とぶ蛍


ある日の昼休みのこと。
五條佑真が(実はお手製の)弁当をカッ込んでいると、いつもつるんでいる、いわば子分の一人が菓子パンを齧りながら「そういえば、新人戦んときにチョロチョロしてたヒョロっこい奴、アレが新入部員ですか?」と、話しかけてきた。

「ん? そうだけど、それがどうかしたか?」

「いやね、アイツ、使えるらしいっスよ」

「使える? 何にだ」

四股を踏むのもやっとで、持久力も瞬発力もなくて、まだ一勝どころか、練習の突っ張り棒の代わりにもならない蛍が『使える』って、何のこっちゃ……パシリとか? でも、ウチの学校の購買はパシらせてまで買いに行くほどの名物もねーし、そもそも俺、弁当持参だし……と、五條は首を傾げた。

「やだなぁ、ユーマさん。何にって、ナニに、ですよ」

下卑た笑い顔を見下ろしているうちに、なんとなく意味が飲み込めた。

「バーカ。毎日のように裸見てるが、そーいう目でアイツを見たことねーわ。せっかくメンバーが揃ったっつーのに、セクハラして辞められても困るしな。てめーらも、変な気起こしてチョッカイかけたりすんなよ」

「もったいねぇなあ。いや、ユーマさんがそう言うなら、俺らは従いますけどね。ただ、そーいう連中の間じゃ、ちょっとしたイイおもちゃだったとかで」

弱い者イジメやイジリの延長で、そういった性的な暴力にエスカレートすることはままあるようだが、五條は元の育ちの良さのせいか、あるいはブラコン気味の妹がいるせいか、そっちの方面の悪さには、ついぞ手を出したことがなかった。

「つーか、そんな話、メシが不味くなるだろ、ボケ。せっかく昨日の晩から仕込んだ角煮なのによ」

「スンマセン。そういや、ユーマさん、今度の日曜ッスけど、レイナさんがカラオケに行きたいって言ってるんスけどネ」

そこで三ツ橋蛍の話題は終わった訳だが、五條はなんとなく気になって、放課後になるや否や、教室から出てきたばかりの相撲部部長、小関信也を廊下で捕まえた。
やや歯切れの悪い口調で「大関、ホタルの件、知ってたか?」と尋ねる。

「三ツ橋の件?」

「その、なんつーか。イジメってゆーか、セクハラされてたってゆーか」

それを聞いた小関の視線が、やや宙を泳ぐ。五條は小関の胸倉を掴んで「なんか知ってるのか」と、低い声で凄んだ。

「痛い。手、放してくれない?」

「話すなら、放す」

「分かったよ……いや、僕も詳しくは知らないんだ。女の子みたいだってからかわれてたとか、それが嫌で克服したくって、相撲部に入ったとか、断片的に聞いた程度で」

「ゆーても男同士だろ。からかってる連中、アタマおかしーんじゃねーの」

「三ツ橋って見た目がカワイイ系だから、手を出したくなる気持ちも、なんとなく分からなくはないけど」

「ハァ? 何言ってんの、大関キモいぞ」

「だ、だよね、キモいよね。おかしいよね。冗談だよ、冗談」

「それとも大関、ホタルとなんかあったのか? そういや最近、一緒に帰ってるみたいだけどよ」

「それはその、三ツ橋が公園で四股踏みをしてるのに付き合ってやってるだけで、いや、付き合ってるっていっても、変な意味じゃなく、本当に四股を踏んでるだけで」

顔を赤らめながら言われてもイマイチ説得力がないが、五條はそれ以上は敢えて踏み込まなかった。




「蛍、オマエ、ずいぶんガラの悪い連中と知り合いなんじゃな。ま、ワシやユーマもひとのことを言えんがの」

授業の合間の短い休憩時間、ひょっこりと潮火ノ丸が三ツ橋蛍のクラスに顔を出した。

「そこの階段のとこで、オマエにコレを渡してくれって、頼まれたんだがの」

そう言いながら、小さく折り畳まれた紙切れを差し出す。三ツ橋はそれを広げて……顔をしかめると、それをクシャッと握りつぶした。

「なんじゃ、何か迷惑な手紙だったのか? ワシ、断った方が良かったかの」

何やら責任を感じたらしい潮が、しょんぼりと肩を落としてしまった。
土俵の上ではいつも、あんなに大きく雄々しく見えるのに。潮のそのショゲっぷりが妙に可愛らしく感じられて、三ツ橋は苦笑いをしながら「火ノ丸さんは知らなかったんだから、仕方ないですよ」と、潮の両肩をポンポンと叩いた。

「その……それ、アイツらに返してこようか?」

「いえ、いいです。ご迷惑はかけられませんし」

「そ、そうか? すまんの」

そのタイミングで予鈴が鳴った。

「あ、授業が始まってしまうの。じゃあの」

パタパタと廊下を駆けていく小さな背中を見送りながら、三ツ橋は「もしかしたら今日、部活に行けないかも」と伝言しておくべきだったろうかと、ふと思った。




部室に入った途端に「ホタルは?」と五條が誰にともなく尋ねたのは、なにか虫が知らせたとでもいうのだろうか。ぶつかり稽古の相手にもならず、部室の隅っこでチョコチョコ四股なんぞ踏んでいる三ツ橋の存在など、いつもはほとんど気にも留めないのだが。

「そういや、まだ来てねーな。掃除当番かなんかじゃねーの? 部長もまだじゃん」

答えたのは國崎千比路だった。
それもそうだなと納得しかけたが、念のために潮にも「何か知らねぇ?」と声をかけたのは、数日前の子分や小関との会話が、五條の頭のどこかに引っかかっていたからだろう。

「関係があるかどうかは分からんが、そういえばアイツ、なんかガラの悪い連中に手紙を渡されておったな」

「ガラの悪い連中?」

「向こうは妙に馴れ馴れしかったんじゃが、三ツ橋は親しそうではない様子じゃった……それを知らんで、ワシが渡してしもうた。返してこようかと言ったんじゃが」

その『ガラの悪い連中』が、三ツ橋をからかっていた連中だという証拠はないが、そうでないという確証もない。

「チヒロ、ちょいちょい」

そう声をかけて、五條は着替えようとしていた國崎を、強引に廊下に引っ張り出した。

「ひょっとしたら、なんだけどよ。ホタルがなんかに巻き込まれてるかもしれねーから、探しにいくの付き合え」

「え? なんかって?」

「想定通りだとしたら、ちょっとタチの悪い連中だからよ。相撲部を巻き込むのはちょっと、な」

「でも、俺らも相撲部じゃん」

「いや、ま、確かにそうなんだがな」

つい最近まで廃部同然だったうえに、元不良の自分が関わっているせいで、ただでさえ立場が微妙な相撲部だ。騒ぎを起こしたなんてことが知れたら、臭いものになんとやらでサクッと廃部されてもおかしくない……と、五條が頭を抱えていると、國崎が手をポンと叩いて「マスクならあるぞ」と言いだした。
なんだマスクって、俺は花粉症じゃねーぞと言いかけて、差し出されたレスラーマスクに目を丸くする。レスリングにこんなもん必要ねーだろと思ったが、そういえば学祭の時の國崎は、これをかぶって相撲部のちゃんこを食べに来てたっけ。

「ちょうどポケットに入ってた。白と赤のと、どっちがいい?」

「んなもん、どっちでもええわ! つーか、お前の顔面に密着してたもん被れってのかよ」

「だって、今から買うんじゃ間に合わないだろ。次の機会に備えて買っておけよ。とりあえず、今回は貸してやるから」

「んな機会、あってたまるか!」

背に腹は代えられないか。エイヤとばかりに五條は赤いマスクをひったくるように受け取ると、ズボンの尻ポケットに突っ込んだ。

「火ノ丸。俺ら、ちょっと三ツ橋探してくるから、留守番頼むぜ」

「お? おう」




ここしばらく音沙汰がなかったから、忘れていたのに。
呼び出しなんか無視しても良かったのかもしれないが、部室に乗り込まれて皆に迷惑をかけるのは避けたい。ともかく行くだけ行って、きっぱりと断ろうと考えたのだ。指定された校舎裏手の倉庫の前に立つと足が震えたが、もう泣いて怯えるだけの自分じゃないと己に言い聞かせ、深呼吸ひとつして錆びた鉄のドアを押した。
内部はコンクリート打ちっぱなしの床と壁で、スチール製の棚が並んでいた。窓が無いので薄暗くて見えにくいが、丸めたマットのようなものや、鉄アレイやバーベルなどの運動用品が無造作に押し込まれているようだ。そして、顔も見たくない連中が数名。

「ここ最近、とんとご無沙汰じゃん。寂しくて疼いてんじゃねーのかと思って、誘ってやったんだぜ」

へらへらとした口調に虫酸が走る。
誰かが鍵を内側からかけたのか、ガチャリと重たい音がした。

「お断りします。もう、あんなことはしたくないんです」

「ほーう? 他にカレシでもできたのか? そういや、部活に入ったんだっけな。相撲部?」

「あなた方には関係ないでしょ」

「やーだなぁ、つれないなぁ。ま、すぐにカラダで思い出させてやっけどね」

突き倒そうとしたのか平手が飛んで来たが、反射的に三ツ橋は身を屈めてそれをかわしていた。相手の腰が視界をいっぱいに入ってきたので、とっさに片手に下げていた革製の学生鞄を捨てて、ズボンのベルトを両手で掴む。ナイロン生地のミリタリーベルトであったが、相撲の「まわし」よりは細くて掴みやすかった。その低い姿勢のまま、頭を相手の胴に押しつけたのは、新人戦で見た狩谷の試合のイメージが、脳内のどこかに引っかかっていたからだろう。

「なんだ、したくないとか言っといて……そんなにがっつかなくても、たっぷり可愛がってやっからよぉ」

嘲笑いながら引き剥がそうとしたが、肩を押しても頭を掴んでもビクともしない。

「おい、離せ。しがみつかれちゃなんもできないだろ。離せよ」

オマエらなんかに可愛がってほしくなんてないから、死んでも離すもんか。握力は心許なかったが、ベルトの内側まで指が入り込んでいるので、握りが多少甘くても、そう簡単には降り払われない。

「先輩、何やってんすか、さっさとヤっちまいましょうよ」

取り巻きがニヤつきながら煽り、三ツ橋のブラウスの後ろ衿を掴んで引っ張り、そこでいつもと勝手が違うと気付いて戸惑った。

「面倒くせえ、このまま立ちバックでもされてぇのか?」

さて、ここからどうしたら良いんだろう。
狩谷の試合なら、この姿勢から内股掛けに入っていたが……だめだ、振り回されないように耐えるのに精いっぱいで、どっちの足も動かせない。振りほどこうと、頭や背中をめちゃくちゃに叩かれる。痛いのは慣れているが……もういっそ、諦めてこいつらに身体を任せた方が楽なんじゃないだろうか、という悪魔の囁きが脳裏を過る。

いや、諦めない。
僕より背が低い火ノ丸さんだって、いつでも最後まで諦めたりはしないんだから、僕だって。

「うあ、ああああああッ!」

無意識に、大声が出た。
その声に驚いて、強引に体を引き起こそうとしていた手が引っ込んだ。三ツ橋はその隙に腕を引いて、より低い姿勢を作った。両足をやや広げて、四股を踏む要領で踏ん張る。
コイツは確かに自分よりもデカいけど、小関さんほど重たくもなければ、火ノ丸さんほどパワーがある訳じゃない。コイツよりユーマさんの方が強かったと聞いているし、さっきの平手だって、チヒロ・スペシャルとは比べ物にならないぐらい遅く見えた。だから、このまま耐えていれば勝機は見える……かもしれない、多分。




探すといっても手がかりがないな、と途方に暮れていた國崎と五條であったが、その甲高い声を耳にして顔を見合わせた。どういう状況かは分からないが、少なくとも悲鳴や嬌声ではないようだ。

「……三ツ橋だな」

「えらい肺活量だなぁ」

おかげで居場所の見当はついた。
校舎の裏にある倉庫だ。そちらに向かって小走りに駆けていると「ユーマさん、加勢しましょうか?」と、子分共が声をかけてきた。

「加勢ってなんだよ。相手は複数なのか?」

「多分、あのチビをからかってたっつー連中じゃないスかね。ユーマさんがブイブイ言わせてるた頃は、まだおとなしかったんですけど、最近、調子に乗ってるらしいから」

自分が潮に負けたという評判がたっているのも、相手勢力をつけ上がらせている一因だろう。

「いや、俺がケジメつけてやる。ウチの部員に手ェ出しやがるなんて許せねぇ。ダチ高最強のユーマ様をナメんなってんだ」

五條がうっすらサビたノブを掴むと、乱暴にガチャガチャ捻った。

「ちっ、内側から鍵かけてやがる! 蹴破るか?」

「鍵、あるよ」

しれっと言い放ったのは、國崎であった。確かに、腰のベルトにかけているキーチェーンにいくつか鍵がぶら下がっている。

「へっ? なんでそんなもん持ってるんだよ、てめーは○ラえもんか! チヒロえもんって呼ぶぞ、コラ!」

「ここ、レスリング部も使ってた備品庫だから。預かってた鍵は返さなきゃなんだけど、普段は開けっ放しなもんだから、つい、忘れてた」

なんなんだ、もう。
五條は軽く脱力しかけたが、國崎が開錠したドアを開き、その向こうの光景が視界に入った瞬間、カッと頭に血が上った。
ただでさえ小柄な三ツ橋が身を縮めているところに、数人が覆い被さるように群がっている。三橋の正面に位置しているのが、体格的にもボス格だろうと見当をつけるのと、そいつ目掛けて駆け出したのは、ほぼ同時であった。

三ツ橋、そのまま頭上げるなよと声をかけるべきだろうか。
いや、反射的に振り向かれでもしたら、余計に危ない……迷ったまま、次の瞬間には思い切り軸足を踏み切っていた。もう片足が三ツ橋の頭上を掠めて、ボス格の胸元へと突っ込まれていく。ガタイのいい五條の体重プラス加速度の衝撃をまともに鳩尾に受けて、ボス格が後ろへひっくり返った。頭をコンクリートの床に打ち付けたのかゴツンと鈍い音がしたが、とりあえず気にしないことにする。

「ユ、ユーマさんっ?」

ボス格もろとも、もつれるように倒れ込んだ三ツ橋に呼びかけられ、五條はせっかく國崎からレスラーマスクを借りていたのに、被らずじまいだったのを思い出した。

「へーぇ、テメェがユーマとやらか」

「最強とか言いながら、チビに負けたって評判の?」

周囲の取り巻きも巻き込まれてスッ転んでいたが、こちらはダメージが少なかったらしく、怒号を上げながら起き上がってくる。
しゃあねぇ、久しぶりに暴れるか……と、五條が腹を括った。拳を固めて間合いを測っている内に、何人かが五條の背後に回り込み……「うわぁあああ!」と悲鳴を上げた。

「チヒロ・スペシャル・ストリートファイト・エディション!」

振り向くまでもなく、國崎が加勢したのだと分かる。こういう手合いで実際に戦闘力が高いのはごく少数で、残りは勢力に便乗するだけのカスだ。一人が怖気づいて逃げ出すと、残りも釣られるように扉へ殺到した。

「どうする、五條? 追いかけるか?」

「必要ねーよ」

外には、五條の子分共が控えているのだ。五條は使わずに済んだ拳を開くと「やれやれ」と呟き、軽く手首を振ってほぐした。一方、レスラーマスク姿の國崎は逃げ遅れたヤツに(嬉々として)寝技をかけており、三ツ橋は気絶しているボス格の腰の上に、跨るような形で座り込んでいる。

「ホタル、そいつ、生きてっか?」

「ええ、その……呼吸はしているようです」

「んじゃ、ほっといても大丈夫だな。つーか、いつまでそこに居るんだ」

「あの、指がこわばってしまって、ベルトから外れなくて」

「はぁ? アホか」

罵りながらも、傍にしゃがみ込んで、細い指を一本一本、ベルトから引き剥がしてやる辺り、ユーマも面倒見がいい。どれだけの力を込めていたのか、血の気が失せて真っ白になっている。爪の先は多少割れたようだが、幸い、骨が折れている気配はなかった。
少しでも血流が戻るようにと、冷たい指を両手で包んでこすってやっていると、キュッと弱々しく握り返された。

「ユーマさん、その……ありがとうございます」

「ン? ああ、指、もう大丈夫か? 無茶すんなや」

「だって……ともかく倒されたらダメだと思って、その、ベルトを離さないようにって、そればかり必死になってて」

「そっか。相撲がちったぁ役に立ったんだな。立てるか?」

「足も、その、力の入れすぎでガクガクしちゃって」

それに引き換え、俺はもうケンカはしねぇ筈だったのにな……と、五條がガックリ項垂れていると「決まり手はけたぐり、じゃな」と声がかかった。
顔を上げると、いつの間に来たのだろうか、入り口すぐの辺りに潮と小関がいた。

「あれは、けたぐりというより、ヤクザキックだと思うけど」

小声で小関がツッコむが、潮はケロリとした顔で「相撲一筋と決めたユーマが蹴り技で決めたんだから、けたぐりでええじゃろ」と決め付けた。

「つーか、お前ら、なんでここに?」

「なんでって……ユーマさん達が三ツ橋を探しに行ったって、潮から聞いたから」

「ハァ? 火ノ丸、大関に喋ったのかよ」

「なんじゃ? 部長には内緒だったのか?」

「バカかっ! ここに相撲部が全員集合しちまったら、どう見ても『相撲部の起こした不祥事案件』だろうが!」

潮と小関はイマイチ状況を飲み込めない様子だったが、國崎が三角締めで『落ち』たヤツを放り捨て、まだ腰を抜かしている三ツ橋を、いわゆるお姫様だっこの形に抱き上げた。

「だから、俺がマスク貸そうかって言ったのに……んじゃ、とっととズラかろうぜ」

「あ、僕のカバン……あの、そこに転がってるヤツ」

「ン、これじゃな?」

ぞろぞろと倉庫を出ると、ユーマの子分共と逃げた連中の決着も、とうについていた様子であった。

「おい、お前ら。くれぐれも言っておくが」

「分かってますよ。俺らのチームに逆らったからシメた、ってことにしておきますから」

「すまねぇな。今度、メシおごるわ」

「いいんすよ。俺らも久々に、ユーマさんの必殺ヤクザキックが見れて、スカッとしましたから」

うん、やっぱりアレはどう見てもヤクザキックだよな、と皆が納得する中、潮ひとりが「違う。決まり手は、けたぐりじゃ」と言い張っていた。




部室に着くなり「僕のせいで、すっかり遅くなっちゃいましたね」と言いながら、三ツ橋がブラウスを脱ぐ。その下のTシャツ越しの背中を見た五條は、とっさにそのTシャツの裾を後ろから掴んで「今日は脱がなくていいんじゃね? その、ジャージでよくね? ジャージで」と言った。
先ほどの騒動で殴られてついたのだろう痣が、赤やら青やらカラフルに三ツ橋の白い肌を染めているのが、汗ばんだ白い生地にうっすら透けていたのだ。日頃のぶつかり稽古でも打ち身や擦り傷ぐらい多少できるが、ここまで派手ではない、つもりだ。なによりも、レイプ未遂という理由が理由だけに、妙に艶めかしく感じられた。
潮は「ワシは、一日一度はまわしを締めんと、なんだか落ち着かんのじゃが」とブツブツ言っていたが、小関は五條の意図を察したらしく「確かに、もう四股踏みして摺り足するぐらいしか、時間とれなさそうだものね」と同調した。

「分かりました……ちょ、ユーマさん、シャツ伸びるッ」

「おう、悪い悪い」

三ツ橋が体操着をカバンから引っ張り出して、袖を通したのを見届け、五條はホッと息を吐いた。そして、思い出したように「部活帰りも、当分の間は公園で遊んでねーで、まっすぐ帰れよ」と、つけ加える。

「えっ、でも、四股踏みたいし」

「んなもん、てめーんちで好きなだけ踏め! いいから、当分の間は、おとなしくしてろ。帰り道も、なるべく明るいとこを選べよ。ひとけのない公園なんて、もってのほかだ」

「大丈夫ですよ。いつも小関さんが一緒だし」

「大関じゃダメだ。今日のことのほとぼりが冷めるまでは、用心しといた方がいい」

三ツ橋もようやく五條の憂慮に思い当たったのか「スミマセン」と呟くと、気まずそうに俯いた。

「そんだけ夜道が心配なら、五條が家までエスコートしてやりゃいいんじゃね? 俺でもいいけど。ストリートファイト・エディション、極めたいし」

「チヒロの場合、乱闘を期待にして、わざと危ない道を行きそうだから、もっとダメ!」

潮が「皆が、なんか知らん話をしとる。また、のけ者にされとるみたいじゃ」と拗ねそうになったのを察して、小関が慌てて「さささ。時間がもったいないから、とりあえず稽古、稽古!」と言いながら、手をパンパンと打ち鳴らした。



夜道で二人きりというシチュエーションは、お互い無言でもいいんだろうか。それとも、無理やりにでも会話しておいた方がいいんだろうか。
これがカップルなら、手さえ繋いでいれば『言葉なんて要らない』という状況なんだろうけど……などと意識してしまうと、なんだか妙に気まずかった。

「あっ、あのっ、ユーマさん」

その重苦しい空気を打ち砕いたのは、三ツ橋の方であった。

「今日はありがとうございます。その、助けてくれただけじゃなくて、こうして守ってもらって」

「お、おう。その、なんだ。おめーはウチの部の大事なメンバーだからな。五人の内一人でも欠けたら、大会に出れねーしよ」

「そ、そうですよね」

三ツ橋が、ホッと気が抜けたような笑みを漏らす。
その表情が素直に「可愛い」と思えたのは、妹レイナが自分に甘えかかる姿に、どこか重なったからだろう。

「まったく、テメエ、こんな細っこい手で」

三ツ橋の手を掴んで引き寄せたのも、やましい気持ちからではない。強いて言えば、妹可愛さに似た感情、だろうか。

「ベルトは掴めたんですけど、そこから動けなくなっちゃって。まだまだですよね」

「ばーか。俺だって早いって言われてるのに、てめーがまわしを取りにいくなんざ、まだまだどころの騒ぎじゃねー。ともかく、今度あーいう連中に呼び出されたら、ひとりでノコノコいかねーで、俺らを頼れ」

「そうします。その……ユーマさん、今日はすっごくカッコ良かったです」

「全然カッコよくなんかねーよ。ケンカはもうしねーって決めてたのに、ついカッとしたら、あのザマだ」

「でも、それだけ必死になってくれたってことでしょう? その、変な言い方ですけど、ちょっぴり、嬉しかった、かも」

確かに変な言いまわしだなと思ってふと立ち止まり、自分がまだ三ツ橋と指を絡めたままなのに気付く。

「うわっちちち、その、すまねぇ。他意はねぇ」

「別にユーマさんなら、あってもいいのに、僕は」

「はぁ?」

「冗談です」

振りほどかれた手をもう片方の掌で包み、くすくすと屈託なく笑う三ツ橋の表情からは、本当に冗談なのか、本当だったのを冗談にしているのか、五條には判別することができなかった。

「その、本当に嫌なら嫌って言えよ。迷惑だ、とかよ」

「迷惑だなんてとんでもない。逆に、僕がユーマさんのお世話になってる状態なんだし。相撲部の皆さんなら僕、大歓迎ですよ」

「大歓迎ってなんなんだ。そうじゃなくて、その、アレだ、なんつーか」

小関から話を聞いた時には「男同士だろ。アタマおかしーんじゃねーの」と笑っていた筈なのに、いつの間にか、ついうっかり『送り狼』になってしまいそうで、自分が怖い。

「と、ともかく! 嫌なときは我慢しなくていいんだからな。ちゃんと嫌だって言うんだぞ、いいな? 頼むぞ? 絶対だぞ?」

「はぁ、分かりました」

きょとんとしている三ツ橋を見下ろしながら、五條は「ほとぼりって、何日ぐらいで冷めるんだろう? それまで俺、保つかな」などと、ぼんやり考えていた。

(了)

【後書き】相模百合シリーズ(?)の第二弾。
お相手は『女子力が高い』とネットでも評判のユーマです! いや、ただ単に、前回の話を書き上げた後で、なんとなくユーマのヤクザキック炸裂のシーンが脳内に浮かんだので、書いてみたくなっただけなんですがね。
あと、チヒロは、特に悩まずあっさり手を出しそうだ(笑)。

タイトルは、テキトーに蛍絡みで「とぶ蛍まことの恋にあらねども光ゆゆしき夕闇の空(馬内侍集)」より。
初出:2014年10月26日
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