Moon lighter


そういえばこないだは土用の丑の日だったんだな、と市中見回りをしていた近藤が言い出し、くわえ煙草の土方は苦笑した。

「あちこちで宣伝してたろうが。うちでもわざわざ、屯所のランチに鰻丼を出させたんだぜ?」

「食い忘れてた。トシは食ったのかよ」

「いや。俺は土方スペシャル一筋だ」

「なら、そこに新しく鰻屋ができた筈だから、行ってみようぜ」

「鰻屋?」

見れば「鰻」と染め抜いた小さな暖簾をぶら下げた竿が、路地から少し奥まった辺りに突き出ていた。食欲をそそる匂いもほのかに漂っている。

「昔さ、伊東先生があそこに鰻屋が無かったかとか言い出して、そん時には喫茶店だったからよ、先生みたいな人でも記憶違いするんだなぁと思ってよ……そしたら、そこに今更、鰻屋ができるなんて奇遇だなぁって」

「ふん。いけ好かねぇヤツの名前なんざ出しやがって。食欲が失せるじゃねぇか」

「まだ嫌ってるのか。死者に鞭打つのも酷だろうが。まぁ、不倶戴天の敵ってヤツだったもんな。じゃ、どこかよそで食うか?」

「店先まで来ておいて、よそで食うかも無いもんだ」

土方は憮然とした表情のまま、暖簾をくぐる。

「それに、俺も同じ記憶違いをしてたようだしよ」

「え? トシもか。面白そうだな。ハナシを聞かせてくれや」

「別に面白くもなんともねぇぜ」

店内を見回して、土方は眉をしかめる。その表情に気付いたのか、奥の厨房に居たねじり鉢巻姿のオヤジが「うちは丼にマヨネーズなんぞかけて食うような客は、お断りだぜ」と声をかけてきた。

「え? トシ、ここに来たことがあるのか?」

近藤がキョトンとして尋ねると、土方は「いや、まだ無ぇ」と答え、オヤジも「アレッ」という表情になる。

「そういえば、お客さん、ご新規さんでしたね」

照れ隠しなのだろう、掌底で己の額をぺちんと叩いたオヤジに、近藤が「どの客と勘違いしたんだね?」と尋ねる。

「へい。親子連れでしてね。今日び鰻も不漁で高いってぇご時世に、ちっこい娘さんとふたりして、罰当たりにも丼いっぱいにマヨネーズかけてたから、えらく印象的だったんだが」

「トシ、隠し子なんか居たのか」

「いねぇよ」

「それにしても良く似てたんですがね。世の中、よく似た人物が3人いるっていうヤツでしょうかね」

オヤジが首を傾げながらも水の入ったコップをテーブルに置き「鰻丼ふたつでよござんすね?」と注文をとる。

「ああ、それとマヨネーズ」

「アンタもですかイ。本当に別人ですか?」

いかにも訝しげなオヤジに、近藤が「その、トシの女房とやらは、どんな女性だったんだ?」と、興味津々で尋ねる。土方は露骨に嫌な顔をしたが、オヤジは腕組みをして視線を宙にやり、記憶をまさぐっている様子であった。

「そうですねぇ、奥方様と思われるのは淡い毛色のショートカット、小柄で線が細くて、どこか儚げな風情のご婦人でしたよ」

「ほほーう、儚げな風情ときましたか。いやはや、オヤジも詩人だなぁ」

「滅相もございません。ついでに言えば、もうひとりお連れしていたのは、お妾さんか妹御さんか。こちらは美人というよりは愛嬌のあるお顔立ちで、背丈は五尺五、六寸(約170cm)ありましたでしょうか」

「そいつはまた、恰幅の良い女だな」

「へい。ですからひょっとすると、殿方だったのかもしれません」

「なんと、妾まで連れてたのか。トシも隅に置けねぇな」

「だから、他人の空似だ。おい、オヤジ、灰皿出してくれ」

土方は煙草を揉み消すと、テーブルに届けられた鰻丼にニュルニュルとマヨネーズを搾り出す。

「でもよぉ、他人の空似だとしたら逢ってみてぇじゃねぇか。女の好みまで同じってんだから」

「は?」

土方は何が引っかかったのか、間抜けな声を出して固まってしまう。その間もボトルから垂れ落ちるマヨネーズが丼鉢から溢れて、テーブルにうず高く盛り上がった。

「だってそうだろがよ。淡い毛色のショートの髪で、小柄で線が細くて、どこか儚げな風情……ときたら、ミツバ殿を彷彿とするじゃねぇか」

「あぁ……そうか」

再起動してマヨネーズボトルをテーブルに置くと、ミツバか、と力無く呟く。

「そうかってなんだよ。違うのか? まぁ、それこそ他人の空似かもしれねぇがな」

「そうだな。他人の空似だ」

土方はそう決め付けると、こぼしたマヨネーズを箸で掬い取って丼に盛り付け、テーブルにへばりついている分はおしぼりで拭った。

「記念写真でも撮っておけば良かったっすねぇ。本当に旦那そのもののお姿で……連れていたお子さんがまた良く似ていて、実に愛らしくて。首からこう、鎖に指輪を通してぶら下げてましたね」

「ふん、そうかよ。何はともあれ、今度来たら、一枚余分に撮っておいてくれや。んな機会があるかどうかなんざ、知らねぇがな」

土方はそう言って面倒くさそうに話の接ぎ穂を封じると、鰻丼かマヨ丼か分からなくなっているシロモノをかっ喰らった。食べ終わるや否や、次の煙草に火をつける。






「土方さんっ!」

喚きながら副長室に乱入してきたのは、山崎だった。土方は珍しく部屋の掃除でもしていたのか、着流しの袖にたすきをかけた格好で、行李の中身を広げていたところであった。

「んだよ、どうしたよ」

「局長と鰻を食べたそうですね」

「ああ、土用の日に食い損ねたって、近藤さんが言うからよ」

「いや、局長が召し上がるのは構わないんですが」

「おめぇも食いたかったのか。んなもん、2000円か3000円出したら食えるだろ。勝手に食えや」

「そうじゃなくて。そこで妙な噂を聞いたそうですね。なんか、土方さんに奥さんと子供がいたって」

「単なる人違いだ……まったく、あのゴリラ、ロクなことを喋りやがらねぇ」

山崎から視線を逸らしたまま、土方はガラクタの中身を検分しながら、それぞれを行李とゴミ袋に放り込んでいく。何かをメモした紙くずやクリップなどの事務用品に紛れて、食玩らしい玩具や誰かのお土産品と思しきものもある。山崎はため息をついて、土方の隣にしゃがみ込んだ。

「手伝いましょうか?」

「私物だから触るな」

「そうは言っても……それ片付くまで、俺の話聞いてくれそうにないし」

「どうせ大したこっちゃねぇだろ」

「気になるんです。土方さんの奥さんってどんな人なんだろうとか、土方さんに似た子供ってカワイイんだろうなとか」

「だから、俺じやねぇ。他人の空似だと何回言わせる」

しゃべりながら金属の小さな輪をつまみ上げるや、懐にしまい込んだ。目聡い山崎がそれを見逃す由もなく「なんですか? 指輪?」と尋ねる。

「なんでもねぇ。気にすんな」

「気になりますよ。なんですか? なんでもないのなら、見せてください」

「てめぇに関係ねぇ」

「誰にだったら関係あるんですか?」

土方は何かを言いかけて唇を開いたが、山崎の視線に気押されたのか、口をつぐんでしまった。何かを探すように、視線が数秒さまよう。やがて、煙草盆を手繰り寄せると、一本引っぱり出してくわえ、ライターで火を点けた。淡い菫色の煙りが立ちのぼる。

「ザキ、月光団……ってぇのを知ってるか?」

「新手のギャングか、宇宙海賊ですか?」

「どっちでもねぇ。陳腐な空想科学だ」

「はぁ?」

土方とSFという奇妙奇天烈摩訶不思議な取り合わせに、山崎はあっけに取られてしまった。ただ、都合の悪い話を逸らそうとして、そんな突飛な話題を持ち出したのではなく、どうやら真面目に回答しようとしているらしいということは、真面目くさった彼の表情から、辛うじて察することができた。

「まぁ、例えばの話だ。この世界とそっくりな……でも何かが微妙に異なる世界が、いくつもあってよ。普段はそれぞれ勝手に暮らしているんだが、時々夢を通じて、別の世界を覗くっていう……そういう話があってな。原題が確か、ムーントリッパーだか、ムーンライターだかいう」

「ムーンライター…ですか」

上司であり恋人でもあるこの男の口下手はよく分かっているつもりなので、彼がその例え話を通じて何を言おうとしているか、山崎は頭をフル回転させた。

「いわゆるパラレルワールド……ってヤツですか?」

「ああ、それそれ。思い出せなかった」

「パラレルワールドの方が、ゲッコーダンよりも一般的な単語だと思いますけど……ともかく、そのパラレルワールドがどうかしたんですか? もしかして、その指輪に関係があるっていうのは、別の世界の人だっていうわけですか?」

「まぁ、そんなところだな」

「指輪を交わすような相手?」

「子供だ」

「その、この世界じゃないところに居る筈の子供の指輪が、そこに在ったということですか。やっぱりそれ、見せてください」

しなだれかかるようにして山崎が土方の懐に手を突っ込もうとし、土方は脊髄反射的に山崎の腹を蹴り飛ばした。

「いっでぇっ……アンタねぇっ!」

腹を抱えて唸っている山崎には目もくれず、土方は障子を開けるや逃げ出した。






ふと、立ち止まって、懐を探る。

シンプルな銀色の指輪。

行李の底に埋もれていたくせに錆びや曇りがまったく無いところを見ると、純銀製ではないのだろう。刻まれているイニシャルには確かに見覚えがあったが、それが意味する名前を思い出そうとすると、目覚めてすぐに忘れる夢のように、記憶はぐずぐずと崩れていく。
試しに指に填めてみると、薬指にぴったりと収まった。きつくもなく、ゆる過ぎもしない。だが、自分がそれを日頃から填めていたという訳では多分、無い。

「パパしゃん」

その声に、反射的に振り向いていた。見れば、年の頃は三つか四つと思われる幼女がこちらを見詰めている。そのふっくらとした手には、ヘリウム入りと思しき銀色の風船の紐が握られていた。

「しろいじぃじがフーセンくれました」

「知らない人だけど、食べ物じゃないから貰っても良いと屁理屈を言うんだ。君からも、何とか言ってやってくれないか?」

その隣で困ったふうに訴える女を見て、鰻屋のオヤジが逢ったのはこの母子なのだろうと納得していた。お揃いの蜻蛉の柄の浴衣は、無邪気な幼女にはよく似合っていたが、理知的な印象の強い母親には、少し不釣り合いな気もした。しゃがみ込んで視線の高さを合せてやると、幼女は躊躇なく抱きついてきた。

「しろいじぃじ? どんなじぃじだ?」

「あっちのおみせにいました。ひめちゃんひめちゃんってよぶから、ひめちゃんじゃないって、メッしたら、フーセンくれたです」

万事屋が、小遣い稼ぎに出店でもやってるんだろうか。
そういえば、いつの間にか日が暮れており、周囲は夜店の提灯に照らされていた。夜闇と、やや赤らんだ光が斑らに広がって脳髄を麻痺させていく。今宵はどこかの祭りだったのだろうか? もしそうだとしたら、警備の要請が出ている筈だから、それを手配する役割の自分が知らないということは有り得ないのだが。

「そうだな、ひめちゃんじゃないよな。そんな人からモノもらっちゃダメだぞ」

かといって、自分も彼女の正しい名前を思い出せない。
今にも、ホンモノの父親が現れて叱られるのではないかと恐れながらも、胸にすがりついている子供も、それを眺めている母親も、土方に対してまったく違和感を感じていない様子であった。

「君が来てくれるまで、大変だったんだから。すぐ死なせるからダメだというのに、ヒヨコや金魚を欲しがったり、全部はとても食べ切れないというのに大きな林檎アメやイカの丸焼きを食べたがったり。玩具だって、水ヨーヨーだのビー玉だのハッカの笛だの……いくら小遣いがあっても、きりがないね。ちょっと目を離すと、すぐ姿が見えなくなるし。もうクタクタだから、少しどこかで休みたい」

遊び慣れていないらしい生真面目そうな母親が言うと、すかさず子供が「うなうなたべたいです。うなうなのごはんに、マヨマヨかけてたべゆです」と主張した。

「うなうな? 鰻か。じゃあ、あの店に行くか」

子供が胸元から剥がれ落ちたのを機に立ち上がると、小さすぎる子供の手を引いてやる。このまま屯所に戻って、ふたりを山崎に見せたらどんな顔をするだろうかという悪戯心がふと湧くが、今にもへたり込みそうな母親の顔色をみると、とりあえず彼女を休ませるのが先決だろうと思えた。
自分がこの女の夫かどうかはさておいて、だ。

「またお店のオヤジさんに叱られるだろうね。鰻をどけて飯にタレだけかけてくれとか、マヨネーズをかけさせろとか」

「鰻の臭みやサンショウの辛味が、子供は苦手なんだろ」

「それにしてもあのマヨ好きは、君の遺伝子のせいだ」

夜店が立ち並ぶメインストリートから少し逸れて、路地に入る。
すぐに「鰻」と染め抜いた暖簾が見えるはずだったが、見当たらなかった。祭りに浮かれた連中に悪戯されるのを恐れて、わざと片付けているのだろうか。母子を路地の入口に待たせて、あの鰻屋を探す。

だが、今日の昼に立ち寄ったばかりだというのに、その位置にあったのは喫茶店であった。しかも美人の女給がサービスをしてくれるという今様のキャッフェで、何も分からない子供ならともかく、母親は柳眉を吊り上げそうな代物だ。
『あっとほぅむ』とは書かれているが、とても家庭的とはいえぬ退廃的なその看板を前に途方に暮れていると、その様子が店内から見えたのか、透き通るような肌に濡れ羽根色の髪の艶かしい女給が、ヒョイと顔を出した。

「つかぬことを尋ねるが、ここいらに鰻屋は無かったか?」

すらりと背が高く、天人なのだろうか真っ赤な瞳の女給は、それでも言葉が通じぬ訳でもないらしく、華奢な首を左右に振ってみせた。

「ウナギヤ近イ、ベリー困りまス」

それはそうだろう。
女給喫茶のように雰囲気を重んじる店の近所で、そんな芳ばしい煙をもくもくとやられたら、興醒めもいいところだ。

「路地をまちげぇたかな、失敬した」

自分に言い聞かせるようにそうつぶやくと、踵を返す。
だが、そこで待っている筈の母子の姿は無かった。代わりに、偶然通りすがったらしい近藤が居て「おう、トシか」と片手を上げた。ここまで走ってきたのか、ぜいぜいと息が上がっている。

「近藤さん、ここに子連れの女が居なかったか? 髪のみじけぇ病弱そうな……そうそう揃いの浴衣姿で、ガキは銀色の風船を持ってたんだが」

「あん? 見てねぇよ。なんだトシ、コブ付きをナンパしたのか?」

「ナンパというわけじゃねぇんだが……どこ行きやがった? ああ、そうだ、近藤さん、ここいらに鰻屋が無かったか? 今日の昼、一緒に食ったよな?」

「はぁ? 何言ってるんだ、今日の昼は屯所の食堂だったろうが」

土方は唖然としたが、近藤が嘘やホラを吹ける男でないことは、良く知っているつもりだ。近藤がそういうのならば、事実、その言葉通りなのだろう。

「おかしなことを言いやがる。そういえば、伊東先生も昔、あそこに鰻屋が無かったかとか言い出したことがあってよ。先生みたいな人でも記憶違いするんだなぁと思ってよ」

「ふん。いけ好かねぇヤツの名前なんざ出しやがって。食欲が失せるじゃねぇか」

「まだ嫌ってるのか。死者に鞭打つのも酷だろうが。まぁ、不倶戴天の敵ってヤツだったもんな。じゃ、どこかよそで食うか?」

こんな会話を以前にもした気がする……土方は愕然としたが、気のせいだろうと無理矢理自分に言い聞かせて「そういえば、近藤さん、走ってどこかに急いでたんじゃねぇのか?」と尋ねることで、会話の流れを強引に変えた。

「ああ、それなんだが、実は」

言い終わるや否や「待たんかいこのクソゴリラ! 勘定耳ィ揃えて払わんかいボケェ!」という怒号と共に、志村妙が現れた。

「あーいや、だから給料日まで待ってって言ってるでしょ、貯金もう無いんだよぉ!」

「んだとコラぁ! 国民の皆様の血税でメシ食ってるんだろぉワレェ! 身ぐるみケツ毛まで売ってでも、カネ作って来いやァ!」

「ケツ毛が売れるんだったら、俺ァとっくに大富豪っすよぉ! なぁ、トシ……持ち合わせでなんとかしてくれねぇか? つい、ハメ外しちまってよ」

「んなもんねぇよ。給料日前なのは、お互い様だろうが」

そう言いながらも、思いついて指輪を抜いていた。
どういう縁でこの世界に紛れ込んだのかは知らないが、このまま自分が持っていても仕方無い代物だ。ならば、少しは有効に活用してやろう。

「ンだよ、こんな銀メッキ。こんなもんでゴマ化かされねぇぞ、マヨラーが」

「よく見ろイ。銀じゃねぇ。多分、プラチナだ。それを質屋にでも持ち込んで、足しにしろや」

言われてガス灯の明かりに指輪をかざしたお妙の表情から、みるみる険が取れた。頬を赤らめ「き、今日のところはこれで勘弁してあげるわ。今度は土方さんも一緒に、お店にいらして? オホホホホ」などと、取ってつけたような笑みを浮かべて、踵を返す。

「トシ、オメェあんな指輪持ってたっけか?」

あまりにもあっさりと危機が去ったことにキョトンとしている近藤の肩越し、祭りの灯りか妙に薄赤く染まった夜の雲に、銀色の風船がゆらゆらと吸い込まれて行くのが見えた。あれは、あの子の手から離れてしまった風船だろうか。あの風船の下で、風船を無くしてしまった子供が泣いているのではないだろうか。
だが、駆けつけても、もうそこへ辿り着けないということも、土方は本能的に理解していた。懐から煙草入れを取り出し、一本くわえる。

「さぁな。さて、どっかで鰻でも食うか……蒲焼きは重てぇから、白焼きで」

多分、今から行く店であのオヤジに逢うことは無いだろう。






それから数日後、土方と山崎はまったく別件で万事屋を尋ねていた。
土方はあの白髪侍に貸しを作りたくないとゴネたのだが、山崎が『旦那なら何とかしてくれるかもしれませんよ』と押し切ったのだ。

立て付けの悪い引き戸を開けて上がり込むと、応接室の天井いっぱいに風船が貼り付いていた。正確には、飛んで行こうとする風船が、天井に遮られてそこに留まっていたのだ。ゴム風船ではなく、メタリック風船と呼ばれる種類のもので、子供向けのキャラクターがにぎにぎしく印刷されていた。

「なんだこら。夜店の売れ残りか?」

とっさに売れ残りと口走ってしまったのは、数日前の夜祭りの記憶のせいだ。
それも、近藤と一緒に鰻を食べて屯所に戻ってみると、管轄内で出店を出している一帯は無い筈だと判明したのだが。

「やだなぁ、今から売るンだよ。銀さんの凄腕があったら、すぐに満員御礼で売り切れだけどね」

「寝言は寝て言え」

「寝言といえば、おーぐしクン、あのゴリラ女にプロポーズしたんだって?」

「ハァ?」

まったく身に覚えが無い万事屋の発言に、土方と山崎が固まっていると、かのゴリラ女の弟で万事屋の助手でもある新八が「姉上にプラチナの指輪をあげたそうですけど」と、助け舟を出して来た。

「ああ、アレか。売っぱらって近藤さんの飲み代の足しにしろって、くれてやったモンだ」

「ほぅれみろ、新八。だから、プロポーズじゃねぇって言ったろ? おーぐしクンはあんな凶暴なゴリラ女じゃなくて、もーちっと線の細い病弱そうなタイプが好みなんだって」

「待て、万事屋。おめぇに俺の女の好みを云々言われる覚えはねぇぞ」

「そうですよ! 副長は地味だけど尽くすタイプで、ミントンとカバディが似合うタレ目が好みに決まってるんすからっ!」

「ザキ、おめぇにも俺の好みを云々言われる覚えはねぇ! つーか、なんだそのピンポイントな好みィ!」

喚き疲れてぜいぜいと息を切らしていると、目の前のテーブルに麦茶を充たしたコップが置かれた。どこかで見たことのあるツラの女だと思ったが、ここ最近の自分の記憶力に自信がなくなっている土方は、あえて女の素性を追及しなかった。

「たま、あんがとよ。あとは下でババァの手伝いでもしてろや」

「畏まりました」

女はぺこりと丁寧に一礼すると、部屋を出て行く。
土方は、冷たい麦茶で喉を潤して気を取り直し「実はよ、今度の祭りで騒ぎを起こすっていう予告状が届いてよ。一応、警備はするつもりなんだが、どうにも薄気味悪い連中で、通常の警備じゃおっつかねぇ。拝み屋も手配してるんだが、こういう常識外れなことは、おめぇらみてぇな連中の方がお誂え向きかもしれねぇと思ってよ。賊を捕まえたら成功報酬を出すってぇ条件でどうだ」と切り出した。

「どんな賊だよ? せっかく出店で一儲けしようと思ってたのにさ」

「だったら、手付け金代わりにここの風船買い取ってやんよ。そいつら、世界の秩序を内側から歪めるとかなんとか、意味不明なことを言ってる連中でよ、名前が『月光団』ってぇ言ってな」

自分で説明しながら、土方はふと違和感を感じていた。
まったく別の話で、自分は同じ単語を口走っていたような気がする。

銀時は苦笑すると、目の前に浮いていた風船の糸をつまんで引っ張り、土方の目の前にやった。

「そいつぁ、タチの悪い悪党だ。もうどこぞで暴れてるかもしれねぇな。全部買ってくれなくていいよ。これひとつだけで……その代わりに、これをひめちゃんにあげてね、おーぐしクン」

受け取ろうとして、土方の手の力が抜けた。意識が遠ざかる。
パパしゃん、だいじょうぶでしか? という幼女の声が聴こえたような気がした。





「まったく。安いからって、こんなもん買い込んで、アンタときたら。肺気腫や肺ガンだけでなく、アタマもやられて寿命を縮めたかもしれないじゃないですか」

山崎にキンキン声で喚かれて、まだ完全復活していない土方は頭を抱えて「ハイハイ、スミマセンでした、俺が悪ぅゴザイマシタ」と呻くしかなかった。
江戸全域に渡る禁煙令と煙草税の猛烈な値上げのせいで、おいそれと煙草が吸えない状態に陥ってた土方が『月光団』とかいう怪しげな安売り煙草を見付けたのは、一週間ほど前のこと。
それを愛飲していた土方の挙動がどうもおかしいというので、監察方が成分を分析したところ、転生郷に似た薬物が発見されたのだ。

その土方のうわ言がヒョウタンから出たナントヤラで『月光団』を取り扱っていた宇宙海賊が、祭りに乗じて騒ぎを起こそうとしていたことが判明し、万事屋の協力もあって一斉検挙に繋がった。その大手柄のおかげで、真戦組副長ともあろうものが薬物中毒に陥っていたという不祥事は表に出ずに済んだのだが。

「ホントに。これをいい機会に、辞めたらどうですか、煙草」

すっかり古女房の口調になっている山崎の小言を聞き流して、土方は煙草盆を引き寄せる。月光団の甘い吸い口に慣れてしまっていたせいか、その紙巻き煙草はどこか馬糞のような匂いが鼻をついたが、それでも吸わずにはいられないのだから、煙草吸いはつくづく業が深い。

「月光団ってぇのも、なかなか的を得た名前だよな」

「はぁ? あ、またそんなもの吸って、このひとは!」

「どっか別の世界では、俺ァ妻帯者で子供も居たらしいぜ?」

「ちょ、また何かおかしなモンが見えてるんですか? フラッシュバックですか? バッドトリップですか?」

「真面目な話さ」

土方は深く煙を吸い込むと、煙草盆にガラクタと一緒に紛れ込んでいたらしい金属の輪をつまみあげた。山崎の視線が、そのプラチナの指輪に吸い込まれる。








「……陳腐な空想科学なんだがな」


(了)

【後書き】先月の土用の丑の日に書きかけの状態に『むなぎ召しませ』というタイトルをつけて公開したSSに、SF的要素と別館収録予定のシリーズ設定を絡めて膨らませてみました。

なお、当作品のタイトルと作中に登場した『月光団』という語は、20年以上昔に発行されたイギリスSF短編集『アザーエデン』(ハヤカワ文庫)に収録された、パラレルワールドと夢の世界を扱った同タイトルの作品(デイヴィッド・S・ガーネット著、内田昌之訳)をお借りしました。
ブログ先行公開:08年07月25日
大幅加筆&サイト収録:同年8月16日
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