※当作品は、第45χ『今度こそψ会!蝶野雨緑』の前に 書かれたため、念堂と蝶野は顔見知りではない設定です。
人体復元能力の設定も原作と異なります。ご了承ください。
斉木楠雄の孤愁
唐突で恐縮だが、ロンサムジョージをご記憶だろうか?
孤独なジョージという意味で、僕も詳しくは知らないがピンタゾウガメという種族の最後の一匹につけられた愛称だという。仲間や兄弟達を失って長らくダーウィン研究所で飼われ、近縁種との交配も試みられたそうだが、彼の死と共にピンタゾウガメは絶滅した。さて、彼は果たして不幸だったろうか?
餌をふんだんに与えられ、住環境は快適に整備され、外敵に襲われる心配ない生活は、多少退屈かもしれないが、快適だったに違いない。彼だって仲間が居た若い頃はブイブイいわせていたのかもしれないし、年老いても尚、次々とメスをあてがわれている。近縁種で交雑が期待できる程度ということは、人間にチンパンジーを押し付けるような無茶ではなく、人種の違う……例えるなら異国の少女を斡旋されたような感覚だっただろう。そもそも、カメは群で暮らす生物ではないので「孤独」あるいはそれに似た概念を認識できたかどうかすら、疑問だ。
そう、孤独だと自覚さえしなければいいのだ。
体育で二人組を作れなくとも、便所飯を食べようとも、誰の目にも留められず、誰の記憶にも残らず、まったく別の生き物となってしまった『人間』に囲まれて、彼らと友情や愛情を育むどころか関わることすら避けて、ひっそりと寿命が訪れるのを待つだけのボッチな日々。
ジョージが感じていた程度には僕も孤独かもしれないし、ジョージが気にしていなかった程度には僕も気にせず生きられるかもしれない。ふと、そんなことを考えてついつい感慨に耽ってしまったのは、つい最近、ジョージが一足お先に「この世」という煉獄から抜け出したと知ったからだ。
「すげぇよなぁ。何人分のスッポン鍋ができるんだろ」
そこか。
だが、スッポン鍋は一口分足りとも作れないと思うぞ。そもそもスッポンじゃないからな……という親切なツッコみを入れる気にもなれない。なにしろコイツのウザさは尋常じゃなく「むしろ、一人になりたい」などと、ジョージの境遇を心底羨んでしまうほどだ。
「そんだけ食ったら、すげぇだろうなぁ。スッポンラーメンとか出汁きいてそうだなぁ」
すごいって何が、と聞きかけたが、声に出す前に「ナニが」と気付いたので、聞こえなかったふりをした。使うアテもないのに無駄に精力をつけてどうするんだ。アテ? あるの? 誰? 僕? ふざけんな死ね。
「なぁ、食いに行こうぜ」
ジョージはとっくに埋葬されたか、あるいは標本にされたと思うぞ。
「ちげーよ。カレーだよ、カレー」
ラーメンじゃないのか。
「オマエ、最近、ラーメン飽きたんだろ? だからカレーにしようぜ。スッポンカレー」
ねーよ。
こんなバカは放っておこうと歩き出すと、燃堂は当然のような顔をしてついて来た。孤独であること(あるいはそれを自覚すること)は、確かにかなり不幸かもしれないが、人生というこの糞ゲーには、より悲惨な境遇が存在するということだ。
「師匠! 探しましたよ、師匠! 最近見かけないから」
燃堂を無視しながら公園に差し掛かったとき、背後から声をかけられた。
僕のことを師匠を呼ぶ酔狂なヤツといえば、路上で手品をしていたホームレス、蝶野雨緑(本名:中西宏太)だ。
ちょいと前に色々あって、なるべく顔をあわせないようにと避けていたのだが、ここしばらく姿を見なかったものだから、つい油断していた。
「こないだは、アメージングなイリュージョンを見せてくださってありがとうございました! その、やっぱり師匠は師匠っす! 調子に乗ってハニーなんて呼んでしまって、スミマセンでした!」
大声を出すな恥ずかしい。
しかも、燃堂がそれに反応して「相棒ってハニーなのか? ハニーってあれか、兎か?」などと訳のワカラナイことを口走ってるし。それはバニーだろ。勘弁してくれ。
「ねぇねぇ、師匠ったらぁ」
腕を掴まれそうになったが、サッサッと身をかわす。相手の心が読める僕にとっては、これぐらい容易いことだ。もう面倒くさいから、燃堂がうまく目を逸らしてくれたら、さっさとテレポートしてしまおう……そう思ってスタスタ歩いていたところで「いてててっ」と蝶野が喚いた。さすがに驚いて振り返ると、髭面のオッサンが蝶野の腕を背中に捻り上げていた。
また妙なのが湧いたな、と頭を抱えたくなる。こちらは、自称プロデューサーとやらにデビューさせてやるとダマされ、投身自殺しかけていたところを助けたことがあるストリートミュージシャンだ。確か名前は『魂の叫び(ソウルシャウト)』とか言ったかな(第8χ『ψ起を賭けた戦い!』)。
「彼、嫌がってるじゃないか。あまりしつこく付きまとうんなら、警察に突き出すよ」
「え、いや、僕と師匠の仲で嫌がってるだなんて、そんな」
「なに? 君、このシルクハットと知り合い?」
僕と師匠の仲、なんてキモチワルイ言い方すんな、と突っぱねたいところだが、どういう仲だと問いつめて下手に自爆してもイヤだ。僕がリアクションにイマイチ迷っていると、燃堂が割って入って「相棒は無視して避けてたんだけど、コイツがずっと話しかけてたんだぜ」と、説明した。いや、その状況はお前も限りなく一緒なんだがな、僕はお前のことも等しく無視しているんだがな。
しかし、自称『魂の叫び(ソウルシャウト)』のオッサン……微妙に長くて面倒だな、略して『ヒゲ』でいいか……つまりヒゲは「ということは、貴様、この子のストーカーか」と都合良く解釈したようだ。
「ストーカーだなんて! ち、違いますよ!」
「なぁなぁ、オッサン。ストーカーってことは、この黒い帽子、悪い奴なのか?」
「そうだな。悪い奴だ」
「そうか! じゃあ、俺っち、コイツを警察に連れていくよ!」
そうしてくれ。ついでにお前も逮捕してもらえ。罪状? そんなもの、お前のツラで十分犯罪的だから心配するな。安心してお務めしてクマの木彫りでも掘ってろ。二度と帰ってくるな。
ともあれ、鬱陶しいのがまとめて消えてくれたので、ぼくはせいせいして爽やかに伸びをした。そういえば、ヒゲ氏、今日はCD売れたんだ?
「いや、やっぱり君が居てくれないと、なぜか売れ行きが悪くてね。だから、探してたんだよ。ただ、隣に座っててくれるだけでいいから」
ああ、そうですか。相変わらずですか。
実はこのヒゲ、超絶的な音痴である。しかも作詞・作曲のセンスも無ければ、その自覚も皆無という、どうしようもないダメ男なのだ。路上ライブをしながらCDを売ろうにも、通行人に「うるせぇ」と石を投げられるのが関の山だ。だが、僕が隣にいたらどうなるか。
ヒゲの歌を延々と聞かされ、脳内でヘヴィローテーションされ続けている僕の思念が、テレパシーとなって周囲の人々の脳に伝わる。すると、人々は「なぜか、この曲が頭を離れない、中毒になっている」と思い込んで、ついついそのCDを買ってしまうのだ。
もちろん、このクソ曲自体には金を出して買うほどの価値もないし、買う側も心から気に入った訳ではない。無価値な物も無意識下に訴える宣伝によって売りつける、いうなれば、ステルスマーケティングの最たるものと言えるだろう。こんな姑息な売り方、いくらバレないとはいえ、いやむしろ絶対にバレないからこそ、僕だって多少は良心が痛む。そろそろ自力で売れるようになってもらいたいのだが。
今日売り切る分として用意していた段ボール箱一箱分は、小一時間で片付いた。
もちろん、僕のテレパシーの成果だ。むしろ、脳内ヘヴィロテがウザいので、少し意図的に拡散して、早めに売り切れるように誘導したのだ。
「君がいるとなぜか売れるんだよ。本当に不思議だなァ。君は僕の天使みたいなものかもしれないな」
やめろキモい。
「そんな冷たいこと言わないでしょ。今日はまだ時間ある? もし良かったら、家に寄って行ってよ」
最近、こういうパターンはロクな結果に繋がらないと、さすがの僕も学習しつつあったが、それでも断り切れなかったのは、ヒゲ氏が「あ、やっぱりダメ? あれだけ聞いててくれるのに、相変わらず曲は気に入ってくれてないものね」と、露骨にしょげ返ったからだ。
「え? 来てくれるの? じゃあ、これでパーッとなんか食べて帰ろうか」
ヒゲ氏が売上げ袋から千円札を掴み出す。バカ、それはオマエの金じゃなくて債権者のものだ。要するにそれは全額借金返済用なんだよ。大体、利子のこと考えずに値段つけてるんだから、それ全部売れても、利子分は働かなきゃいけないって、分かってるのか? 幸い、ヒゲ氏もすぐにそれに思い当たったらしく「えーと。やっぱ、その。貧乏してるし、おもてなしは、お茶ぐらいでもいいかな?」とトーンダウンした。
いいかなと聞かれても、実際問題、その程度がせいぜいだろ。別にアンタに金銭的な期待はしてないし。イヤになるぐらいリピートする糞曲が脳内を占拠するおかげで、余計なことを考えずに済んでいるというだけで。
連れてこられたのは、古びたプレハブ小屋であった。四方にコンクリートブロックを重ねた上に、ただポンと乗っかっているだけの代物だ。外壁のトタン板は赤々とさびついて、ところどころの腐食の穴まで空いている。これは夏暑く冬凍えるなんて生易しい環境じゃないなと呆れていると、ヒゲ氏は「元々は、スタジオとして借りてたんだ」と、独り言めいた言い訳をした。
「借金をしたときに、自宅は片付けたもんだから。スタジオ住まいってわけさ」
内側には、防音用と思しき白地の穴空きボードが素人工事で張り巡らされている。水周りの設備が見当たらないので、風呂は銭湯、便所は近所のコンビニか公園、洗濯はコインランドリーといったところだろう。コストパフォーマンスを考えるのなら、自宅を残してオンボロ小屋を手放すべきだろうに。敢えてこちらを選んだ理由は、ヒゲ氏のアーチスト(自称)としてのプライドと、床が抜けるのじゃないかと思うほど積み上げられた段ボールの山。ダマされて作ったCDの在庫の存在か。
段ボールの他には、ギターやキーボード、アンプなどの機材と、ベッド代わりと思しきクッションと毛布があるぐらいだった。
「まだこんなにあるんだよね。それでもかなり片付いたんだぜ。君のおかげだよ」
そろそろ僕に頼るのはやめてほしいのだが、なるほどこれだけ残っているのなら、自助努力は難しいのだろう。かといって、僕だっていつまでも赤の他人のお守りをしているわけにはいかないんだが。
「赤の他人だなんて、冷たいなぁ。俺ら、もうとっくにパートナーみたいなもんじゃないか」
勝手に決めるな。つーか借金を返し終わったら、とっとと縁を切るぞ。
「まぁまぁ。そこらにでもテキトーに座っててよ。そのクッション、手触りよくて気持ちいいよ」
ダニが湧いていそうな気がして正直触りたくなかったのだが、促されて仕方なく寄りかかる。ジャージ生地に細かいパウダーの入ったビーズクッションで、柔らかく滑らかな感触が特徴的だった。
なるほど、これはクセになるな。両手いっぱい、そのクッションに抱きついて遊んでいると、ヒゲ氏は買い置きしていたらしいペットボトルのお茶と紙コップ、缶ビールを運んできた。
「ぬるくなってちゃってる。おつまみもないし。帰りに買ってくればよかったね」
別に喉は渇いてないし、最初からこんなもんだと分かっているのだから、特に気にはならない。ヒゲ氏がビールを手酌しながら、若い頃の夢はどーだったの、今でも音楽がこーだのと管を巻いているのを右から左に聞き流しながら、僕はひたすら床に転がった姿勢のまま、ビーズクッションをむにむにと揉んでいた。
「……アイツも、よくそうやってたんだっけな」
え? 誰? なんのこと? ごめん、スルーしてた。
慌てて相手の脳内をテレパシーでまさぐると、アイツとはヒゲ氏のカノジョであり、元々音楽には興味を示さず「アンタに才能は無い。いい年齢なんだから、マトモに働け」と尻を叩いており、借金が発覚するや「もう限界」と喚いたっきり音信普通になったらしい、と分かった。
思い出の品だったのか。知らなかったとはいえ、昔のことを思い出させてしまったのは、ちょっと悪かったかな。僕はクッションから体を起こし、座り直そうとしたが、肩を掴まれて押し戻される。
(相手は子供じゃないか)
そう己に言い聞かせながらも、ついフラフラと手が出てしまったようだ。こういう場合は振り払ってもいいのか、刺激しないようにおとなしくしているべきか。いくら超能力者でも、さすがに判断つきかねた。むしろ、僕自身がどうされたいのか分からなかった。
「その、ごめんな」
いや、相手もどうして己がそんな行動に出てしまったのか、この先どうしたらいいのか、よく分からない状態であるらしい。冷静さを保っている分、僕に多少のイニシアティブがある状態のようだ。肩を軽く叩いて「僕は気にしてないよ」とか「やだなぁ、重たいよ」などと言えば、冗談としてスルーされるだろうことは予想できた。そうすべきだったかもしれない。ただ、あまりにも泣きそうな顔をしていたので、笑い飛ばすのも可哀想な気がした。
生涯、誰とも恋愛をすることはないだろうと諦めている僕が、恋人に捨てられた悲しみを癒してやることができるとも思えないし、その恋人の身代わりを務めるような代償行為が果たして建設的なのかどうかも疑わしい限りだが……僕自身は彼の行動に対して、嫌悪感を感じてはいなかった。
とりあえず、落ち着いてもらおうと腕を相手の背中に回して、軽くさすってやる。
「君は、優しいね」
優しいんじゃなくて、テキトーにやりすごそうとしてるズルいヤツなんですが、ね。
上四方固めよろしくがっつりと覆い被さるように抱きつかれてしまったが、本当にイヤだと思うのなら超能力でもなんでも使って振り払える。むしろ、悪くないと心のどこかで考えていたのかもしれなかった。そうでなくては、そのまま唇を重ねられてもおとなしくしていた筈がない。息苦しかったが、逃げようとはまったく思わなかった。唇が離れ、湿った舌が軟体動物のように顎から喉を伝うと、鼻にかかった声が途切れ途切れに漏れた。
(ちょ、マジでいいのかよ。初めてじゃないのか、この子)
やっぱ少しは初々しく抵抗すべきだったかな。でも、力加減ができなくなりそうだし、いやよいやよもなんとかの芝居をするのも面倒くさいし。下手に抗って服を破いたりしたら、母さんに手間をかけさせることになるから事情説明とか厄介なことになりそうだし。むしろ肩や腰を浮かしたり、相手の服のボタンも外してやるなど、極めて協力的に振る舞った。
実際のところ、自分でもあまり意識したことはなかったが、僕は自分の全能的な能力が内心疎ましくて、それが通じない状況を好んで選ぶ傾向があるらしい。例えば、燃堂につきまとわれながらも『邪魔だから消す』というところまでは嫌いになれなかったり、直接自分の能力が関与できないテレビ番組や小説などの『創作物』を好んだり……こうして無防備に体を晒して相手の気の赴くままに弄ばれる無力感が、怖いどころか快く感じるのも、その一環なのだろう。決して自分にMの気があるわけではないと思う。
(男の子相手なんてやったことないんだけど……まぁ、女の子のお尻使うのと変わらないか)
ちょ、女相手なら尻の経験あるのか。
どうやら「カノジョ」以外にも、若い頃にロッカーを気取ってはグルーピーの女の子を食い荒らしていたようだから、そこそこ女性経験があるのだろう。ここまで零落して誰一人残ってくれなかったのは、よほど日頃から人望が無かったのだとしか思えないが。
尻を撫でられて、反射的に腰が逃げそうになった。やはり他人に尻を触られるというのは本能的に気持ち悪いものだ。だが、完全に組み敷かれた状態で抗いきれるものではない。位置を確認するようにまさぐられた末に、指先がつぷりと侵入してきた。痛いというよりは、違和感や不快感の方が強い。強引に奥まで捩じ込まれるが、抽迭できるほど緩んでいるわけでも、ぬめり気があるわけでもない。せめて押し広げようとしてか、くねらせて内側を闇雲に掻き回され、その動きに押し出されるように声が漏れた。
「気持ちいいの? これ、気持ちいいんだ?」
違う、単なる生理現象だと言い返したかったが、その喘ぎ声に阻まれてうまく言葉が紡げなかった。いつもなら声が出なくてもテレパシーで強引に意志を伝えることもできるのだが、腰の奥の異物感に圧倒されて頭の中がぐちゃぐちゃで、それもうまくいかなかった。やがて目尻から涙が溢れて、顎にも唇から溢れた唾液が伝い流れる状態になっていたようだが、それを舐めとられるまでは自覚できなかった。
なんかの本で『尻穴を征服されると完全に支配されてしまう。だから看守は囚人の尻の穴までわざと検査する』という旨の文章を読んだことがあるが、まさにこういう状態なのだろう。視界の端で、持ち上げた脚が時折痙攣しながらゆらゆらと揺れているのが見えたが、それが自分の体の一部だとは信じ難く非現実的な光景に思えた。
「可愛いね、お尻弄られるだけでイっちゃう?」
いつの間にか、汗なのか何らかの分泌物なのか分からないが、内側からぐちゅぐちゅと粘っこい水音がしている。もしかしたら、結構、乱暴に扱われた粘膜が傷ついて血が出たのかもしれない。しかし、その手を止めてほしいどころか、より強い刺激……もう少し奥の、むずがゆく感じている一点を刺激してくれれば楽になるような気がして、無意識に自分から腰を揺すっていた。
「ん? もっと? どこ? 奥? 指じゃ届かないかな? 手、離して」
そう言われてみて初めて、自分の両腕ががっしりと相手の胴に絡み付いているのに気付いた。相当力がこもっていたのか、指が強ばっていて、引き剥がすのに苦労したほどだ。むしろ、この状態でよく相手の脊髄や肋骨を折ってしまわなかったものだ。すがる相手を失った僕の手指は、代わりにクッションに食い込んでいた。
「ここ? もっと奥? 前の方? もしかして前立腺ってヤツ?」
まるで待ち構えている産婆のような格好で、押し拡げた脚の間を覗き込まれる。突っ込まれて激しくピストン運動している感覚に圧倒されて、それが指何本なのか、それとも何かの道具を使っているのかも分からなかった。
ぷち、という微かな音がして、どこか……脳の血管か腸壁でも千切れたのかと青ざめたが、次の瞬間、真っ白い雪のようなものが辺り一面に舞い上がったのが見えて、自分の内臓ではなくクッションが破けたのだと理解することができた。怪我した訳ではないことにホッとすると同時に、どこか体が緩んだ。あっと思う間もなく、腰の辺りが生温かくなる。
「あれ、気持ちよすぎて、触ってないのに出ちゃった?」
出ちゃったって何が? 失禁でもしたんだろうか。自分の体のことなのに、何がどうなったかすら、把握できない。よく分からないままに更に二度、三度と込み上げてくる尿意に似た感覚を、必死で堪える。
「我慢しなくていいんだよ、出しちゃったら楽になるから。汚しても後で掃除したらいいんだし。ん? クッション? それも気にしなくていいよ、どうせもうボロなんだから」
そう囁かれ、頭を撫でられる。
アンタいいひとだね、甲斐性なしのバカだけど。逃げた女は見る目なかったんだよ、きっと……と、伝えたかったがうまく言葉に出せなかったので、代わりに無精髭だらけの頬に口付けてやった。
「じゃあ、次は俺をヨくしてくれるかな? えーと……そういえば、名前も聞いてなかったね」
そういえば、そうだった。
名前も知らない相手にこんな姿を晒して、あまつさえ繋がろうとしているのか。いつもの僕ならとてもプライドが許さなかったかもしれないな。だが今は、今だけは……促されるまま素直に姿勢を変え、四つ這いになっていた。膝ががくがくして力が入らないが、両手で腰を掴まれるようにして強引に支えられた。剥き出しにされた口に熱いものが擦り付けられている。本当にこんな場所にこんなものが受け入れられるのかと一抹の不安を感じるが、もう引くに引けない状況だ。
「コレ入れるのは初めて? 大丈夫、痛いのは最初だけだから。リラックスして、息吐いて……」
言われる通りにしようにも、外で誰かがドアを叩いているらしく、ガンガンとひどい音がしているのが、妙に気にかかった。
「放っておこうぜ。どうせテレビの契約か、新聞の勧誘だよ」
いや、そうではなさそうだ。透視によれば、向こうに居るのは長い髪を振り乱した女だ。いくら防音工事を施しているとはいえ、所詮は安普請のプレハブ小屋。ギシギシアンアンやかましかったので、苦情のひとつも言いに来たのだろう。
「それならますます構う必要ないだろ。興醒めだなぁ、もう」
かといって、この状態で続けられるほど僕も強心臓ではない。涙目でいやいやと首を振ってみせると、言いたいことが伝わったらしいヒゲ氏は渋々起き上がって「いてて、突っ張ってやがる」などとボヤきながらパンツとズボンを履いた。
上半身は裸のまま、のっそりと出入り口に向かう。僕は服を着るべきかどうか迷ったが、段ボールの陰に隠れながら待つことにした。ただでさえ冷房のない室内で、さらに不毛な運動をしていたせいで、暑くてたまらない。頭がぼぅっとするのは、脱水症状を起こしかけているせいだろうか。
「あれ、オマエ、どうしてここに?」
素っ頓狂な声があがった。瞬間的に状況を理解してしまった僕は、紙コップに手を伸ばしたまま、固まってしまう。
いなくなったというヒゲ氏のカノジョじゃないか。いつぞやの飛び降り自殺未遂の騒動を耳にしたうえに自宅を引き払っていると知って、心配して探し回ったらしい。もう少し聞き込み範囲を広げれば、公園で気分よく『ロックの神』を歌っているノンキな姿を見つけられたろうに。
「自宅を引き払ったのに、まさかこっちを残してるだなんて思ってもみなくって、でも、ひょっとしたらって思って」
「そりゃあ、こっちを残すに決まってるだろう。歌は俺の人生、スタジオは俺の舞台なんだから」
「で、その人生の舞台に誰か引っ張りこんでるの?」
「えーと、その。友達な、友達。浮気じゃねーぞ。男の子だから」
「はぁ? とぼけないで。喘ぎ声とか丸聞こえなのよ」
「いや、それはその、エロビデオ一緒に見てたんだよ。エロビデオ。なぁ、兄弟?」
そーですか、そーですか。僕達はエロビデオを見てたんですか。ビデオデッキもDVDプレイヤーも無いんですが。
超能力で調達しようにも、何かをこちらに持ってくるためには、同価値の何かと交換する必要がある。さすがに楽器を飛ばしてしまってはカワイソウだ。売り物のCDは実際にはゴミ同然の代物。あとは破けて中のビーズが散らばってしまったソファがあるぐらいか。
このソファ……壊す前まで、いや出来る限り新品に近づくまで時間を巻き戻したら、どの程度の値段になるだろう。多分、安い小型のプレイヤーと海賊版のエロDVDを買える程度にはなるはずだ。
カノジョと顔を合わせるのはさすがに気まずいので、ノートを引っ張り出して一枚千切ると「先に帰ります」とメモだけ残しておくことにした。
汗だくのまま家に直行するのも嫌だったし、かといって公園なんかで蝶野に鉢合わせするのもゴメンだった。適当に汗が引くまで河原で風にでも吹かれておこうと決めて、テレポートした。かなり遅い時間帯の筈だが、季節柄まだ日は高く、西の空が気持ち紫がかっている程度だ。
そういえば、玄関口に靴を忘れてきてしまったな。
テレポート&アポートで回収するという手もあるが、履き古したスニーカーと見合う価値のものをわざわざ調達するのも面倒だ。ヤツがあのプレハブを離れた頃合を見計らって、瞬間移動でこっそり潜入すれば済むだろう。いや、コソコソせずに堂々と取りに行っても構わないのだけれど。
靴のことなんかよりも、見下ろした河原に点在するカップルがやたら目障りなのと、目障りだと感じる自分自身の神経にも苛立っていた。あんなもの、いつも見慣れた光景じゃないか。下等生物は下等生物同士、べたべたネチョネチョ互いのエゴ剥き出あいで発情しながら群れていたとして、それと僕に何の関係があるというのか。僕は彼らのようなパートナーを必要としていない。いや、違うな。もし必要であったとしても、現存する人類からは調達できないことを理解している、と言った方が正しい。例えるなら、トンボが尾を繋いだまま飛んでいるのを見かけたとして「ああ、秋だな」と想いはしても「きーっ、リア充めぇええ!」などと憤ることはないだろう。もし、メスのトンボがフリーの身で飛んできたとして、一体僕にどうしろというのだ。本来、僕にとって周囲の恋愛ごっこなんて、その程度のものだったはず、なのに。ヒゲ氏のことだって、そうさ。CDを売り切ったら縁を切るって、そう決めていたんだから。
仕方なく、そのまま地面に寝転がって空を見上げることにした。カップルが河原にたむろしている現実に変わりはないが、とりあえず視界からは消える。そうでもしなければ、僕は彼らを実際に『消して』しまったかもしれない。それは僕にとって、煩い蚊を叩き潰すぐらい簡単なことなのだ。それを敢えて実行しないのは『蚊も生きているから』という程度の薄っぺらい倫理観が辛うじてストッパーになっているからに過ぎない。
いや、僕は多分、まださっきの余韻で興奮しているだけなんだ。このまま雲でも眺めながら、気が静まるのを待とう。こんな河原じゃなく、いっそ、冷たい海底にでも沈んでいた方がよかったかもしれない。
「うおおーい、相棒ぉーう」
うん、海底にいるべきだったな。今からでも即、瞬間移動して逃げたいぐらいの気分だったが、一瞬早く視界に毎度おなじみの暑苦しい顔がニュッと現れた。
「やぁ、居た居た」
通常の状態でさえイラッとする燃堂の登場に、いつも以上に神経質になっている今では、顔を見るだけでもキレそうになる。警察はどうしてコイツをあっさり放逐したんだ。ついでだから、どこぞ島流しでもなんでもしてくれればいいのに。
「相棒、靴」
えっ?
あまりの唐突さに毒気を抜かれた僕の鼻先に差し出されたのは、くたびれたスニーカーだった。
「あのストーカー野郎を交番に突き出して、なんか色々聞かれて遅くなったんだけど、戻ったら相棒居なくなってんじゃん? 探してたら、オッサンに会って。相棒が忘れてったから、返しておいてくれって」
どうやらそっとしておいてくれるつもりは毛頭ないようなので、仕方なく尻についた草なんぞを払いながら、立ち上がる。
というか、公園? あのひと、公園に戻ったんだ?
「おうよ。キレイな女の人と一緒にCD売りしてた。相棒に、今までありがとうって」
くらっ、と眩暈がした。
そりゃさっさと縁を切りたいと思っていたし、CD売りの手伝いをするのもいい加減ウンザリだったし、さっきのどうせカノジョの代用扱いだったってことは理解してたわけだし、そもそもお互い本名すら知らない仲なんだから、こちらも何も思っていないつもりだった。だが、それにしても、だ。
「お、どうした? 腹でも痛いのか?」
それにしても、どうしても納得がいかない。向こうはどうやってすっきりしたのか知らないが、こっちはまだ汗も洗い流していないし、体の奥の疼きも完全に鎮まったわけではない。あの女が闖入して来なければ、今頃……と、想像するだけで全身の血が逆流しそうな気がした。
「なぁ、相棒よぉ、大丈夫か?」
燃堂が訝りながら肩に触れてくる。その大きな掌の感触に、僕の中で何かがボロッと崩れた。
もういいや、コイツでも。
いつもの自分なら『もういいやって、何がいいんだよ』とツッコむところだろうが、今はもう、ただ、人肌に触れたい一心で分厚い胸板に倒れかかった。汗じみて生臭いシャツに顔を埋め、頬に筋肉の弾力と心音を感じる。
「おっ? おおっ?」
いいから、察しろ。僕だって、好き好んでオマエを相手してんじゃなくて、たまたま誰でもいいというタイミングに、偶然オマエがそこに居ただけなんだからな。勘違いして自惚れんなよ。
この事態に己を嗤っているのか、自分が情けなくてしゃくり上げているのか。自分の横隔膜が痙攣するのが、他人事のように感じられた。ぐらり、と燃堂の体が揺れた。あっと思う間もなく、僕の体と絡み合うようにして草むらに倒れてしまう。
ふむ、思ったよりも大胆なんだな。女に好かれたことのない面構えをしてるくせに、女あしらいは慣れているんだろうか。そういえば海に行った時には、慣れた調子でナンパもしてたしな。まぁ、結局一人も引っかからなかったようだが。それはそうと、腹の上にいつまでも乗っかっていられると、さすがにちょっと重たいな。いつのまに泣いていたのか、滲んでいた涙を手の甲で拭って見上げると……燃堂はなぜか白目を剥いて、泡を吹いていた。
あれ? そういえば、さっき全力で抱きついたんだっけ。
恐る恐る、燃堂の体を地面に仰向けに転がしてみた。胴体が妙にクニャクニャしており、一部が不自然に凹んでいる。やっちまったな。どうみても肋骨と背骨がバキバキに折れて内臓もクラッシュしています、ありがとうございました……まぁ、超能力で治せるけどね。
汗が引いて頭の中も醒めてくるのを待って、僕は燃堂の体に手をかざした。
個々の傷に対処するのでは追いつかない複合的な大怪我なので、厳密にいえば怪我を治すというよりも、先ほどのクッションを修理したのと同様『怪我をする前の体まで、肉体の時間を戻す』ことにする。時間が経てば怪我まで元に戻るのではないかと心配をされるかもしれないが、わざわざ再び同じ怪我をする行為を繰り返しでもしない限り『怪我をする未来』は回避される。もちろん物体の時間を戻して修理した場合も同様の理屈で、戻した分だけ時間が経ったからといって、勝手に壊れるわけではない。時間の流れとはそういうものだ。
だったら、僕も自分自身にそれを施せば体の疼きも消せるのではないか、という意見もあるかもしれないが、僕の能力もそこまで便利ではない。
燃堂の体がその場から掻き消えた。
まだ僕自身情緒不安定で能力が制御し切れていないから、先ほどまで居た公園か、下手したら学校の下駄箱ぐらいまで遡ってしまったかもしれない。一方、記憶は脳細胞に蓄積された刺激によって生じるものだから、全身の細胞の時間が遡れば、記憶も巻き戻る。そのため再び時間が流れ出しても、意識上の断絶は(よほど周囲の環境が激変していない限り、という条件はつくが)無い筈だ。さらにいえば燃堂はバカだから、自分がそういう目に遭ったことすら気付かないに違いない。
お分かりだろうか? つまり、僕がこれを使おうと思えば、ヒゲ氏に逢う前の数時間前まで遡る必要があり、記憶もスッポ抜けてしまうのだ。あのプレハブでの出来事を忘れてしまえるのは楽なことだが、巻き戻った僕がその空白の時間の記憶を「忘れていて構わない」と判断するか「何があったのだろう」と不審がるかは分からない。メモかなにか残そうにも、メモ用紙もろとも時間を遡って「メモされる前の白紙」に戻ってしまえば意味がない。こんな能力を使うほどの何か大怪我でもしたのだろうかと気になって調べて……事実を知ってショックを受けるのもつらいじゃないか。
第一、巻き戻った先に突然湧き出た姿を誰かに見られたら、僕はイリュージョニストとして生きる羽目になる。逆にいえば、対象が僕じゃない場合は、見つかって騒ぎになっても僕の能力がバレるわけじゃないから、知ったこっちゃない。
燃堂が持ってきてくれたスニーカーを拾い上げて履き、踵を直した。
わざわざ人伝手に返してきたということは、もう僕にあそこに来て欲しくないということだろうな。いくらカッとなってやらかしたこととはいえ、一度冷静になってしまえば「なんて馬鹿なことしてしまったんだろう」とお互い気まずく感じるに違いないからだ。もちろん、カノジョが戻ってきたからには『代用品』は要らない、ということでもある。心配ご無用。僕は半径200メートル圏内の人間(※燃堂除く)は、テレパシーでその存在を感じることができる。お望み通り、一生、アンタを避けてやんよ。僕は、孤独には慣れてるんだ。
河原の風に吹かれて汗も引いたし、逆上せていた頭も冷えてきたようだ。そろそろ帰るか、とカバンを肩にかけたところで『巻き戻ってきた』燃動が「うおおーい、相棒ぉーう」などと喚きながら、こっちに駆けてきた。いや、わざわざ律儀に戻ってくんな。
「相棒、スッポンカレー食いに行こうぜ!」
そこまで巻き戻ったのか? 呆れて視線を逸らした先で、連なったアキアカネの番いが、夕陽に照らされながら川面を渡って行った。
(了)
【後書き】第8χに登場したストリートミュージシャンさんです。
才能もカネも無く簡単にダマされるほど頭も悪い、もうダメダメのダメンズです。しかもオッサンです。なんつーか、斉木君は基本的にダメんズに弱いんだな。
どう考えても単発ゲストキャラなんだろうけど、腐的には結構ツボりました。再登場……しないだろうな、うん、分かってる。
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