熏衣草【2】


相川に促されるまま、夢遊病のように歩いていた八軒だが「ようこそ!」という野太い声と共に、我に返った。目の前で黒Tシャツ姿のマッチョ達が、ボディビルダーのような独特の暑苦しいポージングで各々の逞しい筋肉美をきらびやかに誇示している。八軒は相川に向き直って「ちょ、なんで心当たりがホル部なんだよ! そんなガチホモ趣味はねーぞ!」と、喚いた。

「ここ最近、八軒君の様子がどこかおかしいって、ここの先輩方も心配してたんだよ。で、じっくり話をしてみたら、なんか分かるんじゃないかって」

相川の釈明に「そんなものかな」と首を捻っていると、背後のホル部の先輩方が「ガチホモじゃないのか。やっぱ不純異性交遊の方か」「清純同性交遊だと思ってたのになぁ。閉鎖的な環境での春期発動機に同性間で擬似的求愛行動が見られることは、むしろ自然なことだし」「純朴かもしれんが、既に純潔とは言い難いかもしれねぇべ」「まぁ、校則で禁じてるのはあくまで、異性間交遊だし」などと口々に勝手なことを言いながら、八軒の尻を撫でてきた。瞬間湯沸かし器のごとく生理的嫌悪感が一瞬にしてゲージを振り切り、ゾワッと全身が総毛立った八軒は「うわぁああああ」と喚きながら、めちゃくちゃに腕を振り回して反撃した。テーブルに体がぶつかり、ビーカーやシャーレが落ちてヒステリックな音を立てて割れるが、それでも暴走は止まりそうもない。相川が「ちょっ、落ち着いて、八軒君」と羽交い絞めにしたが、それがさらに恐怖を煽ったのか、いつもの八軒とは思えない馬鹿力で長身の相川を振りほどいた。

「相川、後ろからは駄目だ。前からゆっくり、顔を見せながら抱きかかえて、安心させてやれ」

「なんで僕が! つーか、先輩方がセクハラなんかするからでしょうが! さっきも教室で半狂乱になっちゃって、ようやく回復したとこだったのに!」

「いいから、とりあえず落ち着かせろ。八軒の症状は、この反応でよく分かった。サカリがついて興奮している牛を静める要領で行け」

「要領もなにも、そんなん経験ないです。どうしろって……」

そう言いながらも『興奮して発狂している患畜をなだめて診るのも、獣医の仕事の一環だ。これも経験だ』と腹を括れば強くなれるのが相川という男だ。「はーい、どう、どう……」と囁きながら、腕を広げてゆっくりと八軒を抱きかかえた。ガクガクと痙攣気味に震えている背中をぽんぽん叩いて「よーし、よーし、いい子だ」などと声をかけているうちに、腕の中の震えが徐々に静まってくる。それを察した先輩方がわらわらと、毛布だのアルミ製のマグカップに淹れたホットミルクだのを手に近寄ってきた。

「……相川、大丈夫。もう大丈夫」

「そ、そう? 八軒君、ミルク飲む?」

「それよりも、せめて人間扱いしてくれない? なんだよ、どうどうって」

「え? ああ、そうか。先輩方が牛を静める要領で、っていうから、ついつい」

八軒は毛布とマグカップをひったくるように受け取ると、相川の腕から逃れてしゃがみ込んだ。首から上は熱いのに、体の芯が凍えるような、変な感触。やっぱり熱があるんだろうか、ボルタレン挿れなくちゃいけないんだろうか、などとぼんやり考えながら、なぜかガチガチに強張っている両手でマグカップの温もりを感じている。

「で、先輩。症状が分かったって、何なんですか?」

「自然交配で、雌が相手を気に入らない時には暴れるべ? アレだ。動物の交配時のイニシアティブは、原則的には雌にあるからな。だから雄は、雌に気に入られるための努力を色々とするわけだ」

「それと八軒君のさっきの反応に、何か関係が?」

相川と先輩方の会話が聞こえるが、何を話しているのかは全然頭に入ってこない。なぜか自分の話題とは思えず、ずるずるとミルクを啜っていると、相川が「ねぇ、八軒君」と腕を掴もうとした。突然のことにビックリして、脊髄反射的にマグカップを投げつけてしまう。中身を相川にぶちまけずに済んだのは、単に八軒がノーコンだっただけのことだ。

「ちょっ、落ち着いて。違うから、何もしないから」

「あ、ああ、ごめん。その、さっきからどうしてこんなんなっちゃってるのか、自分でも分からなくって、自分を抑え切れなくて。心配してくれてるのに、ごめん」

ぺこぺこと頭を下げている八軒の様子を腕組みをして眺めながら、先輩らが「相川でもダメか」「これは、インプリンティングだべ」「しつけスプレーみたいなもんじゃないのか?」「どっちにしろ、うまくやったもんだな」等と頷き合っていた。

「インプリンティング?」

「八軒、オマエ頭いいくせに、そんなのことも知らんのか。アヒルの仔(こっこ)なんかが、最初に見たものを親だと思い込むべ。刷り込みってヤツだ」

「いや、言葉は知ってますけど」

農業高校という場所柄故の宿命なのだろうが、どうしてこう、ここの人たちは何が何でもいちいち家畜に例えるんだろう。

「つまり洗脳されたとでも言いたいんですか? そんな酷いことする人じゃないのに」

「やっぱり知っている人が相手だったの? というか、八軒君、本当にそんな目に遭ったんだ!?」

相川の驚き方に、八軒は己の失言に気付いた。しかし、ここで相手の名前を出してしまえば、多大な迷惑をかける……ということぐらいは、いくら八軒にだって想像がつく。

「その、相川、せっかく心配してくれるのは有り難いけど、ごめん。相談したいとか、そういう気分でもないし」

「いや、こっちこそ、傷口えぐったみたいで申し訳ない。でも、大体の事情は理解できたし、これ以上は他人が立ち入らない方がいいってことも分かったから、皆には僕からうまく言っておくよ」

ありがとう、という言葉はさすがに出てこなかったが、代わりに「相川、ごめん」という台詞だけ辛うじて搾り出した。ホル部の面々が黙々と、ガラス片やミルクがぶちまけられた床をモップで拭っている。それを手伝うべきかどうか八軒は迷ったが、むしろそれを手伝う資格が自分には無い気がした。

「その、申し訳ありませんでした。失礼します」

一礼して部室を出て行こうとする八軒の背後に「おい」とホル部の部長が声を投げかけた。ビクッとして八軒が立ち止まる。

「勘違いしてるかもしれないから、念のために言っておくがな。多分そいつ、お前を護ろうとしたんだぜ」

「えっ?」

「今までの単なる『断らない男』のままだったら、お前さん、相手が誰でも、嫌われたくないって思って、抵抗できなかったんじゃないか? それこそ、いくら尻触られたって我慢したろうさ。そこに付け込まれていたら、肉便器にされてたかもしれないだろ」

「肉……いや、そ、そうですね」

実際に『嫌われたくない』と思ったからこそ、あのときは恐怖も痛みも無理やり押さえ込んでしまったのだ。拒むなどという選択肢は、微塵も頭に無かった。

「護って……くれたんだ」

『なんだ、ちゃんと断れるんじゃないか』という言葉が蘇ってきた。耳元に感じた吐息の感触もリアルに感じるほどに。

「あ……相川!」

「お、おう?」

「スモークチキン先輩、どこに居るか分かる?」

「えっ、スモーク……ああ、食品科学科の?」

「食品加工室……は許可が要るから、いつもそこに居るわけじゃないよね。先輩の部活何だっけ。それとも鶏舎の方かな」

「あー…いや、多分、豚舎じゃないかな。確か今日は、子豚の体重測定があったから」

「サンキュ!」

バタバタと八軒が走り去り、相川含むホル部の面々は、唖然と顔を見合わせた。

「せっかく、武士の情けで名前までは聞かないでやったのになァ」

「あーいうとこが八軒らしいっしょ……俺的には、乗馬部繋がりで土木の大川かと思ってたんだけどサ」

「食品の稲田かァ。確かに日頃から可愛がってたようだし、八軒の方も小麦だベーコンだとおねだりして、よく懐いてるらしいし。納得の結果だべな」

「だべか」

「だべさ」

ホル部の男共が顔を見合わせて苦笑いをしているところに、多摩子が丸めたファイル片手に颯爽と部室へ入ってきた。耳にはなぜか、赤鉛筆を挟んでいる。

「ちっ、やっぱり兄さんか」

「稲田さんっ! まさか賭け事のタネにもしてたんですか? というか、八軒君がかわいそうだから、いい加減そういうの、やめてあげましょうよ!」

「そうね。相手不明のため賭け不成立ということにして、皆に返金しておくわ。ホル部の誰かだったら、胴元のアタシが賭け金総取りできたのに。相川君、今からでもいいから押し倒してきてよ」

「無理です。見てたんなら分かるでしょう、あの暴れよう」

「そうね、お客にもあんなに暴れるんだったら、商売にならないわ」

「だから、そういう論点じゃなくて」

他に立ち聞きしていた無粋なヤツはいないよな、と相川は部室のドアから顔を出して、周囲を見回す。薄っすらと西の空が紅に染まり始めていた。





豚舎に駆け込むと掃除の直後だったらしく、敷き藁の匂いが香ばしく感じた。ぶいぶいと甲高い声で鳴きながら子豚が転げまわって遊んでいるが、体重測定された後かどうかは見た目では分からなかった。くるっと見渡す限り人が居ないのを見て取ると、豚舎を飛び出す。食品科学科からここまでのルートは、と必死で計算しながら走る。いや、子豚のデータをつけたファイルを片付けるために、一度資料室に向かうはずだ。計測の前であろうと後であろうと、そのルートを辿ればどこかには、きっと。

「稲田先輩!」

「あ、ああ、八軒君。どうしたの?」

どうやらこれから豚舎に向かうところだったらしく、数人連れ立って作業着に身を包んでいる。これから計量に行くんだったら邪魔しちゃいけないな、と気がついたのと同時に、この場で『ふたりきりになりたい』なんて告げたら、先輩にも変な噂が立つんじゃないだろうか、そもそも自分はなんて言うつもりだったんだろう、なんの戦略もなく、徒手空拳で? 今のままじゃ、前回と何も変わらない……と、様々なことが一瞬の内に脳裏を駆け巡り、八軒の体はフリーズした。

「八軒君?」

多摩子の兄、三年の稲田真一郎が上体を折るようにして、小柄な八軒の顔を正面から覗き込む。その長い睫毛が瞬いているのを間近に見て、八軒はどぎまぎした。

「いえ、その。見かけたからつい、声をかけちゃって。お邪魔しましたッ!」

全速力で駆け寄っておいてそれはあまりに苦しい言い訳だが、それが一番無難だと八軒は結論づけていた。ぜいぜいと激しく乱れている呼吸を抑えながら、ぺこりと頭を下げて駆け戻る。





寮に戻った八軒は、女子部屋のある二階に駆け上がった。きゃー、えっち、などという悲鳴にもめげずに「タマコ居る? タマコ。その、酪科(らっか)の稲田さん居ませんか!」と喚いていると、後ろからドスドスという足音を轟かせながら「女の園に乗り込むとは、いい度胸ね。先生に叱られるわよ」と、多摩子が現れた。

「えーと、その。お願いごとがあって。こーいうのはタマコ経由で頼んだ方が良いかなって思って。どんなのがいいかとか、俺、分かんないし。その、参考書的な?」

「それは、例の鍋計画に協力するという解釈でいいのかしら?」

「鍋にされる気は毛頭ないけど、お願いします」

「なによ、じゃあ、リベンジでマグロ返上、的な?」

「そんなカンジ」

「そう……じゃあ、部屋で待っていらして」

それから数時間後、BL本がいっぱいに詰まった段ボール箱が届けられた。多摩子が寮の女子から掻き集めてきたものだ。八軒はそれを受け取って、猛烈な勢いでそれらに目を通し始める。借りたこと自体が、またあちこちからの疑惑のネタになっているのだが、勉強の鬼モードに入った八軒は、そんな好奇の視線などモノともしない。
ズババババ……という擬音が聞こえてきそうなスピードで読み倒すと「よしっ」と気合を入れて立ち上がった。これだけ下調べをしておけば、今度はうまく取り計ることができる……気がする。

「確かにアイツ、元気にはなったみたいだけどさ。なんつーかこう、変に居直ったっつーか、元気の方向性ちがくねーか? あんな本読みふけってる姿見たら、またアキが固まるだろーが」

扉の向こうで、駒場が相川を詰る。相川は「うーん。進展はしたんだけどねぇ。開花させちゃったのかなぁ」と首を捻っていた。

「よしって、どうすんだよ。今から夜這いでもするのかよ。脱走は罰掃除だぞ?」

西川に諌められて、八軒は「ああ、そうか」と呟き、項垂れた。まもなく全寮生が部屋に軟禁される自習時間で、それが終われば即、就寝だ。次に時間が取れるとすれば、明日の放課後か。

「……そう、一頭、計量値がおかしいから、再計量してって。ええ、今すぐ。いや、私もついさっき聞いたのよ……一人でいいでしょ、それぐらい。なんだったら、格安で助手つけてあげるわよ」

八軒らの騒動など我関せずの顔で、多摩子は廊下で何やら携帯電話で揉めていたが、やがてパクンとそのディスプレイを折り畳んだ。

「八軒君、ちょっと豚舎行って来て」

「は? 俺が?」

「兄さんの手伝いで」

このタイミングでこれは罠じゃなかろうかと、八軒は多摩子と相川の顔を交互に見やる。
ある程度の事情を知っている相川も、この状況が飲み込めていない顔をしているのが、不気味に思えた。いや、相川はうまく取り計らってくれると言っていたし、相手の名前までは知らない、筈だ。
だが、単なる偶然にしてはハナシが出来過ぎている気もする。しかも多摩子は一筋縄ではいかないヤツだ……と、さすがの八軒も警戒して「なんで俺? 食品科だったら、別府もいるじゃん」と、拙いなりに予防線を張ってみた。

「何よ、自意識過剰ね。違うわよ、アンタも自分が名前をつけた子豚が痩せてたら、心配でしょ。なんだっけ、ベーコン?」

「ベーコンが!? 痩せちゃったの!? この時期はもの凄い勢いで体重が増えてなくちゃいけないのに!」

そういうや早いか、八軒は部屋を飛び出して行った。多摩子はそれを見送ってニヤリと笑うと、再び携帯を広げた。

「……もしもし、富士先生? なんか、子豚の計量数値を間違って記入したのを思い出したって、ついさっき 兄 が 言 い 出 し ま し て。ええ、早急に訂正したいと、助手に八軒君を連れて、再計量に行きました。ええ……はい」





最初は稲田が計量器の数値を読み上げ、八軒がファイルをチェックしたが、通常の範囲での誤差しか確認できなかった。念のために役割を替えてみても変わらない。最後の手段として、豚舎に顔を出した女教師の富士にも照合してもらった。

「稲田、お前の記憶違いだったんじゃないか? 今まで記入間違いなんて凡ミス、したこと無かったろう」

いつものボディコンシャスな黒のシャツに迷彩柄のカーゴパンツを組み合わせた個性的なスタイルとは一転、プライベートな部屋着なのだろうダルダルのスウェットにサンダル姿の富士だったが、それでもにらみ付ける眼光はいつも通りの鋭さであった。いや、機嫌が良くなさそうな分、いつも以上だったかもしれない。

「は? 俺が?」

「多摩子からそう聞いてる。お前が記入ミスしたのを思い出したから、早急に訂正したいと。だから、外出を特別に許可したんだが?」

「多摩子が……?」

稲田は一瞬、状況を理解できなかったのかポカンとしていたが、やがて「ああ、そうっすね。俺の記憶違いっした」と、頭を下げた。

「そのファイルを資料室に返したら、鍵を返すのは明日で構わんから、さっさと寮に戻れ。ひとが一教師から一個人に戻って、気分よく晩酌してるところを邪魔しおって、まったく」

「お騒がせしまして、申し訳ありません」

何か言いたげな八軒の腕を掴んで、稲田は引きずるように豚舎を出た。
見上げた空は一面の星だ。東京や大阪のような大都会ほどではないが、それでも八軒の生まれ育った札幌の空はネオンや外灯などによる光害の影響を少なからず受けており、町中で観測できる星はオリオン座や北斗七星などのメジャーで見つけやすいものに限られている。ここに来て早や数カ月が経っているが、この時間帯に寮の外に出ることが滅多に無いこともあって、八軒はその満天の星空に素直に感動して「星明かりが、きれいっすね」と呟いていた。

「それ、月じゃなかったか?」

「え? いや、夏目漱石じゃないです! フツーにきれいだって思っただけで!」

「あはは、冗談、冗談。そりゃそうだ。そんな訳ないよな」

「え、いや、そういう意味じゃ……その」

そこから先は、妙に気まずくなって二人、黙り込んで歩いた。夜の校舎の正面玄関は施錠されているが、裏口は空いている。来客用スリッパを拝借して守衛室を覗いたが、人の気配はなかった。稲田が思い出したように「怖かったら、先に帰ってていいぞ。校内は非常灯しか点いてないし」と声をかける。

「怖いだなんて……子供じゃないんですから、最後まで責任持ってご一緒します」

「それに、ここ、夜は出るぞ?」

稲田が脅すように両手をダラリと胸の前に垂らしてみせたが、初対面の時に笑顔で鶏の首を叩き斬っていた人に言われても、説得力のあるわけがない。

「誰かに祟られるような身に覚えも無いし、もし豚丼の霊だったら俺、喜んで会いますよ。お前は最高に美味かったって、褒めてやる」

「そっか。強くなったな」

「皆が支えてくれたから。あと、その」

何をどう切り出せばいいのか、八軒の脳内では何十回も何百回も、脳細胞のシナプスが焼き切れるんじゃないかという勢いでシミュレーションを繰り返していたが、結論は出ていなかった。だが、話を切り出してしまったからには、何か言わなくてはいけない、と八軒は焦りに焦った。

「あっ、あの、あの」

「言いにくいんだったら、無理しなくていいぞ。逆に、何を言ってくれても構わないから、遠慮もしなくていい」

稲田は落ち着かせようとしたのかもしれないが、そのあまりにも優しい口調は逆に、仕方の無いヤツだと呆れ、責めているような被害妄想を八軒に引き起こさせてしまい、余計にテンパった。緊急避難的に「さっきの数字、結局なんだったんでしょうね。ベーコンが痩せちゃった訳じゃなくて、ホッとしましたけど」と、話題を逸らす。

「え? ああ、そうだな。この時期に痩せるようじゃ、病気を疑って処分しなきゃいけなかっただろうから、ただの間違いで良かったな。あいつら順調に育ってるから、いい肉になるぞ」

いやいやいや、何を口走ってるんだろう、俺。なんで豚の話題。明後日の方向に逃げ過ぎて、これじゃ話題の軌道修正不可能だろ。何のためにあんだけ予習したんだ……と、八軒はがっくりと両手を床についた。稲田が隣に屈んで八軒の背を撫でながら「豚のことが心配だったんだよな。おまえ、優しいな。もう、無理しないで帰っていいんだぞ」と、子供をあやすような優しい口調で囁いたことも、追い打ちを掛けられたように感じていた。

「無理なんか、してないです」

「そうか? なんか辛(えら)そうだぞ? それに、あんなことがあった後じゃ、俺とふたりきりになるのも怖かったろ。ファイルの片付けぐらい一人で行ってくるから」

「無理なんか、してないです」

「だったら、なんで泣くんだよ」

そう言われて初めて、八軒は己がいつの間にか泣いていることを自覚できた。涙が溢れているのに鼻水も出ず、しゃくり上げもしていなかったのは、どういう生理現象の加減だったのだろう。眼鏡を外し、半袖シャツの袖で顔を拭っていると、稲田がポケットからハンカチを出して差し出してくれた。そのハンカチを稲田の指ごとワッシと掴むと、頭の中がぐちゃぐちゃのまま「俺、先輩のこと怖いだなんて思ってません。ただ、俺の方こそ、マグロだったし、キスはやだとか言っちゃったし、そのくせ尻軽みたいに思われてるみたいだし、先輩に嫌われちゃったんじゃないかって思うと怖くて、すげぇ怖くて、なのにどうして、帰れなんて冷たいこと言うんですか。先輩、俺を護ってくれたんじゃないんですか」と、一気に吐き出していた。
稲田は、たっぷり数十秒はフリーズしていたようだった。その沈黙が、八軒には一時間にも二時間にも感じられた。やがて、稲田が空いている手で八軒の手をポンポンと軽く叩き、掴まれていた己の手とハンカチを取り戻した。どれだけ力を込めていたのか、八軒の指の痕がくっきりと赤く痣になっている。

「あっ、その、ごめんなさい、つい」

「いいから、まず、涙を拭け」

「……はい」

「ティッシュまでは、ポケットに無いわ。ハナもかみたくなったら、遠慮せずにソレでかんでいいからな」

八軒があらためてハンカチを受け取り、顔をゴシゴシ拭っているのを見下ろしながら、稲田は手持ち無沙汰そうに己の前髪を一筋、指にくるくる巻いて弄んでいた。

「なんだ、発情期か?」

「もう、なんとでも言ってください」

「つーか、サ。あんなことした相手なんて、フツーは嫌だろ。それとも、ああいうの、慣れてて平気なのか?」

「全然平気じゃないです。発狂しそうです。でも、先輩は嫌じゃないです。他の人とは、そんなことしたことないし、多摩子はなんか企んでるみたいだけど、他の人は絶対嫌です」

せっかくあんなに予習した口説き文句は、完全に脳内から素っ飛んでしまっていた。自分でも駄々っ子のようだと自覚しながらも堪え切れなくなり、無我夢中で膝で稲田にいざり寄ると、その胸元にすがりつく。

「ちょっ、待て、落ち着け。分かった、分かったから、その、どうどう」

「どうどうって、先輩まで!」

「まで、って何の話だ。とりあえず、手を放せ」

「俺のこと、嫌いですか? それとも前は、俺をただ性欲処理の道具にしただけなんですか? それだったら諦めます。でも、そうじゃないなら……」

「嫌いじゃない。嫌いじゃないから、喚くな。そういう論点じゃなくて。まず、ファイル片付けにいかなくちゃ、だろ? いいから、泣き止んだのなら立て。それに、こんな玄関先じゃ、その、なんだ……資料室って、内側からも鍵、掛けられたと思う。本当にお前が嫌じゃなけりゃ、だけど」

その言葉の意味を理解すると、八軒はカッと顔が耳まで熱くなったのを感じた。口の中がからからに乾いていたが、無理やりツバを流し込み、こっくりと頷く。


初出:2012年11月17日
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