原作10巻収録87話ラストからの単発ネタ。 他作品同様、稲×八前提です。予めご了承ください。
白詰草
内臓が裏返るような嘔吐の果ての朦朧とした意識の中で、軽く肩が揺すられた。
「大川先輩、目、覚めました? 大丈夫ですか? まさかホントにアレを一気食いするなんて……無茶ですよ」
「大丈夫に見えっか、これが。揺すんのやめれや、肛門野郎。気分ワリーべ」
「ああ、すいません。もう少し、寝てます?」
「いや、起きる。横になってても辛(こわ)いわ」
心配そうに眉を寄せる元凶の毒物制作者の実弟の手を借りて、上体を起こす。吐き過ぎで脱水でも起こしかけているのか、頭が軽くふらついた。
「……水」
「あ、はい。ポカリでいいですよね?」
「ポカリの方がいい。サンキュ。つーか、ここ、どこ? 病院……じゃねーよな?」
八軒の兄夫婦(というか、主に兄)製作のボルシチを食べたところまでは、覚えている。あとは救急車のサイレンと「コタンニ」と連呼される謎の呪文。
「細菌性の食中毒でも、毒を食べた訳でもないから、搬送しても手当しようがないだろうって、救急車は断ったんです、西川が」
眠っていた大川のために照明を控えめにしていたのだろう薄暗い室内に目をこらすと、そこが寮の一室だと知れた。据え付けの二段ベッドの下段で、八軒はその傍らに丸椅子を置いて座っていたようだ。
「まぁ、胃洗浄とか点滴とか、そこそこ高いしな。リア充皆殺しモードラクレットオーブンの部品代とかで結構カネ使っちまったから、かーちゃんに自分で払えって言われたら、軽く死ねる」
「そ、そうですね。おうちには、先生から、少し寝かせてから帰しますからって、連絡してもらってあります。俺らから言うよりも、説得力あるだろうし」
「そいつぁ、どーも。確かに、フラフラ出歩いて救急車で運ばれたなんてなったら、もう家から出してもらえなさそうだしな」
ペットボトルの水を啜って、ようやくひと心地ついた。
ふと、隣に視線をやって、八軒の両目が潤んでいるのに気付いた。
「ん? どった? 俺はもう大丈夫だから、おめぇは自分の部屋に戻れや」
最近はリア充っぷりが何かと神経を逆撫でするものの、やはり可愛い後輩であることに変わりはない。まだ胸がむかついているのをぐっと押さえて笑顔を作り、ぽんぽんと頭を軽く叩いてあやしてやると、わっと胸元に抱きついてきた。
「良かったぁ、死んじゃうかと思った。先輩、吐くだけ吐いたら、白目剥いて泡吹いてるし、ケイレンしてるし、救急車は断っちゃったし」
「ああ、うん、揺さぶるな。つーか、そんな状態だったら素直にもう一回通報してほしかったな、先輩は。あと、頼むから揺さぶるな。大切な事だから二回ゆーたが、揺さぶるな」
「吐いたのだって片付けなくちゃいけないだろうし、誰か様子見るのに付いてた方がいいと思って、でも皆、ほっといたらいいよって帰っちゃうし、西川なんて、このまま死んだら二次元に行くだけだからいいべとか、むちゃくちゃ言うし」
「鬼か」
胸元でしゃくり上げる振動が、まだ少しムカついている胸には辛かったが、だからといって突き放す気にもなれなかった。せめて泣き止ませようと、軽く背中を撫でさすってやる。
「心配かけて悪かったな。大丈夫、もう大丈夫だから」
「本当に?」
八軒が顔をあげた。至近距離で見つめ合う形になった途端に、大川の腹がきゅるると可愛らしく鳴った。
「お腹すきました? タフですね、先輩」
「ちげーぞ。吐いて胃が空になってるだけだから。食欲はまだねーや。口ン中、まだちょっと気持ちわりー。あの、この世のものとは思えない、苦いっつーか酸っぱいっつーかエグいっつーかなんとも言えない後味と、掃除してない公衆便所というか、発酵しきってない堆肥を思わせる鼻に抜ける生臭さと腐敗臭、そしてなぜかそれと相反する筈の焦げ臭さと有機溶剤を思わせる刺激臭が絶妙に絡み合った不快なが匂いが、まだ残ってる気がするわ。つーか、あれ何、生物兵器? ホントにボルシチ? 馬糞の方がまだ芳ばしいぞ」
「やめてください、聞いてるだけで胃液があがってきそうです」
「ああ、悪ィ」
「……そんな匂い、ちっとも残ってないのに」
大川の唇に鼻先を寄せて、ぽそりと八軒が呟いた。そんなもの嗅ぐな、とツッコもうとして、急に互いの肌の温もりや髪の匂い、腕の中の体の重みや質量が存在感を増して、大川を圧倒した。
「どうしました? 急に鼓動が早くなってるみたいですが。不整脈とか心不全って、食中毒の後遺症にありましたっけ?」
「ちっ、ちげーよ、お前のせいだろっ」
「俺のせいですか? 兄貴の料理下手は俺、関係ないですよ。そりゃ、身内っちゃ身内ですけど、俺、あの人とは話が通じないのに、ましてや責任なんて取れません」
そうじゃなくて、と言い募ろうとして間合いを誤った。ふにゃっという柔らかい感触に続いて、歯と歯がぶつかり合う衝撃に頭が痺れ、何がどうなっているのか把握できなくなって、お互い動けなくなってしまったのだ。再起動に十数秒はたっぷりかかった後「わわわわっ」「すっ、すみませんっ!」と、狼狽えながら離れる。
「わりぃ、その、御影にもゴメンよ」
「え? なんで御影?」
「えっ、だってお前、御影とつきあってんじゃん」
「だから、つきあってませんって、つきあったら親父さんに殺されちゃいますって。こんな情けない台詞、何回言わせるんですかっ」
双方、己の唇に片手の甲を当てた不自然な格好でじっと見つめ合う。
先にいつもの調子を取り戻したのは大川で「なんだ。じゃ、俺とつきあう?」とおちゃらけてみせた。一方の八軒は、まだそれに冗談で返せるだけの余裕もなく、反射的に大川のみぞおちに拳を突っ込んでいた。
ぐえっというカエルがつぶれたような声を漏らす大川を残して、八軒は部屋を飛び出した。
それから一週間後。
八軒は、友人らと行った氷祭りで、萌えキャラニコたんの氷像前に座り込み、廃人のようになっている大川を見つけた。
「先輩、こういうの好きでしたっけ?」
「……ボルシチ食ってから記憶がなくって」
ああ、そういえばあの後、西川がニコタンニコタンって囁きかけてたっけ、と思い出した。
「ネット通販サイトのおすすめ商品も一週間前までのとガラッと変わってんだけど、俺に何があったの?」
「ひっ……」
この調子では、その後のこともまるっと全部忘れているに違いない。
良かったと安堵する反面、申し訳なさがこみ上げてきたが、それについて何か言う前に、皆に滑り台の方へ行こうと促されてしまった。
そこで駒場に逢って、皆が各々思い思いの言葉をかけて。
「うちらも帰ろうか」
駒場を見送った御影がそう声をかけたが、八軒は反射的に「あ、先帰ってて」と返していた。
「え? どこか寄るの?」
「うん、ちょっと」
御影は小首をかしげながらも「じゃあ、こないだの宿題解いて待ってるから、帰ったらみてね」とあっさりと引き下がる。何かを察したらしい相川が「ちょっとって何? 僕つきあうよ、何か忘れ物?」と食い下がったが、必死で振り払った。
「西川君はいいの? 追いかけなくて」
「なんのハナシだ」
「それとも、西川君には二次元があるから、要らない?」
「ふっざけんな。テメーも小キックハメ殺しされてーか」
「おお怖」
相川はいつもの穏やかな表情を崩さずに、そそくさと西川から距離をとった。
「大川先輩、帰るんですよね。ちょっと、いいです?」
「帰りたくねーよぉ。家は針のむしろだぁ」
「そんなことおっしゃっても……じゃあ、少しだけ部室寄りましょう?」
部活以外の用途で部室を使うのは本来ルール違反だが、そこは副部長(と、元部長)権限というヤツだ。ギュッギュッと鳴る雪を踏み分けて部室に入る。
「ストーブ、つけます?」
「灯油残ってんなら。無かったら別にいらねーわ」
「少し残ってます」
ストーブの小窓を開け、マッチを擦って点火する。椅子を引き寄せてちろちろと炎の気配が立ち昇るのを眺め、マフラーを緩めて手袋を脱いだ素手をストーブにかざしながら「んで? 何の用?」と大川が尋ねた。
「ああ、なんか火を見てたら忘れかけてました」
「だよなー…火って不思議だよなー…俺もこのままボーッとしてる間に、就職とか決まればいいのになー…って思うわ。あと、リア充は燃え尽きて死ね」
「そう、それなんですけど」
「どれ」
「その、リア充っての。俺、別にリア充じゃないです」
「は? なにお前、わざわざ人呼び出して言うことに事欠いてその話題? 毎日のように机並べてお勉強して一蓮托生の運命共同体しといて、リア充じゃないって、どういうことよ? ケンカ売ってんの?」
「売ってませんよ。俺、販売とか苦手ですもん。あのソーセージだって、どんだけドキドキしながら豚肉を食らう会出したと思ってんですか」
「知るか!」
思いがけず怒鳴り合いになり、思わず涙目になってしまった後輩を見て、大川の方が折れた。
「大声あげて悪かった」と囁くと、ふわっと八軒の頭に手を乗せた。八軒は一瞬、ビクッと身をすくめたが、撫でられたのだと気付いて「ふ、ふぇ…っ」と、気の抜けた声を漏らす。
「それで、こないだ、俺、その話をして、先輩をどついちゃって、それで、それだけじゃなくて……その、覚えてないだろうけど、色々謝らなくちゃなって思って、それで、今日、その」
「は? オマエ、先輩であるこの俺様をどついたの?」
もう一度、大川がなにげなく右手を振り上げると、八軒は頭を抱えながら「すっ、すんません、すんません、すんません!」と喚いた。
「やめた。ホントに全然覚えてねーし……じゃ、これでチャラな?」
怯えている八軒の頭に、柔らかくぽふんと右手を落とした。
「本当に覚えてないんですね。その……俺とつき合う? って言ったのも、全部」
「なんだそりゃ?」
「先輩が言ったんですよ」
「言う訳ないだろ、俺にはニコたんが……あれ? ニコたん? なんでニコたん?」
「多分、先輩が記憶を無くしてる間に、西川が洗脳した成果だと思います」
「……はぁ、でもいいや二次元で。二次元だったら、働かなくてもニコたんときゃっきゃウフフして暮らせるし。もう、このまま二次元に逝っちゃおうかな」
大川が生気なく呟いた姿にほだされたのか、八軒は思わず「ダメですよ!」と、声を強めて胸元にかきついていた。
「だって、二次元相手じゃ、こういうの、できないんですよ」
腕の中に包まれる質量をきっかけに、大川は既視感を覚えた。ちらちらと薄暗い室内の光景と、胸元に感じる体温や、首筋にかかる吐息の感触がフラッシュバックする。それと同時に、意識が吹き飛びそうなほど強烈なメシマズの悪夢と、コタンニこと萌えキャラ「ニコたん」の呪詛。
「なにオマエ、愛に溢れたハチケン君が、カワイソーな俺を哀れんでくれちゃってんの? そーいうの、余計に惨めじゃね?」
「そういうんじゃないですってば」
「だって、御影……」
「しつこい」
口を塞ぐように、強引に唇を重ねられた。大川は思いがけない反撃にギョッとしながらも、この感触すら初めてではないらしいことを、自分の体の反応で気付いていた。
そういや、御影の親父さんに手を出すなと釘を刺されてるんだっけな。だから、どんだけ長時間ふたりきりで居ても、付き合っていることにはなっていないし、キスのひとつもできずに悶々としているわけだ。イロイロと溜まってんのね、青少年。まぁ、性欲盛んなお年頃なのはお互い様だけど。
「んじゃ、ちょっとだけ付き合うか」
「……?」
改めて八軒を引き寄せて膝に座らせると、頭を抱えて口を吸った。舌を割り込ませると、思ったよりもあっさりと歯が緩む。少しくの間、ストーブの燃えるジ、ジ……という音と、ぴちゃぴちゃと舌が絡む音がやけに大きく耳に届く。やがて、ぱさりと、八軒のマフラーとジャンパーが床に落ちた。
「や……先輩、ちょっと待って、眼鏡外す」
「それくらい邪魔になんねーよ。それとも、これ以上してーの?」
片手を腰から下に滑らせると、熱を持っている胴体全体がびくびくと爆ぜるような反応を見せた。
「だって、こんな中途半端じゃ、やだ」
「そんなこと言ったってなぁ……俺、男相手ってケーケンねーよ? いや、女相手もねーけど」
「えー」
「えー、じゃねぇよ、だから日々コマメにリア充氏ねって言ってんだべや」
「でも」
でももダッテも糞もあるか……と突き放したいところだが、肩にもたれかかって切なそうに息を吐いているのをダイレクトに感じているうちに、なんとかしてやるか、という気分になってきた。少なくとも、俺から「付き合う」と約束したんだし。
「ホントにケーケンねーんだからな。痛かったらちゃんと言えよ?」
「えっ……ふえっ?」
大川が片手で八軒のベルトのバックルを外して、スラックスのジッパーを下ろす。確かに器用な人だとは分かっていたけど……とあっけにとられている間に、長い指がスルッとトランクスの間に滑り込んできた。
「で?」
西川がイライラとしながら、先を促した。
「そこでアッサリとイかされちゃって、やっぱオマエ肛門野郎だなって、なんかメチャクチャ笑われちゃって」
「ふーん?」
「なんであのひとあんなに器用なんだよぉ! 初めてだって言ってたくせに、ヘンに敏感なとこもすぐ見つけちゃうし、しまいに、女だったらこのテクニックでススキノでも売れっ子になるって手もあったのになぁ、なんて訳わかんないこと言い出すし……でも、とりあえずは二次元からは帰ってくるって言ってくれて」
「で、ご機嫌で帰ってきたってワケね」
「うん」
いかにもスッキリした様子の八軒に対し、西川はストレス最高潮状態なのだが、どうもその空気は今の八軒にはイマイチ伝わっていないようだ。
「大川先輩、ここんトコずっと拗ねてたから、機嫌直してくれて良かった。御影とのことも勉強を見てるだけで、付き合ってるってトコまでいってないって、ようやく理解してくれたし」
だったら、稲田先輩とのことは? とは、西川も敢えて聞かない。代わりに「俺のことは二次元から連れ戻そうとか、思ったりしねーの?」と聞いてみた。
「え? だって、西川、ニコたん萌えで、ニコたんが嫁なんだろ?」
「……まぁ、そうだけどな」
西川がいよいよ爆発しそうになったタイミングで、別府が「こないだのソーセージのB品の残り、まだあったよね? 小腹すいたから食べない?」と割り込んできた。
了
【後書き】長らく創作から離れていたので、リハビリ代わりに書き下ろしました。他の作品と一年ほど執筆日がズレています。設定に多少の揺らぎがあっても見逃してくださいませ。
タイトルはお馴染みの牧草、シロツメクサ(クローバー)。花言葉は「約束」「私を思って」。 |