もしもこのまま焦がれて死ねば/2


「だぁれ? こんな時間に。来るなら夕方にして頂戴、同伴出勤して頂戴、こちとら仕事明けで眠たいんだよ、コラァ!」

二人が護っていた神社はとうに潰れており、住まいは神社からほど近いボロアパートであった。顔を出したのは、みどりの黒髪に白い肌、うりざね顔に切れ長の瞳。スナックすまいるでも志村妙と人気を二分する売れっ子というのは伊達ではない美少女だが、口調はたいそうガラが悪かった。
その足許では、手の平に乗りそうなサイズの白犬が、キャンキャンと鳴いている。

「おい、アバズレ巫女、頼みがあるんだが」

「誰がアバズレだっ!」

「あれ、そういう名前じゃなかったっけ。えーと、確か、あ、ってついてたよね。あ、なんとかだったよね」

「そうそう、あ……」

「あ……パ?」

「どこの宿泊施設だっ!」

「あれ、違った? じゃあ、ア……ピ? アポ?」

「いいから、パ行から離れろっ!」

「パ行でなかったら、バ行? オネーさん、腐女子?」

「誰がっ! しまいにケツにビール瓶叩き込むぞっ!」

「冗談冗談。思い出した。阿音ちゃんだよね。おねーちゃんだからアネちゃんって覚えてた」

「覚えてないだろ、まるっと忘れてただろ、今……まぁ、いいわ。立ち話もなんだから、あがってあがって。こら狛子、吠えるんじゃありません」

銀時が「悪いねぇ」などと言いながら敷居をまたごうとしたところで、身体が何かに阻まれた。何も無い空間のはずが、空気がねっとりと重く、水圧にも似た抵抗感を感じる。

「ちょっ、ナニこれ、やだコレ。ATフィールド?」

「坂田さんのお身体に、何か霊障が」

そう言ったのは、部屋の奥からのっそりと這い出してきた女であった。

「ああ、妹の……ええと、ジェガソさんだっけ?」

「どんな名前? 誰が連邦スーツモビル量産型?」

「違った? ジムでもないし」

「百音です」

「モネ? あれ、ネモじゃなく?」

「ネモはエヴーコの量産型スーツモビルです」

双子なのだから同じ顔をしている筈なのだが、こちらはずいぶんとおっとりした印象を与える。飼い犬の鳴き声に眠りを妨げられたのだろう、着崩れた寝巻き姿の袖口で寝ぼけ眼をこすっている。

「霊障ってか、うんまぁ、ホントに憑いてるわけなんだけど」

それを聞いた阿音が割り込んで「オイ、うちは龍穴を祭る神聖な神社であって、拝み屋じゃねぇぞ。霊魂の供養なら、別料金とるぞ」と凄んだが、百音は玄関の下駄箱の上に置いてあった、宅配の受け取り用に使っているのであろう判子を取り上げると、やおら銀時の額にポンと押した。

「ちょっ?!」

額が熱い。続いて湧き上がった、心臓を掴んで掻き回すような感触に、思わず膝をつく。百音が銀時の襟首を掴んで室内に引き入れようとしたが腕力が足りず、阿音が舌打ちしながら手を添えてやった。銀時の巨躯が三和土に転がり込む。

「あ……れ? 苦しくねぇ」

喉元に手をやった銀時が、首を捻る。振り向くと、敷居の向こうに白いもやのようなものが浮いていた。狛子は銀時ではなく、その白いもやを睨み付けながら、低く唸っている。

「あれは、女の霊魂ですね」

「あ、ああ。レイっていう娘で、仙望郷で働いてる従業員なんだがよ」

もやは、何度か室内に流れ込もうとしては、見えない壁に弾き飛ばされているようだ。次第にその色が淡くなっていく。

「放っておけば、あのまま消耗して消えそうだわね」

阿音はそう言って、居間に戻るとコタツに足をもぞもぞと突っ込む。室内には着替えだの雑誌だのコンビニ弁当の容器やスナック菓子の袋が散乱して、とてもここが結界を張られた聖域には見えないが、窓や玄関扉の内側には一応、五芒星を描いた札が貼られているようだ。

「それだと成仏できねぇんだろ。その、ちゃんと望みをかなえてやらねぇと」

「どうせ色霊でしょ? 生きてても死んでても女なんてぇもんは蝿ね。適当にウジにでも転生するんじゃない?」

阿音はそう吐き捨てると、コタツの上に乗っていたミカンを手に取ると、皮を剥き始める。

「それだと、その、ちぃとアイツが可哀想じゃねぇ?」

「アンタの頼みって、要するにアレをなんとかしてくれ、でしょ? 分離できた上に、消滅させられるんだから、別にいいじゃん」

「いえ、事はそう簡単にはいかないようですわよ、姉様」

百音の声は相変わらずのんびりしていたが、振り向いた阿音は唖然と口を開いてしまった。ぽろりとミカンの実が落ちる。
もやが薄れたように見えたのは、その色を変えたからであったようだ。玄関向こうには、漆黒の渦のようなものがわだかまって徐々にその大きさを増している。玄関扉に張られている護符が、びりびりと音を立てて震えていた。狛子が再び、狂ったようにキャンキャンと鳴き喚く。





「これは別料金だからな」

メモ用紙にチラシやレシートの裏、しまいには雑誌のページをちぎったものまで、ありったけの紙片に筆で五芒星だの梵字だのを書き殴りながら、阿音が毒づく。

「おめーらが俺らに押し付けた定春……神子、だっけ? ソイツのメシ代で、我が家の家計は大いに圧迫されてるんだぜ。一食でドックフードどんだけ食うと思ってるんだ。まるで、日々おめーらに貢いでるようなもんじゃねぇか。これぐれぇサービスしろ」

万事屋の巨大マスコット犬、定春こと神子と、ここにいる狛子はサイズこそ段違いだが、兄弟にして対をなす神獣なのだ。

「冗談じゃないわよ。一度、こっちで引き取ろうかって言ったら、アンタんとこで飼うからいいって言ったじゃないか。それでチャラだよ!」

「ひでぇ!」

「ひでぇはこっちの台詞だ。寝不足で目にクマが出来て出勤できなかったら、その分の休業補償も請求するからな」

「アバズレのうえに銭ゲバかよ。最悪だな」

百音は書きあがった即席のお札を、扉の裏側に次々に貼り付ける。だが、百音の手を離れた札は、一枚、また一枚とちりちりと焦げて剥がれ落ちていく。

「姉様、きりがありませんね。もう、紙といえばトイレットペーパーぐらいですが、これも残り一ロールしかありません」

「ちっ。だから、こないだの特売で買い占めて来いって言ったんだ。どうしたもんかね。そもそも、なんだってアンタがアレに憑かれたのか、ちゃんと聞いてないんだけど」

「なんでって言われてもねぇ。つまり、銀さん愛されちゃってさぁ。モテる男はつらいってヤツ?」

「ヲイ、ここから叩き出そうか?」

「スミマセン。調子に乗りました。勘弁してください、助けてください。お願いします」

阿音に凄まれ、銀時がたじろいで土下座した。なにせ、レイがこれだけの怨霊とは思わなかった。自分を恨めし気に呼ぶ声、扉を叩く音が恐怖を煽り立てる。
その銀時の頭に、ぽふんと何か生温かいものが乗せられた。しかも、じとっと湿っぽく獣臭い。

「そのままね。狛子もじっとしてるのよ」

そう告げたのは百音だった。
このアマ、ひとの頭に犬載っけやがった……と、ムカっ腹が立つが、ここはおとなしく従うしかなさそうだ。

「狛子は守護を司っています。狛子を乗せてる限り、坂田さんの身は霊から守られます」

「だからって、なんで頭? 俺がコイツをだっこしてたらダメなの?」

「狛子の踏み締めている地こそが、聖地なの」

妹の決断に、阿音は「やれやれ。もう少し堪えてりゃ、勝手に相手が自然消滅しそうなものを」とケチをつけたが、即席のお札にできそうな紙切れはもうほとんど……少なくともこの消耗戦に勝ち抜けるほどには残っていなかった。

「開けますわよ、姉様」

百音がそう言うと、辛うじて残っていた最後のインスタントお札を、自らの手で剥がした。冷たい夜風と共に、何物かが室内に流れ込んでくる。一瞬、膨大な量の幻覚が見えた気がして、意識が遠のきかける。

「気を確かに。霊に乗っ取られたくなけりゃね」

阿音がそう囁くと、銀時の腿をつねった。






村の唯一の医術者にして導師である老婆は、その娘の身体を診察した後、重々しく言ったものだ。

「これは祟りだね」

まだ幼い少女の胸元に浮かび上がった、ドス黒いイボのような肉腫。それは歳を経るごとに人間の顔かたちを思わせる形に膨らみ、歪み、時に激しく痛んだ。何度か、外科的に切り取って処置しようとしたが、傷口が塞がる頃には再び、肉が盛り上がってきた。

「きっと、この子を生かしておけば、この祟りが村全体を被うだろう」

何が祟っているのか、そもそも何故、この娘が選ばれたのかは、導師にも説明できなかった。その代わりに、娘を手放す悲しみにくれる両親に、慰みとして「この子は村を救うのだよ。一身に祟りを引き受けてくれるのだから」などという絵空言を繰り返し、語り聞かせてやったものだ。
だから、珍しく山を降りて城下町を見物させてやろうと連れ出され、そして間もなくはぐれた時には、捨てられた悲しみや裏切られた口惜しさよりもむしろ、自分という重荷を捨ててホッとしたであろう両親への労いに似たものを感じていた。自分はどうせ、祟り殺されるか、あるいは祟りを恐れる村人によって嬲り殺されるかする運命だったのだ。ならば、この両親の選択は「せめて命だけは」という苦渋の決断だったに違いない。

「おなか、すいたね」

呪われた子として避けられていたので、友達といえるのはその元凶である筈の、己が胸の人面疽だけであった。人面疽が『そこに食べ物がいっぱいあるじゃないか』と答えた。いや、答えたような気がした。

「あれは売り物だよ。勝手に食べたら、怒られるよ」

『売り子の婆ぁ、杖ついてるな。オマエさんよか足が遅いに決まってる』

一日二日は我慢できた。三日目にはそのアドバイスに従う気にもなったが、いざ店先に出ると盗みを働く勇気が出なかった。空腹と絶望感に押し潰され、うずくまって泣いているところで、たまたま通りがかったのが、仙望郷の女将、お岩であった。



そして、数年後、その肉腫の毒が全身に回って死んだ少女の魂は、レイと名付けられた。



「なるほどね。そんで、一度は成仏しかかったっていうのに、また舞い戻って来たってわけだ。因業な娘だね。まぁ、そんな小っこい頃に鄙びた旅館に引き取られて、恋をするヒマもなく働いて死んだんじゃ、現世に未練もできるのかもしれないけど」

阿音はそう呟くと、台所から持って来た塩……を切らしていたので代用品の『味な素』を、パラパラと手の平に盛った。これに念を込めた後、百音が奏でる笛のメロディに合わせて撒くことで、除霊は完成する筈であった。

「そうよ。恋だの愛だのセックスだの、穢れに過ぎませんわ。キレイな身体のまま成仏できるというのは、素晴らしいことですよ。姉様はもう手後れですけど」

「ちょっ、おまっ、手後れとか言うな! その稼ぎのおかげで、オマエも三度の飯が食えてるんだろうがっ! いいから、さっさとそのリコーダー吹けっ!」

「ええ、吹きます、吹きますけど。その祟りの本体は一体、どこに行ったのかしら?」

「そんなのはどうでもいいよ、これ以上睡眠時間が削られたら、ホントに明日出勤できない」

阿音がそう罵りながら『味な素』に片手をかざしていた。だが、百音の口はぽかんと開いて、笛を鳴らすことができなかった。百音の視線の先を辿って、阿音は舌打ちをした。
だから、霊体を招き入れて、その言い分を聞く前に、問答無用で消滅させてしまえば良かったんだ。化けて出るほどの事情があって、しかも若くして亡くなったのなら、その身の上話は同情に値するほど不幸に決まっている。

「狛子を乗せてる限り、坂田さんの身は霊から守られますと言った筈ですよ?」

百音が残念そうにそう告げる。銀時は、頭に乗せていた狛子を床に下ろしていた。

「その、俺ァ、なんとかアイツに気分よく成仏してもらいてぇだけだし、本人の意思を無視して、ただ消してしまうってぇのも、なんか気の毒だし」

「そうじゃなくて、アンタ、この女が元は捨て子だってところに同情したんじゃないの? アンタも、似たような境遇だったらしいじゃないの」

阿音のツッコみに、銀時はぐっと詰まった。確かに、銀時自身も天涯孤独の身であるところを、松陽に拾われたのだ。それに幼いレイが『呪われた子』という扱いを受けていたことも、鬼の子として恐れられ忌み嫌われていた銀時の過去を彷彿とさせる。

「まぁ、その。多少はそういう要素もあるかもしれねぇが、ちょっと待て。俺ァ、オメェら相手に、身の上話なんてした覚えはねぇぞ?」

「霊から聞いた、とでも言うべきかしら?」

『アタイは話していないが、さっき、ギンの身体を借りた時に、意識の一部が混ざり込んでしまった可能性は否定しない。それを、そこのアバズレ巫女が読み取ったのだろう』

そう口走ったのは、百音だった。阿音がギョッとして妹の身体を揺さぶろうとしたが、バチッと音がしてはじき返された。狛子が主人の姿とその気配のギャップに混乱したのか、吠えるべきか吠えざるべきかと、低く唸りながら落ち着きなくうろつき回る。

『そちらの女は、霊エネルギー的には申し分ない資質だったが、穢れていたので使えなかった』

「穢れてて悪かったな。ニートの妹と犬一匹を食わしていくだけじゃなくて、神社復興させるための資金を稼ぐのに、手段なんて選んでられないんだよ。皆、汚れながら泥水這い回って生きてんだよ、キレイなままでなんて要られないんだよ……って、まさかテメェ!?」

『ギン、この身体でなら、うまくいきそうだ。少なからず、アンタに好意を持ってるようだし。ねぇ、アタシを成仏させてくれないか?』

レイの声で囁きながら、百音が寝巻きの衿をぐっと押し広げる。愛らしいサイズの乳がまろび出て、ぽよんと弾んだ。真っ白い羽二重餅のような肌の先端の小さな果実は、透き通るような淡い桜色だ。

「ちょっ、うわ、そのっ……マジで? 巫女さんで、処女で、しかも据え膳って、それなんてエロゲぇ!?」

思わぬ急展開に鼻血を吹きそうな銀時の後頭部を、阿音が渾身の力で回し蹴りにした。

「てめっ、うちの妹に何しくさるんだっ! 大体、コイツまで処女じゃなくなったら、うちの神社、どうやって復興させるんだよっ!」

「コイツまで、って、オネーサン、中古っすか」

「うるせぇっ! アタシはいいんだよ、中古でも何でも、どうせリサイクルするんだから。生活費稼がなくちゃだし、そのうち金持ち捉まえて婿養子に据えて、後継ぎ産むんだから。時代はエコなのよ、エコ」

レイと相性のいい女にとり憑いてもらって、一発ヤれば……というのは確かに当初の計画通りなのだが「なんでそんな雑魚スタンド相手に、うちの巫女を差し出さなきゃいけないんだ」という阿音の怒りも、もっともだ。
だったら、一体、どうしろというのか。

『ねぇ、ギン。身体が熱いの。もう、おだいじがグショ濡れなの』

百音がしなだれかかろうとするところで、阿音が妹のリコーダーを取り上げて、それで力一杯殴りかかった。その衝撃で、百音の鼻の穴から白い大きな塊が転げ落ちた。銀時が唖然として見守っていると、そのぴくぴくと蠢く塊には顔が浮かび上がり『ギン、痛いよ、ギン』と喚き始める。
狛子がその塊を遠巻きにしながら、やたらと威勢良く吠えかかった。

「ふん、巫女なめんな」

「痛いですわ、姉様」

その衝撃で鼻血を吹いた百音が、ハンカチを鼻に当てながら涙目で姉に抗議する。

「破瓜の痛みはそんなもんじゃないし、神社復興の望みを失ったら、痛みどころじゃないのよ。感謝なさい」

百音は不満そうにブー垂れていたが、ふと己の格好に気付いて慌てて後ろを向き、もじもじと服を直し始めた。黒髪の間からのぞく真っ白いうなじにまで、恥じらいの色が差しているのが、なんともいじらしい。しかも(レイの言葉を信じるのなら)彼女は銀時に少なからぬ好意を抱いており、しかも処女の肉体は、未知の経験への期待に火照って、しとどに濡れている筈なのだ。
ここに中古女さえ同席していなければ、レイの件をさておいても、背後から手を回して抱きしめたくなるというか、胸乳を鷲掴みにしたくなるというか、思い切り押し倒して突き上げたくなるというか。そういえばこの娘とは、定春が暴走したのを鎮めようとした事件の折には、リコーダーで互いの二酸化炭素を交換しあった仲なのだ。
だが、銀時は敢えてそこをぐっと堪え、理性を総動員して、目を背けた。

「巻き込んで済まねぇ。なんかいい方法が他にねぇか、考える」

「そうだな。スタンドについては陰陽師の方が得意だろうから、巳厘野(しりの)家あたりに紹介状を書いてやってもいいが……あいつらのやり方も、結局は護符で封じる形だからね。納得いく方法を探してみるといいさ。ちょっと胸を出しな。そう、衿を開いて」

阿音はそういうと、狛子がくわえてオモチャにし始めた白い塊を、その牙から取り返した。まだ微かにぴくぴくと蠢いているそれを、銀時の胸元にぴしゃりと叩きつける。

「んなっ!?」

「とりあえず元に戻しておいた。これだけ弱っていたら、意識を乗っ取るような真似をすることはないだろう」

阿音が手をひくと、レイであった白い塊はいなくなっており、代わりに銀時の胸元には、小さなイボがいくつか出来ていた。そのイボの配列は、どこか人面を思わせる。いや、銀時にはそれがレイそのものであることが、体感で分かった。

「すまねぇ、世話になったな」

銀時が立ち上がって、部屋を出ようとする。その背中に「あの」と消え入りそうな声で百音が声をかけた。

「これを……もし、その霊が回復して暴走しそうになったら、これを振りかけるといいです」

茹蛸のような顔からは今にも湯気が立ち上りそうだが、好意を持っていると暴露された上に、あられもない裸まで見られたのだから、それは仕方がないだろう。震える生娘の手で差し出されたものは、赤いキャップの『味な素』の小瓶であった。




アパートを出ると東の空がほんのりと明るい。朝になったら幽霊は消えるのじゃないかと一瞬期待したが、よく考えたら、レイはあの温泉宿で昼日中にも出没していたっけ。
徐々に陽光が強まり、目覚めた街が活動を始める。冷たい朝の空気と行き交う人の喧騒は爽やかだが、糖尿病寸前の低血糖と低血圧が持病の銀時にとっては、なんとも苦痛な時間帯だ。 いや、それだけが理由ではなさそうだ。レイが貼り付いている胸元が妙にしくしくと痛み、そこから全身に気だるい感覚が広がっていく。

「なぁ、これからどうしたもんかな」

『アタイは、もうずっとこのままでもいいかも、って気分になってきた』

「ちょ、勘弁しろや」

ふと、百音が「その祟りの本体は一体、どこに行ったのかしら?」などと口走っていたことを、思い出す。もしかしたら人面疽はレイそのものだったのかもしれないし、レイも同様に誰かに好かれて取り憑かれていたのかもしれない。

「何か、考えなくちゃな」

だが、身体が妙に重たく、頭がうまく働かない。地球の重力が急に、数倍になってしまったように感じられた。だが、往来の真ん真ん中で倒れる訳にもいくめぇと、気力を振り絞って這うように前へ進む。せめて公園のベンチまでと思っていたが、その手前、入り口あたりで力尽きた。敷地を囲むブロックに尻を乗せ、うずくまる。

「誰か……あ、ちくしょう。携帯忘れた」

忘れたというよりは、芙蓉のライトニングボルトから逃げ出すのに必死で、着の身着のままだった、という方が正しい。ともあれ、携帯さえあれば、誰かに迎えに来て貰えるんだがな、と銀時はぼんやりと考える。
せめて、あのアバズレ巫女のとこで何か食べさせてもらえば良かった。血糖値が下がり過ぎて、めまいがするうえに、手指が震え始めていた。手から『味な素』の小瓶が滑り落ちる。

「おい、落としたぜ? どうした具合でも悪いのか、爺さん」

誰かが立ち止まって、その小瓶を拾い上げ、そう呼び掛けた。誰が爺さんだと怒鳴り返すことすら出来なかった。だが、相手側ですぐ間違いに気付いたらしい。

「なんだってテメェ、そんな爺むさい法被着てるんだ。見間違えたじゃねぇか、万事屋」

そう言って、銀時の肩を掴んだのは、夜勤帰りの土方十四郎であった。


初出:09年12月08日
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