原作12巻収録104話作中からの単発ネタ。 他作品同様、稲×八前提です。予めご了承ください。
罌粟花
泥んこ豚牧場の見学からの帰り道。自動車の後部座席に並んで座っていた多摩子がふと思い出したように「せっかく兄さんと逢う機会があったのに、何も話はしなかったの?」と(さすがに御影に配慮したのか、コッソリと)八軒に耳打ちした。どうせならピザ作りをもう一度やりたいと、夢と希望に胸膨らませていた八軒だったが、それを聞いて「あ」と小さく呟くと、絞り出すように「別に……ほら、豚のほうに夢中になってたからサ」と返した。
「あら、そう?」
多摩子は、その返事に納得したのかしていないのか、いつものポーカーフェイスだった。
実際には『勉強をみてやってるカノジョとは、どうなんだ?』と、放牧豚を眺めながらポソッと稲田に尋ねられ、質問の意図とは違うと分かっていながら、つい、とっさに『順調です。おかげさまで、推薦でいくことになりましたし』と答えていた。そうじゃなくて、と追いすがってもらうことを、無意識に期待したのかもしれない。だが、稲田は『そっか』と呟いたきり、それ以上の会話は続かなかった。違うんです、御影とは何もないんです、親父さんとの約束もあるから、本当に勉強をみているだけなんです、と大声で弁解したくなったが、泥んこの子豚へ視線を向けているらしい稲田の横顔に、何も言えなくなってしまった。
先輩こそどうなんですか、もう何カ月も会ってなかったけど、彼女できたんですか、居ないわけないですよね、男前だし優しいし、とっくに恋人いるんでしょう?
『あの、先輩』
その次の言葉が出てくる前に、大川が割り込んで八軒の肩を肘置きにする形で寄りかかり『おーい。社長は腹へったぞ。稲田、メシ』などとのんきに言い放つ。その瞬間の、稲田の顔を見ることは、八軒にはできなかった。
ビジネス、ビジネスのためだから……と自分に言い聞かせて、さっきのやりとりは無かったことにした。稲田からも、それ以上は何も追求されなかったし、態度が変わることもなかった。でも、それでも。
「どうした、八軒? 顔色悪りーぞ? 今日の視察、疲れたか?」
運転中の大川に、ルームミラー越しに声をかけられ、八軒は我に返る。いつもは聡い多摩子も、今回は斬新な経営スタイルを目の当たりにしてそれなりにはしゃいでいたのか、その大川の言葉を耳にして初めて、八軒の容態に気付いた様子だった。
「あらやだ。御影さんの勉強は、今日はアタシがみといてあげるわ。アンタ、たまには少し休みなさい」
「んじゃ、俺、八軒を送ってくわ」
「お願いね」
なぜか勝手に交渉成立(?)したらしく、八軒以外は駅前でクルマを降りてしまい、大川は八軒のアパートまでノコノコとついてきた。挙げ句に部屋の前で大家に目撃されて「前のクルマ、いつものカレのかい? くれぐれも部屋を爆発させないでくれよ」などと、冷やかされる。
「もう、いい加減に許してほしいのに。顔見るたんびに言われるんですよ、ほら、カセットコンロ爆発させたヤツ」
ぺたりと床に座り込んだ八軒が半べそでボヤくと、その元凶である大川本人に「田舎の人間は、あんなもんだべ。一度噂が立ったら、ひつっこいんだよなぁ。それに初日だもん、インパクトあったんだべさ」と、慰められてしまった。
「そういうもんですかね」
「そそそ。まだマシっしょ。俺なんて家じゃ、ふたことめには無職無職って罵られるんだぜ?」
笑いながら手を差し伸べて来た。いつもなら、そのまま犬猫のように無造作に頭といわず体と言わず撫で回されるのだが、なぜか、八軒はビクッと身体を引いて避けてしまった。空振りした手を宙に置いたままの大川と、自分のリアクションに驚いて目を丸くしている八軒は、数秒、見つめ合う形になった。
「どうした?」
「え……わ、分かりません。でも、なんか、ビックリして」
それ以上はお互いに言葉が出ず、大川は「ちょっと、ションベン」と呟いて部屋を出てしまい、八軒はそのまま自分の肩を抱くようにして固まっていた。鼓動がやけに早くて息苦しく、暑くもないのにジワッと妙な脂汗が浮いてくる。やがて、ジーンズのベルトを締め直しながら戻って来た大川が「ホントに調子悪そうだな、オマエ。大丈夫か?」と訝りながら、クッションフロアの床に直接腰を下ろし、あぐらをかいた。
「すんません。牧場は楽しかったし、成果はあったと思うんですけどね。やりたいことも見つかったし」
「まぁな。楽しいから疲れない、ってモンでもないしな」
再び大川が八軒の頭へ手を伸ばしてくるが、触れられた途端、その箇所がゾクッと粟立ったのが自覚できた。腕を見下ろすと、羽を毟った鶏の皮膚のようになっている。
「もしかして、稲田に何か言われたのか?」
「いえ、その。何も」
「何も言われなかったのか。それはそれでひでーな。元カレだろ?」
「元カレって……!」
「ちげーの?」
「大川先輩みたいに、世界が単純だったらいいのにな」
元カレって、もう「元」なのか。そもそも、つきあってたという訳でもなかったような気もする。長いこと会っていなかったが、代わりに(?)毎日のように大川が家にも学校にも入り浸って一緒にドタバタしていたから、寂しいと感じることもなかった。
「えーと。そうだな、依田でも呼ぶか」
微妙に気まずい雰囲気を察したのか、大川はそう言うと携帯電話を取り出した。相手は一応、進路対策に追われている三年生なのだが、ここで『毎日忙しいわけでもなし。どうせヒマしてるべさ』と勝手に決めつけるのは、大川自身のダメ経験則だ。
「ちょ、サラッと『呼ぶか』って、ここ、おれの部屋!」
「焼き肉はしねーよ。代わりに、依田になんかつまめるモン買って来てもらえばいいべ?」
「ああ、それなら爆発しない……って、だから、そういう論点じゃないっしょーが」
ブンむくれている八軒を尻目に、大川は携帯電話のアドレスを漁ると、通話ボタンを押した。
「ったく、しょーもない。そもそも間が持たないんだったら、とっとと帰りゃいいのに、なんで他人を呼び出すかなぁ。なんとかも食わないモンに巻き込まないでくださいよ」
ブツクサ言いながらも、大川の『先輩命令』には逆らえないのか、依田はレジ袋を提げて現れた。大川は依田のボヤきをスルーしながら、さっそく袋の中を覗き込み「ちぇ、発泡酒かよ。スーパードライが良かったな」などと、のんきに言い放つ。
「なァに贅沢こいてんすか。つーか、そもそもアンタも未成年っしょ」
「シレッと買って来た後輩に言われてもな……ナンダコレ、このめんこいの、オマエの趣味か?」
部屋の主である筈の八軒は、先輩ふたりに圧倒されて、壁際でちんまりとうずくまっている。
「いや。そのカクテルは、八軒の分」
「えっ? 俺、お酒なんて飲みませんよ」
露骨にイヤな顔をしている八軒の前に、可愛いイラストのついたピンク色の缶が置かれる。高校生がお酒なんて……と、ブツクサ言いながらも『断れない男』の本領を発揮してプルタブを開けるあたり、八軒も人付き合いがいい。つまみは、既製品のベーコンジャーキーとプロセスチーズだった。包装を剥きながら、大川が「こんぐらい、オマエ自分で作れねーの?」と絡み、依田は「俺は農業科です。そーいうのは食品科に頼んでください。つーか、文句あるなら食べなくていいです」と、打ち返す。じゃれている二人からやや離れてうずくまっている八軒は、繊維だらけで味の無い肉を噛んでは、カクテルを煽って「豚丼のベーコンは美味しかったよなぁ」などとボソボソ呟いていた。
その様子に気付いた大川が、不安そうに「なぁ。アレ、大丈夫かなぁ?」と尋ねたが、依田は「ああ、八軒? 絡み酒とか泣き上戸とか色々披露してから、コロッと寝るワ」と言い放って、平然としている。
「色々って?」
「抱きついて来たりとか、キスして来たりとか。普段イイ子ちゃんにしてるのって、結構ストレス溜まるみたいですよ。ちゃんと発散させてあげなくちゃダメじゃないですか」
「ハァ?」
「アレ? そういうつもりで、俺を呼んだんじゃないんですか?」
依田が訝しげに大川の顔を覗き込む。大川には、依田のいう「そういうつもり」が『どういうつもり』なのか、見当がつかなかった。多少のアルコールは、イマドキの高校生なら当たり前のレクリエーションだし、少なくとも大川は、依田なら自分よりも八軒の扱い方を心得ているだろうから、この場を和ませてくれるに違いない、という程度の浅い考えで呼び出したのだ。
「てっきり、よろしくヤってるもんだと思ってたんですけど、もしかして、まだなんですか?」
「え? まだって、アレ? っつーか、その、全く無いわけじゃ無いけど、でも」
「はぁ」
何やら思い当たったらしい大川が、顔を赤くしたり青くしたりしているのを尻目に、依田がちらりと八軒に視線を流す。
「あのな、八軒。大川先輩みたいなガサツなヤツ相手に遠慮する必要なんてないんだぞ? どうせ何言っても堪えないバカなんだから、気まずいとか傷つくとか、そーいうの一切気にしないで、言いたいことガンガン言えよ? とりあえず、ここは酔いの勢いでガツンと言っちゃえ、ガツンと」
「言いたいことなんて別に……特に無いです」
大川先輩には、何も無い。かといって、稲田先輩にも何と言いたかったのか、自分でも分からない。
「んだよ、大川先輩とケンカしたんじゃないのか?」
「ケンカなんかしてないです」
「そーかそーか。したっけ、ふたりで仲良くしとけよ」
「え、帰っちゃ、やだ」
八軒がとっさに、立ち上がろうとした依田のトレーナーの袖口を掴む。
「じゃあ、俺にどうしろと? それとも、欲しいのか?」
欲しい対象が何なのか、酔ったアタマでは思い当たらなかったが、深く考えることもできずに八軒は頷いていた。依田が「あちゃー」と小さく呟いて、正面に座り直す。八軒の視界がふっと暗くなり、唇に何かが触れ……「酒くせぇ」と呟く声が聞こえた。
目の前で起こった出来事に、大川は思わず酒を吹き出しそうになって口を手で押さえた。それが逆流したのか、今度は激しく咳き込んでしまう。
「やかましいなぁ……何してるんですか、アンタ」
「いや、ちょっと、酒が『変なところ』に入っただけ……つーか『何してるんですか』は、こっちのセリフだ」
ちなみに『変なところ』というのは『気道』のことである。呼吸をするための、人体に当たり前に存在する極めて正常な器官なのだが、なぜかこう呼ばれるのだ。手の甲で唇を拭いながら振り返った依田は、まだ目をトロンとさせている八軒を大川に押しやろうとした。
「ハイハイ。じゃあ、続きはどーぞ」
「続きって、その、えーと」
受け取るのを躊躇した大川の腕から、八軒の体が滑り落ち、ふにゃふにゃと床にわだかまる。
「大丈夫。俺、帰りますから。だって俺がいたら、ぶっちゃけヤりにくいっしょ。明日の部活に忘れずに来させてくれるんなら、別に詮索もしませんから……ああ、スキン無い? 俺、財布に常備してますから、1枚あげますよ」
「で、でもよ、八軒のやつ、オマエに『帰って欲しくない』って言ったんだろ?」
「アンタねぇ……だったら、そこで見とく?」
床に寝転がっている八軒の肩を掴んで、強引に仰向けにひっくり返す。目を閉じてはいるが、酔い潰れてしまったわけではないことぐらい、上ずっている呼吸でバレバレだ。紅潮しているその顔を見下ろしながら(大川先輩とモメたんじゃないんだったら、何があったんだろう)と、ぼんやり考える。大川先輩は包容力はあるかもしれないけど、如何せん大雑把だし無神経だしアホの子だから、どーせまた何か、余計なこと言ったんだろうな、多分。
腰を跨ぐように覆い被さると「えっ、ちょ、おまっ」と喚いている声が聞こえたが、無理矢理ふたりを引き剥がそうとする気配は無かった。それだけ激しく動揺しているのか、それほど必死になって守ろうという気概が無いだけなのか。後者だとすると、ちょっとコイツが可哀想だな。前髪をかきあげて……メガネが邪魔なので、外してやってから額に口づけると、八軒の腕が緩やかな動きで首に巻き付いてきた。
さらさらと指の間を通る髪の感触も、肌の匂いも『違う』と分かっていたが、目を閉じて敢えて気付かないふりをしていた。ほら、今俺、酔ってるからね。酔いの勢いってヤツだから……と、自分に言い訳をし続けながら、腹の上に或る体に己の手足を絡ませる。肩や胸に噛み付かれる痛みが、むしろ心地よい。促されるままに、軽く腰を浮かせた。中心が柔らかく揉みほぐされていく。
「あれ。飲み過ぎたかな、ちょっと、入れんのは無理かも。ただでさえ、オンナのよか狭いんだし、ローション無いし」
「えー…やだ。ここまでシてるんだから、最後まで頑張ってくださいよ」
鼻を鳴らし、じれて下半身をすりつけると「がっつくな、暑苦しい」と、ポコンと頭を叩かれた。目を開けると、そこにいるのは稲田ではなく、依田で。
「ったく……それとも、そこの出歯亀に代わってもらう?」
着衣のまま睦み合っていたせいか、依田は汗だくになっている。顎を伝う滴が滴って、八軒のはだけた胸にぽつりと垂れた。
「代わるとかトンデモナイこと、あっさりゆーな。つーか、その糞度胸を部活に生かせや」
「酒飲んで馬には乗れないでしょ」
「それもそーか。一応、馬も飲酒運転扱いになるもんな、確か」
そういえば、大川先輩居たんだっけ。依田の胸にしがみつくようにして八軒も体を起こし、依田の肩越しに恐る恐る大川の方をのぞく。最初は、座り込んで腰の辺りに何かを抱えているようにも見えたが、目をすがめると股間を握り込んでいるのだと分かった。
「うっわ、何おっぽり出してんですか、しかもおっ立てて。ドン引きますよ」
「うっせー。目の前でそんなことされてアンアン鳴かれたら、その……生理的にしゃーねぇだろ」
「ハイハイ、八軒。大川先輩に続き、シてもらっといで。うわぁ、服、ベタベタ……シャワー借りるわ」
「あの……もう一杯、貰います」
大川の表情が揺れたのに気付かないふりをして、八軒は服の乱れも直さずにアルミ缶のプルトップを開けた。酔いが醒めかけているせいか、アルコールの匂いで若干えづいたが、鼻を摘んで一気に煽った。車酔いに似た不快感が胸の辺りまでこみ上げて来たが、頭の奥が痺れるような感覚は思考回路をじんわりと鈍らせてくれた。
「えーと。八軒、怖くねーか?」
「大丈夫……です、多分」
「つーか、本当は稲田に抱いてもらいてーんじゃねーの?」
抱き取られながら尋ねられた言葉に、首をどっちに振ったのか自分でも覚えていないし、相手がその回答をどう受けとったのかも分からなかった。組み敷かれ、らしくない強引さで体を重ねてくるのに流され、八軒は引きずり込まれるように意識を手放した。
「大川先輩って、意外な属性あるんですねぇ」
酔い覚ましに温かいお茶を(勝手に)淹れながら、依田はけらけらと笑っていた。大川は、だらしくなく伸びきったスキンの口を縛ってティッシュに包み、ゴミ箱に放り込みながら「何が意外な属性だ」と、吐き捨てる。
「何ってNTRってヤツかな。寝取られ? 寝取り? どっちにしろ熱烈だったじゃん」
「まぁ、下手なAVよか、刺激的っちゃあ刺激的だった、かな?」
大川はちゃぶ台に載せられた湯のみをチラリと見たが、それに手を伸ばす前に服装を整えると、続いて押し入れから布団を引っ張り出し、その中に素っ裸のままの八軒を押し込んだ。なにしろ、室内にこもっている汗とアルコールの匂いを追い出そうと、窓を全開にしたうえに台所の換気扇もフルで回しているせいもあって、初夏とはいえ肌寒いぐらいだ。風邪でも引かれたら困る。
「ところで、お楽しみの最中に、八軒のケータイにメール来てたみたいだね。ロックかかってるから本文は見れないけど」
「どれ」
依田が差し出した端末を受け取ってパカッと開くと、チョイチョイとボタンを押してロック解除した。
「八軒のケータイの暗証番号、知ってんの?」
「いや。でも、前にこっそり試したら、御影の誕生日だったワ」
「マジで、御影の? キモっ」
ドン引いている依田を尻目にメールボックスを開けると、稲田からだった。大川はイラッとして、本文も読まずに削除する。携帯電話を畳んでちゃぶ台の上に載せながら「実は今日さ、視察先の牧場で、稲田に会ったんだよな。それから、アイツの様子、ちょっとヘンでさ」と、言葉を選びながら説明する。
「はーん。なるほどね。とっくにアンタに乗り換えたんだと思ってたんだけど、まだあの人のこと引きずってたんだ。で、メール、何て?」
依田は表情ひとつ変えず、マグカップを両手で包むようにしながら、お茶をすする。
「見てねーわ。どうせまたコイツを動揺させるよーなことでも書いてんだろ。つーかおまえ、そこまで分かってて、よく手ェ出せたな」
「だから、ちゃんとアンタに譲ったでしょ? それに、いつも酔いが醒めたら、ケロッと忘れてご機嫌だから、大丈夫」
大川は、ポカンと口を開けた。『何が大丈夫だというんだ』とか『いつの間にそんなことを知ったんだ』とか『過去にもこんなことをしたのか』とか、問い詰めたいことはいくつも頭の中を渦巻いていたが、結局ひとつも言葉にすることができなかった。かといって、そこでカッとして腕力に訴えることもできないのが、大川の大川たる所以だ。依田を『宇宙人でも見るかのような目』でしばらく眺めた後、ハァと大きく溜め息を吐いて、すっかりぬるくなった湯のみを口に運んだ。
「もしかして俺、八軒の邪魔してるんかな」
「そりゃそうでしょ。アンタ、さっさと馬に蹴られて死んできたら? 後輩に拾われて、おんぶに抱っこなんて人生、情けないったらない」
「おまっ、就職については確かに否定できねーけど、だからってそこまで言うか?」
「言いますよ。ただでさえ、お触り厳禁ってキッツい『縛り』付きの御影の将来を背負い込んでるのに、アンタの進路まで抱えてサ……でも、わざわざ会社立ち上げさせといて、今さら惚れた腫れたをこじらせて手を引くって訳にもいかないっしょ? せいぜい、八軒の負担が軽くなるようにしてあげなよ」
「てめーは保護者か……いや、保護者だったら、さっきみてーな事しねーか」
「ですね。まさか八軒越しに、アンタと間接キスするハメになるとは思わなかったけど」
「えっ? ああ、確かにそういうことになるのか? あれ、キスしてたっけか。全然覚えてねぇ!」
今さらのように唇を押さえて愕然としている大川を、依田がニヤニヤしながら見下ろす。ホントこの人ってば、からかうと面白いというか、カワイイな。八軒がついつい拾いたくなる気持ちも、分からないでもない。
「したっけ俺、先に帰ります。アンタはも少しここに居て、アルコール抜かんきゃないね」
「そういや、クルマで来たんだっけな、俺」
空き缶やつまみの袋を拾い集めて元通りにレジ袋に突っ込んで、依田が出て行った。嵐が去った後のような気分で、冷めてすっかり苦くなったお茶をチビチビ舐めていると、八軒が「うーん」と唸りながら伸びをして、布団から這い出してきた。
「ふぁあ、よく寝た……あれ、なんで俺、裸なんすか?」
「おお、すげぇ。本当にまるっとスッポ抜けるのな。依田が差し入れ持って来てくれたのとか、覚えてっか?」
八軒はキョトンとしながら首を振った。改めて己の体を見下ろし、うっすらと爪痕が残っているのを見つけて「これ、先輩が?」と尋ねる。
「えーと、多分」
いや、依田かな。だって、俺はそんな乱暴にした覚えが……でも無我夢中でブレーキ効いてなかった可能性もあるから、絶対とは言い切れないけど……などと、大川は頭を抱えたが、八軒は勝手にひとりで何やら納得したらしく、口元を緩めながら、その痕を指で撫でている。
「ごめんな。その、俺なんかで」
「いや、いいんです」
よくねーだろ、本当は稲田の方がいいんだろ。当て馬扱いなんてゴメンだぜ、と喚きたかったが、それを言って仲がこじれてしまえば、これから「ビジネス」を一緒にしていくことができなくなることは、なんとなく予想できた。依田が言った通り、自分が「今さら手を引く」わけにはいかないのだということも。
「そっか。おまえが楽になるんなら、俺はそれでいいわ」
八軒の尻ぺたをポンポンと叩いてやると「ぎゃ、えっち!」と、元気よく(?)喚きはするものの、さっきのような怯えた反応は見受けられなかった。
「そうだ。あとオマエ、もう依田と寝るのは、今後一切ナシな。他にもそーいう仲のヤツが居るんなら、そいつらも全部だ。そんな痕で良けりゃ、俺がナンボでもつけてやっから」
メガネをかけていそいそと服を着ていた八軒は、唐突な大川の言葉に「えっ」と虚を突かれた顔をしたが、身支度を終える頃には何やら思い当たったのか、ヘラッと笑って「依田先輩とは俺、そーいうんじゃないですよ。もしかして、大川先輩、ヤキモチ焼き?」と、顔を覗き込みながら尋ねてきた。そのこめかみに両手の拳を当てて「うぬぼれんな。肛門野郎」と、力任せにグリグリしてやる。
「痛ーい、ひどーい! ひとのお尻虐めといて、それはないっしょ!」
腕の中でびーびー喚いている八軒をおざなりに撫でてやりながら(ついでだから、稲田のアドレス、着信拒否設定にでもしとけば良かった)などと、大川はぼんやりと考える。
そういえば養豚関連の情報をくれるとか言ってたから、拒否はできないのか。いやいや、そんなもん俺を通せとビシッと言っておけば、済むことだよな。よし、今日はアルコールが抜けないとか言って泊めてもらって、コイツが寝てる間にコッソリ設定しておこう……そんなふうに余計な気を回してしまうことが、即ち『ヤキモチ』なのかもしれないけれども。
「……先輩? どうかしたの? 怖い顔して」
「いや、なんでもねーよ。それよか晩飯どーする? 腰ダルいだろうから、もうちょい寝とくか? 俺が何か作っちゃるわ」
それにほら。社長たるもの、部下の心身の管理も仕事の内だしな、うん……と、大川は己に言い聞かせていた。
このまま忘れさせてしまえばいい。それが、単にパンドラの箱の蓋を閉めたというだけの意味しか無かったとしても。
了
【後書き】八軒の二年の夏の章、放牧豚の見学のハナシの後日談を捏造。コンビニで立ち読みした時には、シレッと登場した稲田先輩のお姿に、サンデーを取り落としかける程に激しく動揺しましたとも……その勢いをかって『依田先輩絡めて3Pで!』とか考えたんですが、大川先輩がヘタれました。
タイトルはケシ科ケシ属に属する一年草、いわゆる「阿片ケシ」で、中国語表記に深い意味はなく、単に文字数調整のためです。花言葉は「怠惰、忘却」。北海道では自生している地域もあるとか。 |