色をも香をも
「あ」
ふと、声が漏れた。縁側を歩いていた時に、中庭を子猫が横切ったのが目についたのだ。
どこから迷い込んだのだろうか、いつも餌を強請りに来ている猫が子を産んだのだろうか。そういえばそろそろ、そんな季節なのかもしれない。すっかり春めいてきて……などとぼんやり考えながら、伊東鴨太郎がなにげなく足を止めた。だが、次の瞬間。
ぼすっ。
何かが力一杯、背中に突っ込んで来た。
「うおっ……!」
「だっ……すっ、すみませんっ!」
振り向くと、篠原進之進が額を押さえていた。いつものように影のように後ろを付き従って歩いていたのだが、伊東の急ブレーキに対応できなかったのだ。真っ黒い瞳が、己の失態に怯えたように伊東を見上げている。
「まさか、急に停まられるとは……いえ、申し訳ありません、自分が不注意でした」
悪いのはどう考えても伊東の方なのだが、篠原があまりにも必死にぺこぺこと頭を下げているため、どう対処していいのか分からなくなり、代わりに「まったくだよ。武士たるもの、常に臨機応変に状況に対応しなければならぬ。以後、気をつけたまえ」と吐き捨てた。視線を中庭に戻すが、子猫はいつの間にかいなくなっていた。
僕はあの子にミルクでもあげようかと思ったんだがね、篠原君がぶつかってきたのが悪いんだよと、腹の底で自分に言い訳をしながら、伊東は再び歩き出した。
先生、怒ってるのかな。篠原はしょんぼりと肩を落とした。
何をお考えになって急に立ち止まったのか見当もつかないけど、確かにちょっと、近くに寄りすぎていたのかもしれない。今度はぶつからないようにと、ゆっくり十拍数えてから、その背中を追い始める。だが,今度は離れすぎた気がして、気持ち小走りになる。いや、近づきすぎたかも、と慌てて足を緩めた。いやいや、やっぱりもう少し近い方が、ああ、でもこれじゃまたぶつかる……あれ、いつもどれぐらいの距離を保ってたんだっけ。三歩ぐらい? いや五歩? 歩調は完全にシンクロさせてたっけ、それともコンパスの差を勘案したら、先生が二歩半進んだら自分が三歩ぐらいの比率になるんじゃないかな。ということは、先生が五歩で自分が六歩のタイミング? そんなのいつも数えてたっけ? 同時に二人分カウントするのって難しくね? 俺、いつもこんな難しいことを考えながら歩いてたっけ? 足は右から出すんだっけ、左から? 腕はどうするんだっけ、歩くのってこんなに複雑な動作だっけ? 悩んでいるうちに、伊東の挙動に注意を払うのが疎かになっていたようだ。篠原がふと顔をあげると、視界が真っ黒だった。
あっと思う間もなく、顔面から伊東の背中に豪快に突っ込む。
「なっ……なんだというのだね、篠原君っ!」
ヒステリックな声が降ってくる。
「あ、あの、すみませんっ!」
「もういい」
伊東が片方をひらっと振った。その軌跡が燕が翻ったように美しかったため、篠原は一瞬、それが何を意味するのか理解できなかった。無意識に伊東の後を追おうとした篠原の頭上に「君は戻りたまえ。そもそも呼ばれたのは、僕だ。一人で行ってくる」という言葉が冷たく浴びせられた。
とぼとぼと参謀室に戻る。
入隊してしばらくの間は副長傘下の監察方に配属され、資料室を詰め所代わりにしていたのだが、つい最近、参謀付きの祐筆に異動した。人事の理由について、伊東は「他のヤツはどうも使えなくてね」としか答えてくれなかったが、つまりは伊東が自分を高く評価してくれた、ということだろう。それが誇らしくて、嬉しくて、たまらなかった筈なのに。
主の居ない部屋はがらんとして、柔らかい春の陽を浴びて尚、寒々しく感じた。篠原はそこにぺたんとへたり込む。
不意に、先ほど感じた伊東の背中の感触を思い出した。
官給品である隊服の上着は硬くごわついた生地の筈だが、ふわっと柔らかく包まれたように感じた。涼しげな整った顔立ちをしているために華奢なイメージがあるのだが、実際には武芸にも秀でているせいか、思ったよりも背中は広くて、しっかりと自分の体を受け止めてくれた。そういえば、ふわっと体臭が感じられたようで……体が触れる距離まで近づいたことは、今までになかったかもしれない……って、自分のバカバカ、それが原因で先生に叱られたというのに、何を考えているんだ。
「そ、そうだ、書類でも整理しながら、先生をお待ちしよう」
そのうちに落ち着くだろう、平常心、平常心……自分にそう言い聞かせながら、伊東の文机にいざり寄る。
だが、あっと思う間もなく、その膝が滑った。座布団が置いてあったのか、と気付いた時は、篠原はコケて文机に激突し、積み上げられていた書類がその衝撃で舞い上がる。何やってんだろう、俺……ぶつけた鼻先を覆っていた手を恐る恐る離し、鼻血が出ていないのを確認してから、のろのろと散らかした書類を拾い上げ始めた。
「なにやってんだ、おめぇ」
驚いて振り向くと、一番隊隊長、沖田総悟のまんまるい目が何の感情も浮かべずに篠原を見下ろしていた。
「庭の猫が増えたのかミーミー鳴いてうるせぇから、ちょいと罠でも仕掛けようかと思ってさ。ここ、猫の餌があったろイ」
「猫を虐めるのは、先生の本意じゃないと思うけど」
「なぁに、センセーだって、三味線ぐれぇ嗜みなさんだろ」
「三味線って、ちょっ……殺すの?」
「人間だって斬り殺すような仕事してんのに、猫ぐれぇ、今更なんでぇ」
そういうと沖田は室内をぐるっと見回し、勝手に違い棚のある茶箪笥を覗き込んだ。桐材を繊細に組んだ伊東好みの上品なつくりをしているが、下部の引き出しを開けると猫缶が隠すようにいくつも詰め込まれていた。
「じゃ、一個もらうぜ」
「えええっ、そんな困ります」
ただでさえ不興を買っているのに、これ以上先生の機嫌を損ねたくない。
だが、沖田はそんな篠原の困惑には頓着せず、さっと身を翻して部屋を出て行ってしまう。篠原は呆然としていたが、やがてその真っ黒な瞳から涙の雫がぽろぽろとこぼれ落ちた。しばらくして、隊服の袖口で頬を拭う。
こんなことが先ほどの失態の罪滅ぼしになるとも思えないけど……せめて、沖田に殺されてしまう前に、猫を助けなきゃ。
「あれ、伊東先生お一人ですか」
訪れた局長室には、局長の近藤勲だけでなく、自分とは犬猿の仲である筈の副長・土方十四郎まで居た。
なぜか、ふたりの前には円卓があり、いびつな形のケーキが載っている。
「篠原君も来ると思って、四等分したのに」
「近藤君、これは何だね?」
「ケーキですよ。伊東先生、ケーキはご存知ない? もしかしてご実家の常陸の国には、ケーキはございませんでしたか」
「いや、いくら田舎でもケーキぐらいあったわ。ケーキは見れば分かるが、何のケーキだね」
「何のって、苺ショートの?」
「そうじゃなくて」
「えーと。つまり、その、手作りしたんですよ。お妙さんにあげるホワイトデーの練習というか、予行演習で、よ。なかなかうまくできたから、是非、先生達にもご賞味頂こうと思って」
「やれやれ、毒味かね。そんなくだらない用事で僕をわざわざ呼びつけたのかね? それよりもホワイトデーというからには、バレンタインに何か貰えたのかね」
露骨に顔をしかめながら、伊東は懐から扇子を引っぱり出し、土方が憮然と吹かしている紫煙をパタパタと煽ぐ。 それでも立ち去らずに腰を下ろしたのは、一応は自分の上司に当たる近藤の面子を考えてのことだ。
「この人に限って、んなわきゃねーだろ。お返しもへったくれもあったもんじゃねぇ」
土方が、嫌がらせのように、伊東に向けて長々と煙を吐きながら、せせら笑った。近藤が、伊東を庇うようにそこに割り込み「トシ。贈り物とはお返しのためにあるんじゃないぞ。そもそも、プレゼントにそういう期待を抱くのは非常にさもしいことだぞ。愛とは常に惜しみなく与えるものだ」と、自説をぶち始める。
「なんか論点ズレてねーか? つーかそもそも、惜しみなく奪う、じゃなかったか?」
「奪うって、いや、奪ってみたいとは思うが、できるわけないだろ、そんなことしたら今度こそホントに、眼球デコピンされるだろ。いいんだ、俺は海のように深くしつこく粘っこく、夜に陰に影に絶え間なく、溢れんばかりに生温かい愛をお妙さんに注ぐんだ」
「海ってのは、いつの間にそんなヘドロみてぇなドロドロになったんだ。ああん? 近藤さんよぉ」
「いーやーん、トシのいーじーわるぅー!」
近藤と土方がじゃれているのを聞き流しながら、伊東はカットされたケーキを眺める。
近藤君は、僕と篠原君が一緒にいるのは当然だとでも考えていたのだろうか。確かに、ここに来る途中で二度も背中にぶつかるというアクシデントさえなければ、いつものように連れて来ていただろう。自分はずっと一人で生きてきたつもりなのに。
篠原がぶつかった背中の痛みはとうの昔に消えていたが、それでもまだ、何かぬくもりのようなものが残っている気がして、妙にむず痒かった。
これを篠原君にも食わせる予定だったのなら、携帯でも鳴らして、ここに呼ぼうか……と伊東は言いかけたが、なぜか気が引けて声が出なかった。代わりに「じゃあ、俺が頂きまさぁ」と、沖田が襖を足で蹴り開けて、局長室に乗り込んで来た。やおらケーキを一片、鷲掴みにする。
「うげ、甘ぇ……こんなん食わせたら、姐さん、ゴリラからブタに昇格しますぜ」
「なりませんっ、お妙さんは美の化身だから、ブタになんて誓ってなりませぇえんっ! つーかそもそもお妙さんはゴリラじゃねーし! いや、お妙さんがゴリラなら、俺も喜んで全力でゴリラになるけどね!」
「近藤さんは、もうとっくにゴリラでさぁ」
「だったらいいじゃん、ふたりでドリアン分かち合ってジャングルに愛を誓うもんね! でもむしろお妙さんは、ゴリラというよりは、俺をケツ毛ごと愛してくれる菩薩だし! 女神だし!」
「どーでもいい」
「それはそうと、それ、篠原君のケーキだったのに」
「その篠原なら、さっき、参謀室でベソかいてましたぜ」
指についたクリームを舐めながら、シレッと沖田が言い放った。それを聞いて、伊東がガラにもなく「はぁ?」と、頓狂な声を上げる。猫に気を取られて足を止めた己の責任を棚に上げて、カッとして追い返したのは確かにおとなげなかったが、なにも泣くほどのことだろうか?
ただでさえ不機嫌そうだった土方もそれを聞いて、さらに表情を険しくしながら「なんだ、てめぇ。せっかく不本意ながらも譲ってやったってぇのに、虐めてんのか。いらねぇなら返せ」と低い声で吐き捨てた。
「返せ、だと?」
「元々、監察方で重宝してたのを、てめぇの都合で引き抜いたんだろうが」
「何が元々だ、そもそもは、篠原君は僕の……」
そこで言葉が途切れた。
確かに北斗流の同門の出ではあるが、親友というほど肝胆相照らす仲ではなかったと思う。かといって、組を二分する参謀派のひとり、で片付けてしまえるほど疎でもない。
「しのは、おまえの、なんだ?」
伊東の動揺に気付いたのか、土方の唇の端が意地悪く吊り上がる。
しの、などと馴れ馴れしい呼び方をしてみせたのは、伊東に対する更なる揺さぶりだろう。
「トシ、よせ。せっかくだから、その篠原君も一緒に、ケーキでも囲んで親交を深めようと思ったのに、どうしてそう、ケンカを売るかなぁ」
「しのは関係ねぇだろ。そもそも、志村妙のケーキの試作品なんだろ」
「それはそれ、だよ。俺ァ、トシと先生には仲良くしてもらいてぇんだ。せっかく、篠原君という共通の友達がいるんだからよぉ」
『友達』という単語のニュアンスに違和感を覚えたのか、土方も伊東もそれぞれ首を傾げた。
「近藤さん、少なくとも土方さんの場合は『友達』じゃねぇですぜい。なんせ、しょっちゅうセクハラかましてたようですし」
沖田が茶々を入れると(それが図星か見当違いかは分からぬが)土方に全力でブン殴られた。
それに乗じて伊東が「なんだね、セクハラ? 君は篠原君に、そんな酷いことをしていたのかね」と、軽蔑を込めてなじる。
「んだよ。じゃあ、てめぇは、どうなんだ」
「僕は……」
自分は篠原に、手も触れたことがない。そんな邪念を抱いたことだってない。体が接触したのだって、先ほど、背中にその体を感じたぐらいで。
だが、それをもって己の潔白を主張することはできそうにない。そんなことを言い張っても、自分と篠原の結びつきの弱さを示すに過ぎず「だったら返せ」と反撃されるに違いなかった。伊東が言葉に詰まってしまい、だがそこで折れてしまうのはプライドが許さず、ただでさえ色白の顔を蒼白にして、やり場のない憤りに唇を震わせていると、その張りつめた気をブチ破るように「にゃあ」と、どこかで猫が鳴いた。
「ちょっと、失礼」
伊東が立ち上がり、襖を開けて縁側に出る。その背中に「逃げるのかよ」と土方が罵声を投げつけたが、三十六計逃げるに如かず。幸い、近藤が土方を諌めているようだ。今回ばかりは伊東もあえて挑発を無視した。
廊下では、篠原が先ほどの子猫を抱き上げていた。
「どうしたのだね、その子は」
「沖田さんが虐めようとしてたので、ついそこの庭先で、保護しました」
篠原がおどおどしながら、そう告げる。なぜか、その頬が紅潮していた。
「沖田君が? まぁ、彼ならやりかねないね。じゃあ、部屋でミルクでもやろうか」
先ほど土方に妙な絡まれ方をしたせいで、伊東も篠原に対してどことなく気まずさを覚えていたが、子猫の存在が緩衝剤の役目を果たしていたようだ。ややギクシャクとしながらも、二人は歩き出した。
「あ、あのっ……先生、自分が先生の後ろをついて歩くのは、ご迷惑ですか?」
篠原が思い詰めたように尋ねる。
「ああ、そうかもしれないね」
伊東はそう答えて、さらにしばらく考え込んでから「後ろじゃなく、僕の隣にいたまえ」と、続けた。彼との間柄は、それが一番相応しいような気がしたからだ。
はい、とうつむき加減で答えた篠原の腕の中で、子猫が小さくあくびをした。
(了)
【後書き】某SNSのお友達の日記に触発されて書いたSS。伊東と篠原のキャラがなんかいつもと違うような気がするのは、気のせい……ではないです。
タイトルは「君ならで誰にか見せむ 梅の花 色をも香をも知る人ぞ知る」(友則・古今集38) より引用……いや、タイトル考えるの苦手なんで、適当に。
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