いだろうし」

女相手は経験豊富なんですか、とか、今日は、ってことは前回はそーいうのを予め用意してたんですね、などとツッコみたいところだが、確かに粘膜がギシギシと軋むようで前よりも苦しく感じられ、軽口を叩く余裕などない。さらに貫かれたまま前の方も扱かれる。何度も煽られては尚も快楽を掘り起こされる切なさに、八軒の側から唇を重ねようとしたが、そのたびに「それは、カノジョにとっておけよ」と躱されてしまう。

「それとも、口寂しいのか?」

そういうと、口元に指を押し付けられた。一方的にこっちばかり気持ちよくさせられて悔しい、と八軒はその指に吸い付き、ねっとりと舌を這わせてみた。八軒勇吾クンの学習能力なめんな。さっきの玄関じゃ、上手い台詞をひねり出せなかったけど、今度こそ。
指の股をぞろっとなぞると、体の内部を押し拡げているものがビクッと反応したのがダイレクトに感じられた。気持ちよかった? 俺、先輩を気持ちよくしてあげられた? もっとヨくしてあげたら、喜んでくれる? 本で読んで知ったんだけど、ココも性感帯なんだってね。片手を相手の胸元に伸ばし、シャツ越しに小さな突起を探り当てる。

「ちょ、おまっ……やめっ」

痙攣するように、中で激しく反応してくれるのが、嬉しい。余裕ぶっていた先輩の表情が困惑気味に歪んで、次第に吐息が熱くなっていくのが、嬉しい。

「ばかっ、ゴムねーんだから……ッ」

フィニッシュが近いことを察し、とっさに両足を男の腰に巻き付けて『だいしゅきホールド』とかいう技でロックしようとしたが、八軒の運動神経は例によってオツムのスピードについていけず、ずるりと抜け出されてしまった。男が膝立ちの姿勢で己のモノを握り込み、射精をやり過ごそうとしているのに気付き、いざり寄ってその中心に唇を寄せる。

「おい、よせ、汚いって」

腰を引いて逃げようとするところにすがりつき、むしゃぶりついた。食欲にも似た強い欲求の前では、八軒の衛生観念は素っ飛んでいた。ええと、こういうときは音を立ててしゃぶると興奮するんだっけか、と口の中にわざとツバを溜めて、舌を鳴らす。
あ、と稲田が声を漏らし、次の瞬間、熱いものが迸った。八軒はむせて吐き出しそうになるが、口元を抑えて堪える。

「やべ、悪い……飲むな、んなもん」

慌てて八軒の背中をさすって吐かせようとしたが、喉をえづかせながらも、無理やりソレを嚥下したようだ。

「だ、だって、残さずキレイに食べましょう……って」

「変なところで引用するな」

「だって、参考にした本じゃ皆、美味しいとか甘いとか、言ってたし」

「どんなエロ本読んだんだ。体質にもよるだろうけど、リアルに美味しいわけないだろ」

「……でも、馬鹿兄貴の料理よか、マシだし」

「は? あの殺人焼きそば? そんなのと比較されても」

まだ甘え足りなさそうな八軒を押し返し、稲田はズボンを直した。非常灯の微かな光に腕時計をかざすようにして、文字盤を読む。かなり長いこと番っていたような気がしていたが、実際には小一時間が経った程度だった。それにしても、単にファイルを返しに行ったにしては、遅すぎるだろう。

「そろそろ戻ろうか」

「立てないです。あの……腰が抜けちゃって」

「はあ?」

滑りが悪かったから、そんなに激しいピストン運動はしていない筈なんだがと訝ったが、八軒がへたり込んでいる辺りの床タイルが、血と体液と思しき液体でべっとり濡れ光っているのに気付いて、ぎょっとした。

「だから、痛かったらすぐに言えって、言ったろうが」

「だって、そのうち気持ちよくなるって、本に書いてあったし」

「エロ本に書いてあることと俺の言うことと、どっちを信用するんだ」

「あ、その……すみません」

「まあ、いいわ。ちょっと雑巾とって来るわ。そんな血みどろのままじゃ、マジで怪談のネタにされちまう」

「デンキ点けなくていいんですか?」

「資料室にまだ誰かが居るって、アピールしたくないだろ。最中に警備員が巡回してたし」

「マジですか? 全然気付かなかった。あ、そういえば何回か、手で口塞がれましたよね。あんとき?」

「お前なぁ。こっちはハラハラしたんだぞ」

稲田が手探りで、部屋の隅にあるロッカーから雑巾を探し出してきた。床を拭い、もう一枚を八軒に差し出す。

「要るか? そんなドロドロのケツじゃ、ズボン履けないだろ」

「それ、雑巾じゃないですか。さっきのハンカチは?」

「もうとっくにガビガビで使えないワ……そんな贅沢言えるぐらいなら、もう大丈夫そうだな。無理なら、寮までおんぶしてやるけど」

手を差し出され、八軒はそれを握り返した。おんぶしてもらうのもいいな、という淡い期待が脳裏をチラリと掠めたが、思ったよりも強い力で(優男に見えるけど、そういえばこの人も酪農家の出だ)あっさりと体が引き上げられ、足裏が地面についた。ほれ、と眼鏡も手渡される。





先ほどの血みどろの雑巾は、証拠隠滅とばかりに薮の中に放り込まれた。

「ちょ、敷地の掃除するの、俺ら一年生なんですけど」

「そーいや、そうだっけな。悪い悪い」

「敷地の掃除、大変なんですから。布なんか、シケるし中途半端にボロボロに朽ちるしで、最悪。先輩だって、一年の頃は校内掃除しただろうから、そんなん知ってるくせに」

しばらくむくれていると「懐中電灯、持って来れば良かったな。暗いから、足元気をつけろよ」などと言い訳がましく呟きながら、稲田が腕を差し出してきた。意図が分からずに顔を見上げると、気まずそうにそっぽを向いている。八軒は恐る恐るその肘にしがみついた。畜生、八軒勇吾クンはこんな安っぽい手でゴマ化されないんだゾと強がってみたが、素肌の匂いを吸い込み、その体温を貪っているうちに、次第に(計画通りまんまと?)口元が緩んできた。今まで、こんなふうに他人の体温を感じたことなんて無かった。マロン号や子豚達、副部長などの動物とは日頃から触れ合っているが『同じ種族』の肌は格別なんだなと、ぼんやり思った。
その心地よい熱にうかされながら、八軒は「カノジョってほどじゃないけど、気になっている人はいるんです」と、ポツリと呟いていた。

「すごく優しくて、可愛くて、でもカッコイイところもあって、すごく素直そうなんだけど全然素直じゃないところもあって、時々すごく頑固で、気が強いから喧嘩もしたことがあって、でも馬がそばに居たら怒ってることも忘れちゃうぐらい、馬が好きで」

「いい子なんだな」

「でも、その子には幼馴染みが居て、俺なんかよかずっと親しそうで、俺のことは友達ぐらいにしか多分、思ってなくて、むしろ俺の優先順位なんて馬よか下かもしれなくって、よく考えたら俺、その子の家で夏休みいっぱい泊まり込みでバイトしてたのに、全然進展なくって。進展どころか迷惑かけてばかりで、仕事でもあまり役に立てなくって、情けないところばっかりみせてて……そんなんだから告白らしい告白もまだしていなし、心を開くどころか、悩みを聞いてやることもできなくって、しまいに日常会話もぎこちなくなっちゃうしで、カノジョっていうにはあまりにも遠くて。キスどころか、手を握れるのも、いつになることやら分からないんですよね」

だから、キスもいっそ先輩に……と言いかけたが、その一瞬前に「そっか。がんばれよ」と言われてしまった。
あ、あー…そうですよね、この流れだったら、そういう回答になりますよね。むしろ模範解答ですよね。純粋に好意で応援してくれているのが分かるだけに、八軒は己のミスリードにへこんだ。野球に例えるならば、9回ツーアウトツーストライクから、逆転サヨナラホームランをかっ飛ばされた気分だ。そこから、しばらく会話が途切れて、ただ黙って黙々と歩く。
やがて、組んでいた腕をポンポンと軽く叩かれて、八軒は我に返った。寮の入口が目の前だったので『そろそろ手を離せ』と促されたのだと気付く。ついさっきまで触れ合っていた部分が、夜風に吹かれて急速に冷めていくのがやけに寂しく感じられた。

「校舎の階段でコケて尻を打った、ってことにしようか。それでお前が歩けるぐらいに回復するまで、資料室で休んでたって。そうじゃないと辻褄が合わないし……尻が痛いって理由付けにもなるだろ」

そういいながら、稲田は入口の扉の隣にあるインターフォンを押した。数秒の沈黙があり……まだ帰りたくなかった八軒は『寮に入れないなら、どっか行きましょうよ』と言いかけた。幸い、その妄想を声に出してしまう前に、ガチャリと重々しい音を立てて扉が開き、宿直の教師がのっそりと顔を出した。
稲田は遅くなった理由(※但し捏造)を、シレッと顔色ひとつ変えずに説明する。その無駄に頼もしい様子を見て、実は稲田先輩って、ものすごいクセモノなんじゃないか? と、今更のように気がついた。だって、よく考えたら、このヒト、あの多摩子のお兄さんだよ? ただの善人の訳ないじゃん。
八軒勇吾よ、何事も見た目の先入観で判断してはいけないと、あれほど学んだ筈だろう。 

「したっけ、もう部屋に戻ってさっさと寝とけ。馬術部、明日も早いんだろ」

「あ、あのっ……」

次はいつ会えますか、と尋ねようとしたが、声が出なかった。
稲田はこれから進路関係で忙しくなっていく三年だし、自分はまだ過酷な労働に明け暮れながら、断りきれなかった仕事を抱えていかなければいけない。キヨラカな男女交際すらしている余裕が無いのに、不純な同性交遊なんてもっての外だというぐらい、最初から分かっている。

「じゃあ、その、せ、先輩のカノジョにもよろしく伝えてくださいッ」

動揺の余り、これっぽっちも心に無い台詞が、口を突いて出てしまった。
確かにこちらからは「気になる子がいる」という話をして自爆したけど、先輩にカノジョが居るなんて言ってなかったじゃないか。でも、女性経験はありそうだし、先輩みたいな優しい人はモテるに違いないし。だけど、よろしくって一体何を伝えろって言うんだ。浮気相手のハチでーす、ごちそうさまでしたーてへぺろってか? バーカバーカ、八軒勇吾のスーパーバカ。それに、これじゃあ、まるで別れの挨拶じゃないか。でも、だって、次なんてあるわけないし、自分なんかより先輩に相応しい人が絶対に居るはずだし。
恥ずかしさと情けなさの余り、衝動的に大声で喚くか泣き出すかしてしまいそうになった。必死でそれを押さえ込み、くるりと背を向けて八軒は自室へ駆け戻る。

「……兄さん、カノジョ居たんだ?」

唖然と八軒の背中を見送っていた稲田の背後に、多摩子が声をかけた。振り向けば女子部屋のある二階へ繋がる階段があり、その壁に背中をもたれるようにして立っている。ふとやかな腕には、やや丸みを帯びた小型ラジオのようなものが抱えられていた。

「それ、受像機か。お前のことだから、どこかに何か仕掛けてるとは思ったが」

「あら、カノジョの件は黙秘? それはそうと、本当にずっと資料室に居たの? 灯りも点けずに?」

「月も出てたし……そうか、その盗撮カメラのスイッチ、電灯に連動させてたんだろ」

「暗視カメラは用意できなかったし、暗幕かけときゃ絶対にデンキ点けるだろうって考えて、土木科の知り合いに頼んで工作してもらったのに。小癪ね。音声ファイルだけなら軽いから、録音だけでも長時間設定で回しておけばよかった」

「大方そんなこったろうと思ったサ。そんな見え見えのお膳立てには乗せられないで、さっさと帰るつもりだったんだがな」

「あら、つもり、ってことは、結局お召し上がりになったの? 闇鍋状態で?」

「つい、ほだされちまった。合言葉は、残さずキレイに食べましょう、だしな」

稲田がけろりと言ってのけると、両手を合わせてみせた。

「うそ、本当に? 暴れたりしなかった? ううっ、ますますカメラが作動しなかったのが惜しまれるわっ! DVDに焼いたら絶対に売れたのにっ!」

比喩でなくリアルに、多摩子が地団駄を踏んで悔しがる。それを見下ろしながら「多摩子。おにーさんは、人の皿に箸を突っ込むような、食事マナーの悪い子は嫌いだな」と、稲田がやや強ばった声で咎めた。

「あら。兄さんの皿だったのかしら? 誰の物でもなく、奪い合いになりそうだったところを、平等によそってあげようってだけよ。で、試食のお味はいかがでした?」

さすがにカッとして怒鳴りつけようと稲田が息を吸い込んだ途端「こらァ、そこの二人! さっさと部屋に戻りなさい! 不純異性交遊か?」と、巡回していた教師の声が飛び込んできた。





部屋に駆け込んだ八軒は、何も言わずに自分のベッドに潜り、布団を頭からすっぽり被ってしまった。西川と別府が顔を見合わせて、恐る恐る「おーい、ハチ? 豚舎で何かあったのか?」「豚さん、大丈夫だった?」と尋ねる。八軒は一瞬、何の話か理解できなかったが、少し考え込んでから「そういえば、子豚の計量に行くという口実で外出したんだっけ」と思い出した。

「あ、ああ。ベーコンもチャーシューも、皆元気だった。痩せてなかった」

「そーなんだ。良かったねぇ」

「で、どうしたんだよ。やけに遅かったけど」

『相手』を知らないうえに、純粋に子豚の再計量に行ったと思われている(というより、実際に行った)ために『実は逢引だった』などとは微塵も想像していないルームメイトのカンの鈍さに、八軒はむしろ救われる想いだった。

「いや、その。ファイル片付けに行ったらガッコの中暗くて、階段からちょっと落ちちゃって。尻打ってしばらく動けなかったから」

「それで、ちょっと涙目なのか。なんかあったんじゃないかって、心配したぞ。なんか詳しく教えてもらえないけど、今日は酪科で騒ぎになったって聞いてるし、変な意味でオマエ狙われてるって噂もあるからさ。尻、シップとか貼っとく?」

「いやいや、もう平気だから」

「でも、ハチのズボン、血がついてるよ?」

「え、マジかよ。どっか切ったのか、ハチ」

「あ、その、ざっと雑巾で拭いたから、大丈夫」

「雑巾じゃダメだろ、傷口が化膿するだろ。いいから、ちょっと見せてみ」

「いやいやその、あの、自分でするから!」

「んなこと言ったってオメ、さっきそのまま寝ようとしたべや! 別府、ハチ脱がすの手伝え」

西川が布団を剥ぎ取って、八軒を組み敷き……ドアが微かに鳴った。このパターンは……と恐る恐る振り向くと、案の定、常盤がノートを抱えて固まっていた。






「八軒。アンタ最近、一部で『断らない男(但し、性的な意味を除く)』って言われてるらしいじゃないの」

あれからしばらく経ってようやく忘れかけた頃、馬術部の女先輩、豊西が唐突にそんなことを言い出した。お茶を啜ろうとしていた八軒は、思い切りそれを吹き出してしまう。

「せっ、せ……性的な意味ィ……!?」

「いいじゃん、やるんでが。それぐらいは断れるようになったって例えっしょ。処世術っていうの? いくら素直が取り柄でも、少しはそういうの覚えないと」

「はぁ、そうっすね」

多摩子はまだ鍋奉行計画を諦めていないようだが、色々多忙なせいもあるのか、八軒の貞操(?)は今のところ無事である。もしかしたら、稲田やホル部の連中が陰ながら手を回してくれているのかもしれないが、実際のところは分からない。例え護ってくれていたとしても、数カ月後には彼らは卒業してしまうのだから、いつまでも頼りにはできない。
大丈夫、俺、ちゃんと断るときはビシッと断ります。その、発狂しない程度に。でも、流されないように、頑張ります。ちょっと自信が無いけど。このまま(但し、性的な意味を除く)という評判が流布して、ヨコシマなことを考えている連中がフェードアウトしてくれれば一番いいんだけどなぁ。

「八軒君、これで顔、拭いて」

御影が妙にスローモーな仕草で何かを差し出したが、八軒がそれを受け取る前に、豊西が「それ、雑巾」とツッコんだ。

「御影さん、そこにウェットティッシュあるっしょ。取ったげなさい」

「あ、いいです。俺、これでも」

「いやいやいやいや、ダメだって、さすがに雑巾で顔は」

「そんなもんですかね。まぁ、そうですね。確かにアレは尻だったし」

「は?」

御影の手からウェットティッシュの容器が転げ落ち、派手な音を立てた。


【後書き】『銀の匙』……獣医志望だったのを諦め、つまらない意地で短大の酪農学科に合格したのも蹴った自分的には、色々眩しすぎて手を出しづらい作品だったのですが、何も知らない家人が「面白そう」とコミックスを5巻まで買ってきてしまいまして、一気読み……その、自分、稲田先輩と相川、超押しっス!(←もちつけ)
いや、このジャンルで続けるつもりは毛頭ないんで、やらかすのはこれ一本だけだと思うんですがね……思うだけ。

なお、電灯のことをデンキと呼ぶのは、道民が列車を全て『汽車』と呼ぶようなものです。ワヤは『めちゃくちゃ』が転じた『わや苦茶』の略。一応、北海道弁で生まれ育った身なのですが、内地に移住して長いので微妙に方言がおかしくなっていたらごめんなさい。
タイトルは、ラベンダーの漢字表記。花言葉は「あなたを待っています・期待・不信・疑惑・沈黙・豊香・私に答えてください」など。
初出:2012年11月17日
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壁紙:素材屋Miracle Page より。

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